藤田 哲也 | |
---|---|
生誕 |
1920年10月23日 日本・福岡県企救郡曽根村(現在の北九州市小倉南区) |
死没 |
1998年11月19日(78歳没) アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴ |
国籍 | アメリカ合衆国 |
研究分野 | 気象学 |
研究機関 | シカゴ大学 |
出身校 |
(卒業)九州工業大学工学部機械科 (博士号取得)東京大学 |
博士課程 指導教員 | 正野重方 |
主な業績 |
藤田スケール (F-Scale) の考案 ダウンバースト・マイクロバーストの発見・解明 |
主な受賞歴 |
フランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダル(1989年) 勲二等瑞宝章(1991年) |
プロジェクト:人物伝 |
藤田 哲也(ふじた てつや、英: Tetsuya Theodore "Ted" Fujita、1920年10月23日 - 1998年11月19日)は、日本・アメリカ合衆国の気象学者。
福岡県北九州市小倉南区出身。ダウンバースト(下降噴流)とトルネード(竜巻)の研究における世界的権威として知られ、その優れた業績から Mr. Tornado(ミスター・トルネード)、Dr. Tornado(竜巻博士)とも称された。また観測実験で得た難解な数式なども、見やすい立体図などの図解にしてしまうことから「気象界のディズニー」[注 1]とも呼ばれていた。
藤田が渡米した当時、トルネードが多く発生するアメリカにおいて、発生の回数は記録されていたが、その規模等は記録されていなかった。そこで藤田は、ミズーリ州カンザスシティの気象予報センター長であったアラン・ピアソン(Allan Pearson)と共に、トルネードによる建物の破壊の程度などからその最大風速を推定する方法を考案し、Fujita-Pearson Tornado Scale(トルネード階級表、通称F-Scaleとも藤田スケールとも呼ばれる)として提唱した。このF-Scaleは、国立気象局で1973年から採用され、現在では国際的な基準として広く用いられている。
上記のような素晴らしい業績を収めたことから、もしもノーベル賞に気象部門があったなら、受賞は間違いないだろうと言われていた。
藤田は多くのトルネードを分析した結果、トルネードが発生するには、まず親雲が存在することが前提条件であると考えた。そして、親雲から発生した渦が地形と気象との関連により地上に達成した時、トルネードとして発生することを推論し、この発生メカニズムを実験室で再現して見せた。
1947年(昭和22年)8月24日、明治専門学校(現在の九州工業大学)の助教授時、脊振山頂測候所の観測小屋で、大谷和夫所長と助手の3人で雷雲の観測を実施。脊振山麓の南西から強い雷雲 (入道雲) が吹き上げ、山頂上空に達すると、20メートル毎秒以上の強風が吹き、気圧計が大きく変勤することを観測した。測候所の自記計が捉えた風と気圧変化のデータを分析して、上昇気流に乗って空高く発達した雷雲の下部、脊振山頂の高さに、今まで知られなかった「下降気流」があることを検証した[2]。
福岡県と佐賀県県境にある背振山の米軍レーダーサイトにあったごみ捨て場から、シカゴ大教授のHorace Byersによる Thunderstorm Project のレポートを偶然拾った[3]。同教授宛に自分の研究内容の一部を送付したところ、同教授から研究内容と才能を見出され同大学に招聘される。当時、藤田は脊振山で雷などの観測、研究を行うことがあった[4]。
また、1975年にジョン・F・ケネディ国際空港でイースタン航空66便着陸失敗事故が発生した際、当初この事故はパイロットの操縦ミスが原因であるとの結論が出た。しかし、それに納得のいかなかった航空会社が藤田に事故原因の再調査を依頼した。これに関して藤田は、空港付近でごく短い時間に強い下降気流が発生したことを突き止め、その発生プロセスを解明し、旅客機の墜落はこのダウンバースト(下降噴流)に起因すると指摘した。その後、ダウンバーストはドップラー・レーダーを使用することで、事前にある程度の予測が可能であることを立証し、世界各地の空港にドップラー・レーダーが配備されるようになった。
勲二等瑞宝章を受章。日本気象学会の最高の名誉である藤原賞を受賞[2]。
墓は北九州市小倉南区中曽根の寺にある[2]。