花鳥画(かちょうが)とは、はじめ中国で体系化され、その後朝鮮や日本にも広まった画題のひとつ。ただし必ずしも画題が花と鳥に限定されるものではなく、草木、虫、水生生物、時には小動物も含まれる。
花や鳥を描く行為そのものは、おそらく人類の歴史とともに古い。中国でも土器、青銅器、画像石に文様としては描かれている。しかしながら、花鳥画が世俗画の重要なジャンルとして画人たちに認識されるようになったのは、中国においては六朝期から唐代にかけてのことである。墳墓より数例の出土があるのみで唐代の伝世品は皆無であるが、当時の主たる画人と画業については伝承記録が残されている[1]。
その後、唐末から五代時代にかけて活躍したとされる黄筌(こうせん)と徐熙(じょき)の画業を基礎として、花鳥画は最初の体系化がなされる。彼らの確実な真筆も残されてはいないが、画題、画法、様式のいずれにおいても対立的なものと捉えられる両者の画風は、しばしば、「富貴」の黄氏体、「野逸」の徐氏体として総括され、その後の花鳥画の二極の範となった。郭若虚は黄徐の二体について、黄筌は蜀に事えて待詔となり、禁中に給事して禁裏所有の珍禽、瑞鳥、奇花、怪石を画いたが、徐熙は江南の處士で志節高邁、放達不覊、多く江湖にある汀花、野竹、水鳥、淵魚を画題にした。よって黄徐二体の相違は、両者の耳目に慣れた自然の風物の相違によると共に、これを心手に表現する技術、および両者の志の相違にもとづくと述べる。また翎毛において、黄筌の描写を「骨気は豊満を尚び、天水に色を分つ」、徐熙の描写を「形骨軽秀を貴び、天水色を通ず」と表現し、この両者の描写方式の長短を「大抵江南の芸は骨気は多く蜀人に及ばず、瀟洒はこれに過ぐ」と論じた[2]。
北宋時代、花鳥画は翰林図画院(かんりんとがいん)を中心に院体画としてさらに体系化された。黄氏体を主調とするその初期の様式は、鉤勒(勾勒)填彩(こうろくてんさい)という細緻な輪郭線による区画に色を埋める画法であり、細密描写に重きを置くものであった。他方で、輪郭を加えず色彩の面や筆のタッチで表現する没骨法をもちい、精緻よりは豪毅、写生よりは写意、静謐よりは律動を旨とする徐氏体は、院体画にも次第に吸収されるが、むしろ宮廷外の士大夫や僧侶の間で愛好され、文人画の伝統へと連なってゆく。
北宋最後の皇帝徽宗(きそう)の治世に至って、院体花鳥画は一旦の完成期を迎える。花鳥画をことに好んだ徽宗は、みずから画才にも恵まれており、画人の保護と指導に努めた。院体画の伝統は北宋の滅亡と徽宗の拿捕の後にも、南宋で再興された画院を中心として継承され、元から明にかけての花鳥画の主流を形成していった。
明の中期あたりから、「在野」の伝統を継承してきた文人画が大きな勢力となり、なかでも沈周(しんしゅう)を祖とする呉派(ごは)の隆盛は著しく、画院を拠点とする浙派(せっぱ)を圧倒するまでになる。清の時代に至ると呉派は画院の中心勢力となり、「正統派」として教条化されることとなった。
花鳥画は、花や鳥を主としてさまざまな動植物が描かれるが、定型化した画題と構成を持つ作品(藻魚図、蓮池水禽図など)が宋代以降民間に広く流通した。題材の持つ隠しテーマや言葉遊びが共有され、芸術性、装飾性の高さとそれ以上に題材の持つ寓意が喜ばれた。そこには伝統的価値に基づく現実的な幸福(富裕、長寿、子孫繁栄…)と、士大夫の理想や価値観が重なり、雅と俗の寓意の込められた花鳥画は、文人同士の贈答品として使われ鑑賞された[1]。以下に寓意の例をあげる。