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第8師団 | |
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![]() 1915年(大正4年)頃の師団司令部 | |
創設 | 1898年(明治31年)10月1日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 |
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所属組織 |
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部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
所在地 | 弘前-満洲-ハバロフスク地方・アムール州-満洲-フィリピン |
編成地 | 弘前 |
通称号/略称 | 杉 |
補充担任 | 第8師管・弘前師管・弘前師管区 |
最終上級単位 | 第41軍 |
最終位置 | フィリピン ルソン島モンタルバン |
戦歴 | 日清-日露-シベリア-満洲事変-太平洋戦争 |
第8師団(だいはちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。1898年に立見尚文を初代師団長に弘前で結成。
日清戦争が終り、軍備拡張の必要性から増設された6個師団の一つで、兵士はおもに東北地方出身者から構成された。編成時の所属歩兵連隊は歩兵第5連隊・歩兵第17連隊・歩兵第31連隊・歩兵第32連隊。初代師団長は台湾総督府幕僚参謀長だった立見尚文中将。1898年11月15日に師団司令部、監督部が開庁した[1]。
勝利に終った日清戦争であるが、ロシア・フランス・ドイツによる所謂三国干渉によってロシアとの間に緊張が高まっていた。ロシアとの一戦は避けられないとの予測から陸軍は対露戦を準備し、寒冷地での訓練を第8師団に指示した。これに基づき師団は1902年(明治35年)1月八甲田山における行軍訓練を行ったが、この時死者199名という惨事を起こしている。これが八甲田雪中行軍遭難事件[2][3]である。
終戦の後もフィリピンのルバング島に残置諜者として潜伏し30年を経て帰還した小野田寛郎少尉は、辞令の上では第14方面軍司令部附であったが、同司令部情報部を通して第8師団参謀部に所属していた。小野田が主宰する小野田自然塾ホームページ[38]では自身の軍歴を第8師団の通称号である「杉」を用いて「杉兵団参謀部に配属」と紹介している[39]。