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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
生誕 | 弘仁4年[1](813年) |
死没 | 貞観9年10月10日(867年11月9日) |
別名 | 西三条大臣 |
官位 | 正二位、右大臣、贈正一位 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 藤原北家 |
父母 |
父:藤原冬嗣 母:藤原美都子 |
兄弟 | 長良、良房、良方、良輔、順子、良相、良門、良仁、良世、古子 |
妻 | 大江乙枝の娘 |
子 | 常行、行方、忠方、直方、多賀幾子、多美子、三松俊行室 |
藤原 良相(ふじわら の よしみ/よしあう/よしすけ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の五男。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条大臣と号す。文徳天皇の外叔父。
若くして大学で学び、その弁舌は才気に溢れていた。承和元年(834年)仁明天皇に召し出されて、蔵人兼右兵衛権大尉として天皇の身近に仕える。
承和5年(838年)従五位下に叙爵し、翌承和6年(838年)に内蔵頭に任ぜられる。承和7年(840年)左近衛少将、承和8年(841年)従五位上、承和10年(843年)正五位下、承和11年(844年)蔵人頭、承和13年(846年)従四位下・左近衛中将と、仁明朝の後半は武官を務めながら順調に昇進し、承和15年(848年)には参議として公卿に列した。また、この間の承和9年(842年)に発生した承和の変に際しては、左近衛少将として近衛兵40名を率いて皇太子・恒貞親王の座所を包囲し兵仗を収めている[2]。
嘉祥3年(850年)甥の皇太子・道康親王が即位(文徳天皇)すると、正四位下に叙され、新皇太子・惟仁親王の春宮大夫に任ぜられる。左右大弁を経て、仁寿元年(851年)に良相より先に参議に任官していた長兄・長良を越えて権中納言(同時に従三位に昇叙)に任ぜられると、仁寿4年(854年)に大納言兼右近衛大将と文徳朝でも急速に昇進し、天安元年(857年)2月に太政大臣に昇進した兄・良房の後を受けて右大臣に就任。天安3年(859年)正二位に至る。
清和朝に入ると、『類聚三代格』掲載の格の多くで上卿を務めたほか、専ら重要な政務に心を砕き、悪を正して乱れを救う事を志したと評されたように[3]、貞観年間初頭において中納言兼民部卿・伴善男とともに太政官政治を牽引した[4]。この頃に良相が関わったとみられる政治的動きに以下のものがある[5]。
さらに、貞観6年(864年)正月には清和天皇の元服に伴って娘の多美子を入内させ女御とし[12]、皇子が誕生すれば天皇の外祖父で太政大臣であった兄・藤原良房の立場を継ぐことが可能となった。この頃の良房と良相の関係は必ずしも明らかでなく、良房からは常に警戒される存在であったともみられていたが、以下のような議論も行われている。
同年冬頃より、太政官の首班であった太政大臣・藤原良房が病に伏したことから[17]、良相は多くの太政官符で上卿を務めるなど[18]太政官政務を掌握しており[19]、太皇太后・藤原順子、その信任を得ている右大臣・良相、太皇太后宮大夫を兼ねる大納言・伴善男の三者連合で政権中枢を牛耳っていたとみられる[20]。
貞観8年(866年)3月に良相の西三条第(百花亭)に清和天皇が行幸して、40人もの文人を参加させた詩会を伴う大規模な花見の宴が開催される[21]。しかし、この頃には良房の健康が回復していたらしく、閏3月には良房の染殿第にて天皇の行幸を伴う観桜宴が競うように開催された[22]。こうして良房と良相の権力闘争が顕現化した中で、応天門の焼失事件が発生する[23]。当初は自然発火的な災難とされて大般若経転読や諸神への奉幣などが行われるが[24]、まもなく良相は伴善男の謀略に通じて左大臣・源信に対して応天門放火の嫌疑で遣使を行いその邸宅を囲ませる。しかし、これを知った良房が清和天皇に奏聞した結果、勅によって慰諭の遣使が行われて源信の嫌疑は晴れた[25]。その後8月になって、大宅鷹取が応天門放火犯として伴善男を告発したため、伴善男に対する訊問が行われる[26]。訊問の最中に、諸山陵に対して遣使が行われ、御陵の樹木を多く伐採したことが応天門焼失の原因である旨の告文が奉じられているが[27]、これは良相が伴善男の無実を証明するために行ったとする見方がある[28]。しかしここで良房が摂政に就任、伴善男の扱いは良房の裁量に委ねられることとなり[28]、9月末には伴善男は断罪されて流罪に処され[29]、貞観6年(864年)以来の良相-伴善男ラインによる太政官領導体制は完全に崩壊した(応天門の変)。
応天門の変後も良相は失脚はせず、10月から12月にかけて4件の格の上卿を務めている[30]。しかし、貞観元年(859年)に良相が禁止していた鷹の飼育について、12月に一部で勅許が出るなど[31]、かつてのような政治的影響力は既に失われていた[32]。同月には二度に亘って致仕の上表を行うが許されず[33]、三度目の上表でようやく左近衛大将の辞任を許され、代わりに子息の常行が右近衛大将に、直方が次侍従に任ぜられている。なお、同月には基経が末席参議から一挙に中納言に昇進[34]、高子が女御として入内しており[35]、良房の後継が基経であることが明確になった。
翌貞観9年(867年)10月初めに直廬で倒れ、同月10日に薨去。享年55。最終官位は右大臣正二位。即日正一位を贈られた。遺言に従って薄葬とし、一重の衾だけで棺を覆わせたという[3]。
幼少時から度量が広く傑出していた。仏教への信仰心が篤く、臨終に際して極楽往生を信じて疑わなかった様子は隋の姚察にもなぞらえられたという。また、長い間肉食をせず粗食で通していた事から非常に痩せており、それは終生続いたという。[3]
平成24年(2012年)に平安京内に存在した良相の邸宅跡(現在のJR二条駅西側京都市中京区)から、平仮名が墨書された土器が発掘された。
一流の文化人が集うサロンであった事が想定される良相邸跡でのこの発見は、9世紀後半の京洛での貴族階級における平仮名ないしは国風文化の広まりを示す貴重な発見である[36]。
即興的に詠んだ歌を平仮名でササッと私的に記すのに用いたと考えられ、平仮名は女性が書くものだったとの従来の説を覆す可能性があり、貴重な発見である[37]
以前、良相は学生であった小野篁が罪を犯した際これを弁護した事があった。後に良相は病を得て一旦死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えられるが、閻魔王宮の臣として裁判を手伝っていた篁の執り成しによって赦され冥界から帰還したという[39]。
注記のないものは『六国史』による。
『尊卑分脈』による。
9人の子女があり、長男の常行は順調に出世し若くして大納言まで昇った。しかし常行は早世してしまい、その後良相の子孫からは公卿を出せず、『大鏡』では子孫の不振ぶりが語られている[41]。また、直方・忠方は才能と品行を称えられ、特に忠方は最も隷書に優れていたという[3]。
なお、同母兄の良房・長良はそれぞれ文徳天皇・清和天皇に入内した娘が産んだ皇子が即位したことから天皇の外祖父となった一方で、良相の二人の娘はそれぞれ文徳天皇・清和天皇の女御となったがいずれも皇子に恵まれなかった。