人物情報 | |
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生誕 |
1855年3月17日(安政2年1月29日) 江戸幕府 武蔵国江戸鍛冶橋(現・東京都中央区八重洲) |
死没 |
1917年8月19日(62歳没) 日本 神奈川県高座郡茅ヶ崎町(現・茅ヶ崎市) |
国籍 | 日本 |
出身校 | ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ |
学問 | |
研究分野 | 数学 |
研究機関 | 東京大学理学部→帝国大学理科大学→東京帝国大学理科大学 |
学位 |
文学修士(ケンブリッジ大学・1877年) 理学博士(日本・1888年) |
称号 |
マンチェスター大学名誉法学博士(1907年) グラスゴー大学名誉法学博士(1907年) ラトガース大学名誉法学博士(1910年)[1] 東京帝国大学名誉教授(1901年) 京都帝国大学名誉教授(1913年) |
学会 |
帝国学士院 東京数学物理学会 |
署名 | |
菊池 大麓 | |
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第16代文部大臣 | |
内閣 | 第1次桂内閣 |
在任期間 | 1901年6月2日 - 1903年7月17日 |
在任期間 | 1912年5月8日 - 1917年8月19日 |
選挙区 | (勅選議員) |
在任期間 | 1890年9月29日[2] - 1912年5月15日 |
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日(安政2年1月29日) - 1917年(大正6年)8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。
東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。
蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸天神下(現・新宿区喜久井町)の津山松平家の下屋敷に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。
蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)に幕府派遣で、1870年(明治3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。2度目の留学ではケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで数学と物理学を学び学位を取得した。ケンブリッジ大学を卒業した初めての日本人留学生となった[3]。帰国後の1877年(明治10年)、東京大学理学部教授となり、近代数学を初めて日本にもたらし、理学部における数学教育は外国人教師によるものでなくなる[4]。同大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長等を歴任し、1902年(明治35年)には男爵を授爵された。福澤諭吉とは知己の仲で、1874年(明治6年)には福澤に招聘されて明六社に参加、福澤がその後に設立した交詢社にも発足時常議員としてもその名を連ねている。1889年(明治22年)には帝国学士院の前身・東京学士会院会員に選任された。
英国留学中には高校大学を通じて相関係数で有名なカール・ピアソンと同窓で親友となり、帰国後ピアソンの編集した本を日本で翻訳出版している[5]。1884年には、グリニッジ子午線を経度0と決めた国際子午線会議に日本の代表として出席している。
菊池は数学者・教育者であるとともに政治的手腕もあった。1890年(明治23年)9月に貴族院勅選議員に勅任されると研究会に所属して、1912年(明治45年)5月に枢密顧問官に勅任されて議員辞職するまで22年間国政に参画した[6]。この間、文部省では専門学務局長から、1897年(明治30年)11月から翌年5月まで第2次松方内閣から第3次伊藤内閣にかけての文部次官となり、浜尾新・西園寺公望・外山正一の3大臣を補佐、1901年(明治34年)6月には第1次桂内閣の文部大臣を拝命して翌年7月まで国政の枢機に携わった。1913年(大正2年)6月には京都帝大の名誉教授となっている[7]。 枢密顧問官は1917年(大正6年)8月に死去するまでつとめている。このほか帝国学士院でも1909年(明治42年)に第2代院長に選ばれ、死去するまでその任にあった。
1917年(大正6年)7月下旬より避暑で茅ヶ崎の別荘を訪れていたが、同年8月19日に新聞を読んでいる最中に脳溢血を起こし、医師による応急治療を受けたがそのまま死去[8]。墓所は谷中霊園。
ケンブリッジ大学時代は数学で常に首席を占めていたため、他のイギリス人学生から嫉視されていた。あるとき大麓が風邪をこじらせて入院すると、イギリス人学生たちは示し合わせて大麓が欠席中の講義ノートを彼に貸さないことにした。それによっていつも2番目の成績だったブラウンという秀才を首席に押し出そうという企みだったが、当のブラウンは病院の大麓を毎日見舞って清書した当日のノートを彼に渡していたため、結局大麓の首位は動かなかった。大麓はその後ことあるごとに「ブラウンの高潔なイギリス魂ほど私を深く感動させたものはない」と当時を回想していたという[9]。
この留学中の1872年にはラグビーの試合に出場したことが記録に残っており、菊池が日本人初のラグビープレイヤーだったことも想像に難くない。
公職 | ||
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先代 加藤弘之 |
教科用図書調査委員会会長 1915年 - 1917年 |
次代 小松原英太郎 |
先代 真野文二 |
震災予防調査会会長 1913年 - 1917年 |
次代 大森房吉 会長事務取扱 |
先代 (新設) |
理学文書目録委員会会長 1901年 |
次代 山川健次郎 |
先代 加藤弘之 |
震災予防調査会長 1893年 - 1901年 |
次代 辰野金吾 |
先代 都筑馨六 |
文部次官 1897年 - 1898年 |
次代 小山健三 |
学職 | ||
先代 寺尾寿 田中舘愛橘 藤沢利喜太郎 山川健次郎 山川健次郎 山川健次郎 |
東京数学物理学会委員長 1897年 - 1898年 1895年 - 1896年 1893年 - 1894年 1890年 - 1891年 1888年 - 1889年 1886年 - 1887年 |
次代 田中舘愛橘 寺尾寿 田中舘愛橘 寺尾寿 山川健次郎 山川健次郎 |
先代 (新設) |
帝国大学理科大学長 1886年 - 1893年 東京大学理学部長 1881年 - 1886年 |
次代 山川健次郎 |
先代 (新設) |
帝国大学工科大学長心得 1886年 東京大学工芸学部長心得 1885年 - 1886年 |
次代 古市公威 工科大学長 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
小石川区教育会会長 1905年 - 1917年 |
次代 田尻稲次郎 |
先代 田口卯吉 |
本郷区教育会会長 1904年 - 1909年 |
次代 辻新次 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 菊池(大麓)家初代 1902年 - 1917年 |
次代 菊池泰二 |