翁 文灝 | |
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1937年撮影 | |
プロフィール | |
出生: |
1889年7月26日 (光緒15年6月29日) |
死去: |
1971年1月27日(81歳没) 中華人民共和国 北京市 |
出身地: | 清 浙江省寧波府鄞県石塘(現・寧波市海曙区高橋鎮) |
職業: | 地質学者・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 翁 文灝 |
簡体字: | 翁 文灏 |
拼音: | Wēng Wénhào |
ラテン字: | Weng Wen-hao |
注音二式: | Wūng Wénhào |
和名表記: | おう ぶんこう |
発音転記: | ウォン・ウェンハオ |
英語名: | Wong Wen-hao |
翁 文灝 | |
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研究分野 | 地質学 |
研究機関 | 北京大学、清華大学 |
出身校 | 震旦学院、ルーヴェン・カトリック大学 |
プロジェクト:人物伝 |
翁 文灝(おう ぶんこう)は、中華民国・中華人民共和国の地質学者・政治家。国際的にも優れた地質学者であり、また、憲政期の中華民国政府で初代行政院長を務めた。字は詠霓・永年。号は君達。なお従弟の翁文波も地質学者・物理学者として著名である。
祖父の翁歩雲は清朝の内閣中書を務めた人物である。翁文灝は、1902年、13歳で秀才となり、1906年(光緒32年)に上海の震旦学院でフランス語・数学等を習得する。1908年(光緒34年)、ヨーロッパに留学し、ベルギーのルーヴェン・カトリック大学に入学して、地質学(特に岩石学)を専攻した。1912年(民国元年)、中国史上初の地質学博士となった[1][2][3]。
帰国後は北京政府で地質学の専門家として各職を歴任し、1921年(民国10年)、丁文江の後任として農商部地質調査所長に就任した。その翌年には、中国地質学会副会長に就任している。1924年(民国13年)、北京大学・清華大学で教授となった[4]。その後も、国内各地で実地調査を進め、地質学・鉱物学・地震学・地理学等の様々な分野において多くの論文・著作を発表した。1934年(民国23年)には中国地理学会の初代会長に選出された。さらに、国際地質学会でも副会長を務めたほか、海外の大学からさまざまな栄誉を受賞している[5][2][3]。
1932年(民国21年)、蔣介石の招聘を受けた翁文灝は、蔣介石のために国内鉱物資源分布等について教授する。翁文灝の才識に賛嘆した蔣介石は、1935年(民国24年)12月、翁文灝を行政院秘書長に起用した。さらに、翁文灝は国際的な交友関係を生かして、欧州各国の経済界首脳と様々な交渉を担当している[6][2][3]。
日中戦争(抗日戦争)期には、翁文灝は国民政府経済部部長に任じられ、さらに資源委員会主任委員、工鉱調整処処長、戦時生産局局長などの実業部門主管を歴任した。翁文灝率いる資源委員会の専門家たちは、中国国内の生産や資源配分等の後方支援で大いに活躍している。1938年に翁文灝は中国国民党に加入し、1945年(民国34年)5月、翁文灝は中国国民党の中央執行委員に選出された。さらに行政院副院長にも任命されている[7][2][3]。
日中戦争終結後の1946年(民国35年)6月に中国石油公司が設立されると、翁文灝が董事長兼総経理に就任した。1948年(民国37年)5月、蔣介石が総統に選出されると、翁文灝が行政院長に昇格した。なお翁文灝は、中華民国憲法施行(「行憲」)後としては、初代の行政院長である[8][2][3]。
翁文灝は国共内戦下での経済混乱の収拾に努力した。しかしその規模は、もはや翁文灝にも如何ともし難い水準にあった。金円券発行などの様々な施策も空しく、同年11月、混乱収拾を成し得なかった責任を取り、翁文灝は行政院院長を辞任した。同年12月、翁文灝は中国共産党から国民党政権における43人の戦犯の1人として指名されている。1949年(民国38年)2月、翁文灝は代理総統李宗仁により総統府秘書長に再起用された。しかし、政務への意欲はもはや無かった[9][2][3]。
国民党敗北直前の同年10月、翁文灝はフランスへ去り、後にアメリカへ向かった。しかし1950年冬、毛沢東・周恩来の招聘を受けて、翌年3月に帰国している。帰国後は戦犯として罪を問われることもなく、国民政府時代と同様に専門家として優遇された。中国国民党革命委員会(民革)中央常務委員、第2期から第4期の中国人民政治協商会議全国委員会委員等を歴任している。また、地質学界に復帰して研究にも専念した。1971年1月27日、北京で病没。享年83(満81歳)[10][2][3]。
他多数。
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