ほそかわ ガラシャ 細川 ガラシャ | |
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![]() 全像本朝古今列女伝 | |
生誕 |
永禄6年(1563年)![]() |
死没 | 慶長5年7月17日(1600年8月25日)(36 - 37歳) |
別名 | 秀林院 |
活動期間 | 戦国時代→安土桃山時代 |
宗教 | キリスト教(カトリック教会) |
配偶者 | 細川忠興(三斎) |
子供 | 於長、細川忠隆、細川興秋、細川忠利、多羅など |
親 |
父:明智光秀 母:妻木煕子 |
親戚 | 細川藤孝(幽斎)(舅) |
ガラシャ | |
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教会 | カトリック教会(キリシタン) |
洗礼名 | ガラシャ |
受洗日 | 1587年 |
細川 ガラシャ(伽羅奢[1]、迦羅奢[2]、Gracia[3])(ほそかわ ガラシャ、永禄6年(1563年)- 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。実名は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教徒(キリシタン)。
子に、於長(おちょう:前野景定正室)・忠隆・興秋・忠利・多羅(たら:稲葉一通室)などがいる。
当時のクリスチャンが名字+洗礼名で宣教師の資料に記載されていることを根拠に、クリスチャンとしては「細川ガラシャ」を称したと解する[4]学者もいるが、直接の一次資料は存在せず、早くは『中央史壇』1921年10月号西村真次「細川ガラシャ」にみることができる程度である。1920年代に教会から広まった歴史用語である可能性が高い。当時の資料では、越中殿奥方などと表記されている[5]。夫の「細川忠興」も歴史用語に過ぎず、織豊政権下では長岡越中守や羽柴丹後侍従などを名乗り、細川に改称するのは関が原以降(妻の死後)である[6]。
明智玉子が本名である[7]とされることもあるが、当時の日本では現代や古代と異なり統一的な戸籍が編成されないため、本名(=戸籍名)なる概念は存在しない[8](実名=諱とは異なる)。また古代以来の実名呼称回避の習俗の中で、若い女性が実名を名乗る場面は極めて限定される[9]。特に~子型の諱は、当時の社会通念上女性が叙位・任官の時に対朝廷の名乗りとして使われるにすぎず(その場合は本姓との組み合わせになる)、出生名に使うことは無い[10]。名字(苗字、氏)+実名=本名という名前の枠組みは近代の産物に過ぎず[11]、苗字+~子式の女性名が歴史上出現するのは江戸時代後期、本名(=戸籍名)としての公的地位を得るのは明治4年、出生名として一般化するのは明治中期以降である[12]。
本人署名は「た[13]」の一字[14]のほか、小侍従宛の手紙では「か」と署名したとおぼしき一通や、夫宛に「からしや」と明記した一通があり、当時の社会通念に照らしても、通称として洗礼名を名乗ったり呼称されていた可能性があるが、当時の公家社会にみられた夫婦同名字に則っていたと仮定した場合「長岡ガラシャ」になるため、いずれにせよ細川ガラシャという名称は妥当でないとの批判がある[15]。「明智ガラシヤ[16]」表記が採られることもあるが、明智光秀も歴史用語であり、天正3年以降名乗りは「惟任日向守光秀」であった[17]。
永禄6年(1563年)、越前国で、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれる(次女説もある[18])。
天正6年(1578年)8月、父の主君・織田信長の発案により細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興に嫁いだ[19]。信長の構想で家臣間の婚姻を統制しており、ここに主君の命令による婚姻「主命婚」が生まれたと考えられる[19]。
なお、信長が8月11日に明智光秀に出した判物がある(『細川家記』)。光秀の軍功を激賛、幽斎の文武兼備を称え、忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚であったことが知られるが、この判物の文体が拙劣で戦国期の書式と著しく異なる[20]ことから偽作の可能性が高いとされている[21]。
天正6年8月、勝龍寺城に輿入れした(『細川家記』)[22]。
天正7年(1579年)には長女(於長)が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。
勝龍寺城で2年を過ごした後、天正8年8月、夫忠興が丹後12万石を与えられたことから、丹後八幡山城、次いで宮津城に移る[22]。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が発生。その後の山崎の戦いにおいて父光秀が討たれ、明智家も「謀反人の一族」として追討により尽く誅殺される。
珠も続柄上連座を逃れなかったはずだが、忠興は彼女と離縁することはせず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した[22]。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)らの侍女達だった。
京丹後市弥栄町須川には細川ガラシャ隠棲地の碑(「細川忠興夫人隠棲地」と刻む)が建立されている[23]。
当時、離婚となると妻は里方に帰されるのが普通であった。それをしなかったのは、明智家がすぐに滅んだという事情もあるが、明智家の「茶屋」があった味土野に送られたことや、幽閉時代に子を出産していることから、忠興が珠への愛情を断ち切れなかったからではないかとの主張がある[24]。一方、珠は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論もある[25]。
天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、監視した[注釈 1]。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると心を魅かれていった。しかし改宗に至る内面的な動機は詳細不明である[27]。
天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので[注釈 2]、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。
再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた。
バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗を怒り棄教させようとしたが、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになった[27]。
九州から帰還した忠興は「5人の側室を持つ」と言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に告白した。キリスト教(カトリック教会)では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。
慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた[29]。
この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。
死の数時間後、神父ニェッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノに教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔頭・高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。法諡は秀林院殿華屋宗玉大姉。
なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した[注釈 3]。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が大坂の陣で豊臣側に与する原因となった。
石田方はガラシャの死の壮絶さに驚き、諸大名の妻子を人質に取る作戦はむやみに拡大しなかった[30]。
一般には上記の通り、玉子はキリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされる。しかし太田牛一の『関ヶ原御合戦双紙』蓬左文庫本では、自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、10歳の男児と8歳の女児を刺殺した後に自害した、とある[31]。
『言経卿記』慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時噂になっていたことが窺える[31]。また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても、三浦浄心『見聞集』には「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである[要検証 ][31]。
なお、細川家の系図(『熊本藩世系』)では忠興の12人の子のうち玉子所生は長男・忠隆(天正8年生)、次男・興秋(天正11年生)、長女・長(天正7年生、前野長重室)、三男・忠利(天正14年生)、三女・多羅(天正16年生、稲葉一通室)の5人とされており、当時13歳だった多羅に、さらに同母の弟妹がいたとは認められていない[31]。
年 | 珠の略歴 | 忠興の動向 | 実子の事績 | 備考 |
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1563年 | 越前にて出生 | 京都にて出生 | 細川京兆家の晴元死去 | |
1578年 | 長岡忠興と勝龍寺城にて結婚 | 明智珠と勝龍寺城にて結婚 | ||
1579年 | 長女・ちょう誕生 | 明智光秀、丹波平定 | ||
1580年 | 丹後・宮津城へ転居 | 父・藤孝が丹後半国を拝領 | 長男・忠隆誕生 | |
1581年 | 京都御馬揃えに参加 | |||
1582年 | 味土野に幽閉 | 父より長岡家督を継承 | 本能寺の変 | |
1583年 | 幽閉状態 | 賤ヶ岳の戦いに参加 | 次男・興秋誕生 | |
1584年 | 大坂に転居 | 小牧・長久手の戦いに参加 | ||
1585年 | 紀州征伐に参加 | 秀吉が関白就任 | ||
1586年 | 三男・忠利誕生 | 天正地震 | ||
1587年 | 大坂の教会を初訪問。受洗しガラシャと名乗る (離婚を考えるが思い留まる) |
九州征伐に参加 | 次男・興秋が受洗 | バテレン追放令発布 |
1588年 | 次女・たら誕生 | |||
1590年 | 小田原征伐に参加 | |||
1591年 | 秀次が関白就任、秀吉は太閤に | |||
1592年 | 晋州城攻防戦に参加 | 文禄の役 | ||
1593年 | 晋州城攻防戦に参加 | 文禄の役 | ||
1595年 | 忠興に信仰を告白 | 屋敷内に小聖堂を造る | 次女・たらが受洗 | 秀次事件 |
1596年 | 長女・おちょうが受洗 | 慶長大地震・サン=フェリペ号事件 | ||
1597年 | 慶長の役開始・二十六聖人の殉教 | |||
1598年 | 秀吉死去・慶長の役終了 | |||
1599年 | 三成屋敷を襲撃 | |||
1600年 | 大坂・細川屋敷にて死去 | 関ケ原の戦いに参加。長男・忠隆を廃嫡 | 三男・忠利が後継ぎとなる | |
(1601年) | ガラシャの葬儀を教会葬で行う |
ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していたが、そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容のラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア」[39]が制作されることになった。この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演された[40]。脚本は当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが作曲した。
アドルフは、この戯曲の要約文書[41]において、物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」[42]であると述べている。さらに、彼が執筆に際して直接の典拠としたのは、コルネリウス・ハザルト著「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」の独訳本[43]の第1部第13章、「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」[44]であったことをも明記している。
戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれている。夫である蒙昧かつ野蛮な君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きである。この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれたとされる。