くらはら これよし 蔵原 惟繕 | |||||
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キネマ旬報社『キネマ旬報』430号(1967)より | |||||
本名 | 蔵原 惟繕(同じ) | ||||
生年月日 | 1927年5月31日 | ||||
没年月日 | 2002年12月28日(75歳没) | ||||
出生地 | ボルネオ島 サラワク王国クチン市(現・ マレーシア サラワク州クチン) | ||||
死没地 | 日本 神奈川県横浜市 | ||||
国籍 | 日本 | ||||
職業 | 映画監督 | ||||
ジャンル | アクション、紀行 | ||||
活動期間 | 1952年 - 2002年 | ||||
配偶者 | 宮城野由美子(1956年 - 2002年) | ||||
著名な家族 |
いとこおじ(蔵原惟人) 実弟(蔵原惟二) | ||||
主な作品 | |||||
『憎いあンちくしょう』 『黒い太陽』 『海へ 〜See you〜』 『必殺シリーズ』 『南極物語』 | |||||
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蔵原 惟繕(くらはら これよし、1927年5月31日[1] - 2002年12月28日[1])は、日本の映画監督。文芸評論家・蔵原惟人はいとこおじ[2]、映画監督・蔵原惟二は実弟にあたる[2]。
父親は鈴木商店の傍系会社・日沙商会の農業技師で[2]、ボルネオ島のサラワク王国クチン市(現・マレーシアのサラワク州クチン)のゴム園で働いているとき[2]、当地で出生[2]。小学時に日本に戻り東京の田園調布小学校に入学[2][注 1]。小学4年のとき、兵庫県神戸市に移り、御影第三小学校に転校[2]。関西学院中等部終了後、海軍特別幹部練習生となる[4]。入隊して広島県賀茂郡郷原村(現呉市郷原)で陸戦訓練中に広島原爆を目撃[2][注 2]。
戦後復員し、家族の疎開先、徳島県海部郡川上村で農作業をした後、日本大学三島予科に入学、のち日本大学芸術学部映画科に進んだ[4]。大学在学中に本多猪四郎の紹介で、山本嘉次郎の家に書生として住み込む[4]。
1952年、大学卒業と同時に松竹京都撮影所に入社し、助監督を務める。1954年日活の製作再開で同社に移り、滝沢英輔、中平康、鈴木清順らの助監督を務める[2]。1957年、石原裕次郎主演の『俺は待ってるぜ』で監督デビュー。大胆なカメラアングルとカメラワークで注目を浴びる。以後、石原裕次郎、浅丘ルリ子の主演作を数多く撮る。浅丘とは愛人関係にあった[7]。また河野典生の短編「狂熱のデュエット」を映画化した1960年の作品『狂熱の季節』、「腐ったオリーブ」を映画化した1964年の作品『黒い太陽』は日本ヌーヴェルヴァーグとして注目された[8]。なお、『狂熱の季節』は蔵原の他の4作品(『ある脅迫』『憎いあンちくしょう』『黒い太陽』『愛の渇き』)とともにアメリカのCriterion CollectionよりDVD化されている。
1967年フリーとなる。以降、石原プロモーションの『栄光への5000キロ』をはじめ、『キタキツネ物語』、『青春の門』、『海へ 〜See you〜』などの大作、話題作を次々と送り出す。特に1983年に公開された『南極物語』は配給59億円の大ヒットを記録し、1997年に宮崎駿監督『もののけ姫』が更新するまで、日本国内での日本映画の配給収入歴代1位の座を保持していた。上記作品や『陽は沈み陽は昇る』『ストロベリー・ロード』など、長期ロケ、海外ロケを構えた作品が非常に多い。
1991年紫綬褒章[1]、1997年勲四等旭日小綬章[1]受章。
2002年12月28日午後9時48分、肺炎のため神奈川県横浜市金沢区の病院で死去[9]。75歳没。2003年2月19日にお別れの会が行われた。
蔵原惟元 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松代 | 惟昇 | しう[家 1] | 惟郭 | イク[家 1] | 惟暁[家 2] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟人 | 惟賢 | 惟門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟繕 | 惟二 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||