『荘子』(そうじ、そうし)は、荘子(荘周)の著書とされる道家の文献。現存するテキストは、内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇の三十三篇で構成される。
現在の学界では『荘子』は、内篇のみが荘周その人による著書で、外篇と雑篇は後世の偽書であるとの見方が主流であるが、確証はない。なお、古代では、全篇が荘周の真作であるとされており、それを疑ったのは蘇軾が最初であった。『史記』「老子韓非列伝」によれば『荘子』の書は十万余字であった。『漢書』「芸文志」によれば、元は五十二篇あったという。
金谷治の説では、これらの篇が『荘子』として体系化されたのは『淮南子』を編集した淮南王劉安のもとと推測される。老子と荘子をまとめて「老荘」と称すのも『淮南子』からである。
晋代、郭象は漢の時代の荘子テキストを分析して、荘周の思想と異なるものが混じっていたために10分の3を削除して、内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇にまとめ、現在の三十三篇に整備した。それが現行の定本となっている。現在の字数は約6万5千字である。郭象はまた『荘子注』という注釈書も残した。
唐の時代、道教を信仰した玄宗皇帝によって荘子に「南華真人(南華眞人)」の号が贈られ、書物『荘子』も『南華真経(南華眞經)』と呼ばれるようになった。
「老荘」といわれるように、老子と荘子の間には思想的なつながりがあると思われがちだが「内篇」についてはない。のちに前述の淮南王劉安のところで『老子』と『荘子』が結びつけられ、外篇、雑篇の中にはその路線で書かれたものもある。
一方『論語』など儒家の文献を荘子が読み込んでいたことは『荘子』の中に孔子がたびたび登場することからわかる。儒家の中でも、同時代の孟子などとは繋がりがなかったようである。
列子(列禦寇)は荘子の先輩の道家思想家である。『荘子』の中にも列子が出てくる話がある。ただ現在残る『列子』は道教的でありながらも眉唾とも見られる話もしばしば載る書物であり、列子その人の作とは考えられない。『列子』と『荘子』の間には同じ話が出てくるが、おそらく『荘子』の方が先で、『列子』がそれを取り込んだのであろうと考えられる。
『荘子』は特に晋代に好まれた。竹林の七賢の一人阮籍は、もっとも老荘を好んだと『晋書』に記されている。荘子のテキストが確定したのも晋代である。
『荘子』は中国や日本の文学者に広く愛読され、李白・杜甫・蘇軾・魯迅・卜部兼好・松尾芭蕉・服部南郭などが影響を受けている。佚斎樗山『田舎荘子』など近世文学の談義本にも影響を与えた。湯川秀樹は荘子を好み、学会の席上で荘子を論じたこともある。福永光司の訳と研究が有名である。
郭象注以外の主な注釈書として、唐の成玄英『荘子疏』と、陸徳明『荘子音義』(『経典釈文』所収)がある。清末の郭慶藩『荘子集釈』は、これら三つと清朝考証学の成果をまとめたものであり、中華書局『新編諸子集成』に収録され、専門家に親しまれている[1]。
郭象以前では、崔譔・向秀・司馬彪の注が断片的に伝わる[2]。上記の淮南王のもとでは『淮南王荘子略要』等が作られたが現存しない[3]。宋の林希逸『荘子口義』は、江戸時代日本で広く読まれた。明の焦竑『荘子翼』は、明治時代に冨山房「漢文大系」に収録された[1]。『封神演義』の著者の一人とされる明の陸西星には『荘子副墨』がある。その他、清の王夫之『荘子解』、王先謙『荘子集解』、民国の馬叙倫『荘子義証』、銭穆『荘子纂箋』などがある[1]。
日本では、清原宣賢や惟肖得巌の抄物を先駆として、松永尺五・五井蘭洲・中井履軒らが注釈書を著している[1]。
20世紀から21世紀、『老子』が馬王堆帛書や郭店楚簡の発見により研究が進んだのに対し、『荘子』はそれほどの発見は無い。
上博楚簡『顔淵問於孔子』は、その内容から荘周後学の著作とする推測がある[4]。
『荘子』は無為自然を説く。ただしその内容は、各篇によってさまざまである。
森三樹三郎によれば、内篇では素朴な無為自然を説くのに対し、外篇、雑篇では「有為自然」すなわち人為や社会をも取り込んだ自然を説いているという。
雑篇になると、たとえば「譲王篇」「盗跖篇」「説剣篇」「漁父篇」のように、あきらかに荘子本来の思想ではないものも混じっている。
固有名詞をまったく使わない『老子』と違って『荘子』の中には実在の人物のエピソードが数多く含まれている。もっともそれらのほとんどは寓言であり、歴史的資料になるものではないが、当時の風俗を知る上で貴重な資料となっている。登場回数が多いのは孔子とその弟子たちで『荘子』では、孔子は道化役にも、尊敬すべき人ともされている。
現行本の最終篇(第33篇)「天下篇」は、特殊な篇であり、荘周門人が諸子を批評する篇である[5]。現代では中国哲学史の重要資料(学説誌)として読まれる[5]。似た例に、『荀子』非十二子篇、『韓非子』顕学篇、『呂氏春秋』不二篇、『淮南子』要略篇、司馬談『論六家要旨』がある。
天下篇は全7段からなる[5]。
荘周でなく名家が一番最後、という不自然な配置から、第7段は本来「恵施篇」として独立していた(52篇本が33篇本になる過程で天下篇に混入した)、とする説もある(武内義雄・馬叙倫・王応麟らの説)[6]。ただし、恵施は荘周の友人として『荘子』に頻出することなどから、この配置に意味があるとも考えられる[5]。