薛篤弼 | |
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国民政府時代の薛篤弼 Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: | 1892年(清光緒18年) |
死去: |
1973年7月9日 中華人民共和国上海市 |
出身地: | 清山西省解州 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 薛篤弼 |
簡体字: | 薛笃弼 |
拼音: | Xuē Dǔbì |
ラテン字: | Hsueh Tu-pi |
和名表記: | せつ とくひつ |
発音転記: | シュエ ドゥービー |
薛 篤弼(せつ とくひつ、1892年 - 1973年7月9日)は、中華民国・中華人民共和国の政治家。北京政府・国民政府(中国国民党)に属し、馮玉祥の配下でもあった。字は子良。
公立山西法政学校を卒業し、1911年(宣統3年)に中国同盟会に加入した。1912年(民国元年)の中華民国成立直後は、山西省で審判庁の役職を歴任する。
1914年(民国3年)、馮玉祥率いる陸軍第16混成旅で秘書長兼軍法処処長に任ぜられ、以後、薛篤弼は馮配下として活動する。馮が陝西督軍になると、薛は陝西省内で県長を歴任する。1922年(民国11年)4月、署理陝西省財政庁庁長に任ぜられた。翌月、馮が河南督軍に転じたため、薛もそのまま署理河南省財政庁庁長に横滑りしている。
1923年(民国12年)1月、薛篤弼は北京政府中央に召還され、署理司法部次長に任命された。3月、蒙疆善後委員会委員に任ぜられている。5月に国務院秘書長暫定代理、7月に京師税務監督暫定代理も兼ねた。翌年9月、内務部次長となっている。馮玉祥による北京政変(首都革命)勃発後、薛は王芝祥の後任として京兆尹に起用された。1926年(民国15年)9月、五原誓師により国民軍が国民聯軍に改組されると、薛は国民聯軍総司令部財政委員会委員長の要職に就いている。
1927年(民国16年)6月、河南省政府委員兼財政庁庁長に任ぜられ、同年8月、国民政府の初代内政部部長に抜擢された。翌年1月、河南省民政庁庁長(国民政府内政部長と兼任)に転じている。10月には初代の国民政府衛生部部長となった。1929年(民国18年)3月、中国国民党第3期中央候補執行委員に選出された。1930年(民国19年)、北平で反蔣介石派の中央党部拡大会議が開催されると、薛篤弼もこれに参加し、宣伝部委員に任ぜられた。
反蔣介石戦争終結後、薛篤弼は中国国民党の主流派に復帰した。以後も中央候補執行委員に選出され、第5期途中の1936年(民国25年)7月に中央執行委員に昇格している。1941年(民国29年)7月、行政院全国水利委員会主任委員に任命された(1946年(民国35年)6月、水利委員会委員長に改組)。1947年(民国36年)4月、水利委員会の水利部改組に伴い、そのまま部長となっている。1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に選出された。
中華人民共和国成立後、薛篤弼は大陸に留まった。中国人民政治協商会議全国委員会委員、上海法学会理事、上海律師協会副主任、中国国民党革命委員会(民革)中央委員などを歴任している。
中華民国(北京政府)
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中華民国(国民政府)
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