荻野 吟子(おぎの ぎんこ〈戸籍上の本名:荻野ぎん[6]〉、1851年4月4日〈嘉永4年3月3日〉 - 1913年〈大正2年〉6月23日)は、近代日本における最初の女性の医師である[1][2]。女性運動家としても知られる[1][2]。
なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していた[注 1]。西洋医学を学んだ女性医師としてはシーボルトの娘・楠本イネ(1827年 - 1903年)がいる[9]。
「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」
この文面より吟子の万策尽きた様子が伺われるが、開業への思いは強く最後の手段として外国での資格取得も考えていたようである。
前例がないという理由で開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した実業家の高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して内務省衛生局局長、長与専斎を紹介。吟子は好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『令義解』という奈良時代の書物に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ[9]、このことを強調し請願をした[8](女医 (律令制)も参照)。併せて高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に持たせた。吟子に依頼を受けた石黒忠悳も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と食いさがったそうである。こうして吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになり、1884年(明治17年)に「女医公許」が決定しようやく受験が認められる。
- 1884年(明治17年)9月 - 医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験、吟子1人のみ合格。
- 1885年(明治18年)3月 - 後期試験を受験し合格[5]。同年5月、湯島三組町に診療所「産婦人科荻野医院」を開業[4][11]。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して15年が経過していた。そのときすでに父はもとより、母も前月に他界していた。吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。診療所は、繁盛し場所が手狭なため、翌年下谷に移転する[3][5]。
- 開業当初は第1号女医と新聞や雑誌にもてはやされ、一時は患者にあふれたものの、当時は中産階級以下の者は医者にかかることなく祈祷師や民間療法に頼る時代で、また保険医療もなく、たとえ患者として受診した者に対しても、高額になる医療費を全ての者に全部支払ってもらうことなど出来ない時代であった。その上、女性医師は信頼できないという者が多く、医業では成功しなかったとされる。しかし、女性に対して医術開業試験への門戸を開いたという意味で、荻野は重要な人物である。
埼玉県では、吟子にちなんで男女共同参画の推進に顕著な功績のあった個人や団体、事業所に「埼玉県荻野吟子賞」を贈っている[15]。これまでの受賞者は以下の通りである[16]。
- 第1回(平成17年度)
- 天沼裕子(指揮者、作曲者)
- 高澤英子(藍染作家)
- 平敷淳子(医師)
- SWS
- 特定非営利活動法人ふじみの国際交流センター
- 有限会社メロード
- 大宮予備校
- 株式会社埼玉りそな銀行
- 第2回(平成18年度)
- 第3回(平成19年度)
- 河端静子(埼玉県障害者協議会会長)
- 塩浦綾子(旅客自動車運送業経営)
- 中井広恵(日本女子プロ将棋協会代表理事)
- 樋口久子(日本女子プロゴルフ協会会長)
- 上里町女性会議
- 鶴ヶ島市ひまわり会
- 特定非営利活動法人わこう子育てネットワーク
- 第4回(平成20年度)
- 青野輝子(元タクシー運転手)
- 木村弘子(技術士)
- 山田香織(盆栽家)
- 埼玉中小企業家同友会 女性経営者クラブ・ファム
- 結木の会(林業)
- 石坂産業株式会社(産業廃棄物処理業)
- 医療法人慈正会 丸山記念総合病院
- 医療法人 土屋小児病院
- 第5回(平成21年度)
- 相原香保留(少年警察ボランティア)
- 島田由美子(NPO法人理事長)
- 白石光江(養豚経営者)
- 堀内壽子(警察犬訓練士)
- 社団法人 日本助産師会埼玉県支部熊谷地区
- 特定非営利活動法人 ミランクラブジャパン
- 医療法人顕正会 蓮田病院
- 津田工業株式会社(製造業〈塗装〉)
- 第6回(平成22年度)
- 髙崎絹子(大学教授)
- 野村路子(作家)
- 女性問題学習グループなの花会
- 株式会社ヤオコー
- 株式会社リケン 熊谷事業所
- 第7回(平成23年度)
- 第8回(平成24年度)
- 田部井淳子(登山家)
- 碓井美由紀(エンジニア)
- 金子友紀(人形師)
- 社会福祉法人杏樹会
- 株式会社武蔵野銀行
- 第9回(平成25年度)
- 平間保枝(社会起業家)
- SHIORI(フードコーディネーター)
- 社会福祉法人熊谷福祉会
- 株式会社コマーム
- 第10回(平成26年度)
- 栗原慶子(林業家)
- 貫井香織(農業者)
- 村上暁子(酒職人)
- 株式会社クリタエイムデリカ
- 松坂屋建材株式会社
- 第11回(平成27年度)
- 尾池富美子(NPO法人代表)
- 合同会社ままのえん
- 来栖智香子(足袋職人)
- 鈴木美緒(介護・保育施設経営)
- 株式会社ピックルスコーポレーション
- 増木工業株式会社
- 第12回(平成28年度)
- 第13回(平成29年度)
- 第14回(平成30年度)
- 第15回(令和元年度)
- 岡田麿里(脚本家、映画監督)
- 石田七瀬(ものづくりコーディネート会社経営)
- 吉川由美(ブランドアンバサダー)
- 田部井建設株式会社
- 戸田中央医科グループ
- 第16回(令和2年度)
- 第17回(令和3年度)
- 佐藤麻里子((有)佐藤酒造店杜氏)
- サイタマ・レディース経営者クラブ(女性経営者異業種交流団体)
- 山守瑠奈(京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所助教)
- 有限会社福祉ネットワークさくら(福祉サービス事業)
- 株式会社矢口造園
- 女医になる前の3年間の通学は、はかま姿で高下駄を履いていた。その頃は女医は認められていないため、ヘアスタイルはショートカットで、男性と同じ髪型であった。
- 埼玉県にある「埼玉郷土かるた」には荻野吟子に関する札(お 荻野吟子/日本の女医/第一号)が存在し[17]、「めぬま郷土かるた」にも(お 荻野吟子/俵瀬生まれの/女医一号)が存在する[3]。
- 旧俵瀬村の葛和田の渡し(赤岩の渡し - 千代田町)の対岸の光恩寺に、荻野家の長屋門が「瓦葺き」(本来は藁葺き)で復元されている。
- 東京新聞「特集 荻野吟子」2013年6月23日 山下祐樹「三本杉岩を眺めながら」