藤原 景清(ふじわら の かげきよ、生年不詳 - 建久7年〈1196年〉?)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。藤原忠清の子。
平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で平景清とも呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいう。通称、上総七郎(上総介忠清の七男であるため)。信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど[1]勇猛であった。
平安末期における治承・寿永の乱(源平合戦)において活躍した。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕らえられ、一説には預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれる。
「悪七兵衛」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを指すものとされるが、壇ノ浦の敗戦後に自分を匿った叔父の大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害してしまったためにそう呼ばれるようになったとの伝承もある。ただし近年は能忍の死因は病死または事故死とする説が有力。
実在したとはいえ[要出典]生涯に謎の多い人物であるため、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ないが、各地に様々な伝説が残されている。このためか各種の創作において主人公としてよく取り上げられている。
後世に、藤原景清を哀れに思った人々が供養のため作った墓が、大阪市東淀川区光用寺にある[2]。
『吾妻鏡』の記述によれば、景清には上総五郎兵衛尉忠光という兄がいて、鎌倉二階堂の永福寺の造営中、源頼朝を暗殺しようと土工にまぎれこむも、怪しまれて捕まっている。
伝承によれば、名刀と言われるあざ丸の所有者であったという。「あざ丸」の「あざ」は、景清がこの刀に映った自身の顔を見た際、顔のあざが見えた事に由来するという[3]。
軍記物語『太平記』では、仏教に言う三毒のうち癡(無知蒙昧、おろかさ)を司る、同名の「癡」という妖刀を所持していたが、壇の浦の戦いの際に海中に落としたと物語られる。詳細は楠木正成#怨霊伝説。
涙池(泪池)(現在の大阪市東淀川区、小松公園)の物語としても伝わっている。上記の大日房能院に匿ってもらった折、「(景清が好きな)そばを打て」(但し、当時打ち蕎麦は存在しない)という下男に対する大日坊の言葉を「景清を討て」と聞き間違え、大日坊を斬ってしまい、過ちに気づいて血のついた刀を涙を流しながら池で洗い、兜を脱ぎ捨てて去ったという[4][5]。
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● 生目八幡神社 旧名 土穴若宮神社(福岡県宗像市土穴2丁目12 神郡宗像摂末社)平景清公が壇ノ浦の戦いの後、日向国に配流される際、眼病を患い、この地で平癒祈願したとの伝承有り。
古典芸能において、「景清」または「何某誰々実ハ景清」が登場する作品を、一括して景清物(かげきよもの)と呼ぶ。