荷田春満像 | |
人物情報 | |
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生誕 |
寛文9年1月3日(1669年2月3日) 日本 |
死没 |
元文元年7月2日(1736年8月8日(67歳没)) 日本 |
両親 |
父:羽倉信詮 母:貝子 |
子供 | 荷田在満(養子) |
学問 | |
時代 | 江戸時代中期 |
研究分野 | 国学 |
主要な作品 |
『万葉集僻案抄』 『創学校啓』など |
影響を受けた人物 | 契沖 |
影響を与えた人物 | 賀茂真淵 |
荷田 春満(かだ の あずままろ、寛文9年1月3日〈1669年2月3日〉- 元文元年7月2日〈1736年8月8日〉[1])は、江戸時代中期の国学者・歌人。通称は羽倉斎宮(はくら いつき)[2]。初名は信盛と称し[2]、のちに東丸[2]。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人とされる[3]。
荷田春満の父は伏見稲荷神社(現在の伏見稲荷大社)の社家で御殿預職の羽倉信詮(はくら のぶあき)であり[2]、母は細川忠興の家臣深尾氏の娘貝子である[2]。
荷田春満は契沖の『万葉代匠記』などを学び、国家意識を強くして古典および国史を学び古道の解明を試みた結果、『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築き、復古神道を提唱するなどの業績を残した[4]。享保13年(1728年)には、著作『
近世らしい合理性・実証性を持ちつつ、中世風の家学を守る意識も強く、家を興そうとする気概があった人物であった[2]。
荷田春満の著述は、業半ばで倒れたため未定稿のものが多い[2]。主な著書に『万葉集僻案抄』『春葉集』『創学校啓』『伊勢物語童子問』などがある[2]。
寛文9年に京都において神官の子として生まれる。元禄10年(1697年)より妙法院宮尭延法親王(霊元天皇第5皇子)に仕官したが[2]、元禄12年(1699年)に暇をもらい[2]、元禄13年(1700年)3月には勅使として江戸へ派遣された大炊御門経光に随伴して一緒に江戸へ下向した。経光は役目を終えると早々に帰京したが、春満はそのまま江戸へ残らせてもらい、江戸の武士たちに歌学や神道の教授を行うようになった[2]。この教授によって名を知られるようになる。
正徳3年(1713年)4月に一度帰京しているが[2]、10月に江戸へ戻る。この滞在中に長岡藩牧野家に招聘されて一度は固辞するも[2]、老母を養うために長岡藩主牧野忠辰より五人扶持を支給された[2]。正徳4年(1714年)8月に帰郷し、母の死後、享保7年(1722年)に江戸へ再び戻る[2]。同年6月に富士信章の招きに応じて富士大宮に滞留し、この際に富士登山を行っている[6]。
享保8年(1723年)徳川吉宗の上意により有職故実に関する「御尋之義一々御返答」を提出し[2]、吉宗から祐筆の下田師古に和学を相伝すべしと命じられる[2]。同年6月に役目を終えて帰郷[2]。帰京後もたびたび吉宗の下問に応じていたが、享保13年(1729年)9月に養子の荷田在満が職務に当たることになった[2]。この時期、国学の学校建設の必要性を述べた『創学校啓』を吉宗に提出した[2]。
享保11年(1726年)に胸を患い[2]、享保15年(1730年)には中風にかかり[2]、元文元年(1736年)に死去した[2]。享年68。
昭和3年(1928年)から昭和7年(1932年)にかけ、当時の官幣大社稲荷神社編により吉川弘文館で『荷田全集』全7巻が刊行された。平成2年(1990年)に名著普及会で復刻されている。昭和19年(1944年)に同じく稲荷神社により『荷田春満全集』(全10巻)が企画されたが、当時の情勢により第4、5、6、10巻のみ東京の六合書院で刊行された。吉川版も未完結であった。
國學院大學の百二十周年記念事業の一環として、文学部教授の根岸茂夫を代表に「近世国学の展開と荷田春満の史料的研究」の企画が立ち上がり、平成15年(2003年)6月より『新編 荷田春満全集』(全12巻)が、おうふう(旧名は桜楓社)で刊行開始、平成22年(2010年)2月に完結した[12]。