藻璧門院少将[1](そうへきもんいんの しょうしょう、生没年不詳)は、鎌倉時代初期に活躍した女流歌人。新三十六歌仙と女房三十六歌仙の一人。勅撰歌人・藤原信実の次女。弁内侍(後深草院弁内侍)と後深草院少将内侍の姉にあたる。
朝を告げる雄鶏の鳴き声に一夜を共にした男女のしばしの別れのつらさを代弁させた「己が音」の恋歌が絶賛されたことでその名を馳せた。この代表作によって彼女は己が音の少将(おのがねの しょうしょう)の異名を取るにいたった。
なお二字目の「ヘキ」は「完璧」の「璧」(下のつくりが「玉」)が正しい字だが、「岸壁」の「壁」(下のつくりが「土」)を用いた「藻壁門院少将」とした文献も古来より非常に多く見られるため注意を要する[注釈 1]。
寛喜元年(1229年)頃[2]から後堀河天皇の女御・九条竴子の女房として出仕する。竴子はその翌年中宮に冊立され、翌寛喜3年(1231年)に第一皇子・秀仁親王を出産、翌貞永元年には早くもこの秀仁が即位(四条天皇)して国母となる。翌年4月に院号宣下あって藻璧門院と号すが、同年9月に皇子を難産の末に死産した上、自身も産後の肥立ちが悪く後を追うように落命してしまう。この女院が崩じた後に少将は出家し、旧法性寺跡に移り住んでその余生を過ごした。
藻璧門院少将は『新勅撰和歌集』以後の十三代集や歌合の記録にその作品を残している。死没年は不詳ながら、建治2年(1276年)の『現存卅六人詩歌』にその名が挙げられていることから、その時点ではまだ存命していたことが確認でき[3]、したがって仮に竴子に女房として出仕を始めたのが17歳の時だったとしても、少将は少なくとも還暦を過ぎる年齢にはなっていたことがわかる。
關白左大臣家百首歌よみ侍りけるに
おのかねにつらきわかれはありとたに おもひもしらてとりやなくらむ
(己が音につらき別れはありとだに 思いも知らで鳥や鳴くらん)
— 『新勅撰和歌集』 巻第十三 恋歌三 中宮少将
暁を知らせる鶏鳴(けいめい)はまた、同衾する男女の一夜の契りの終りをも告げる。名残惜しい朝の別れ、そのつらい刻限を自分の鳴き声が告げていることなど、あの鶏は知るよしもないのだろう。どこか愚痴っぽいようでさばけてもおり、その感性はけだるいようで冷めてもいる。感情のほとばしりを「つらき」の一語で済ませておきながら、この淡々とした歌は少将が恋人と懇ろな一夜を過ごしていたであろうことを示唆して止まない。そこにコケコッコーが聞こえ、もう朝かと我に還る。そんな時にふと人が思うこと、それは高尚な恋愛の哲学でも低俗な愛欲の発露でもなく、実際にはやはりこうした何でもないようなことだろう。この一見恋歌とは無縁に思える鶏鳴についての漠然とした思いを述べることで、少将はこの一首に普遍の現実味を付加させているともに、それによって婉曲に表現した恋人との関係には得も言われぬ思慕の情念を醸し出すことにも成功している。歌自体は平明で、その趣向はどこまでも枯淡だが、それ故にこの歌は鑑賞する者の想像力を掻き立てて止まないのである。
この一首は、後堀河天皇の関白だった九条教実が企画した『関白左大臣家百首』[注釈 2]に少将が恋歌として詠進したものだったが、これを見た藤原定家は甚く感じるところがあってこれを賞賛した。その趣向が自身の晩年の趣向と合致したのだろう、当時後堀河天皇の下命により撰者として『新勅撰和歌集』の編纂にあたっていた定家は、この歌をすぐにそれに選入している。
藻璧門院少将の歌は、勅撰和歌集の十三代集に計60首が採録されている。
勅撰集 | 作者名 | 採録歌 | ||
---|---|---|---|---|
十 三 代 集 |
9 | 『新勅撰和歌集』 | 中宮少将[注釈 10] | 6首 |
10 | 『続後撰和歌集』 | 藻璧門院少将 | 5首 | |
11 | 『続古今和歌集』 | 藻璧門院少将 | 11首 | |
12 | 『続拾遺和歌集』 | 藻璧門院少将 | 10首 | |
13 | 『新後撰和歌集』 | 藻璧門院少将 | 8首 | |
14 | 『玉葉和歌集』 | 藻璧門院少将 | 2首 | |
15 | 『続千載和歌集』 | 藻璧門院少将 | 8首 | |
16 | 『続後拾遺和歌集』 | 藻璧門院少将 | 3首 | |
17 | 『風雅和歌集』 | — | — | |
18 | 『新千載和歌集』 | 藻璧門院少将 | 2首 | |
19 | 『新拾遺和歌集』 | 藻璧門院少将 | 2首 | |
20 | 『新後拾遺和歌集』 | 藻璧門院少将 | 2首 | |
21 | 『新続古今和歌集』 | 藻璧門院少将 | 1首 | |
計 | 60首 |
催事 | 時期 | 作者名 | 備考 |
---|---|---|---|
石清水若宮歌合 | 寛喜4年(1232)3月25日 | 女房少将 | 藤原親氏と組み合い、負1・持2[6] |
洞院摂政家百首 | 貞永元年(1232) | 少将 | |
光明峰寺入道摂政家十首歌合 | 貞永元年(1232)7月 | 中宮少将 | 正三位知家(藤原知家)と組み合い、勝2・負4・持4 |
名所月歌合 | 貞永元年(1232)8月15夜 | 中宮少将 | 一条頼氏と組み合い、勝2・負1 |
河合社歌合 | 寛元元年(1243)11月17日 | 藻璧門院少将 | 沙弥円空(園基氏)[注釈 11]と組み合い、勝1・持2[2] |
光明峰寺入道摂政家秋丗首歌[7] | 寛元3年(1245) | ||
春日若宮社歌合 | 寛元4年(1246)12月 | 藻璧門院少将 | 二条資季と組み合い、勝1・負1・持1[8] |
伝存しない。
(前略)
國母仙院少將殿、依奉感此道堪能、盲目之後、
更染筆、終此書功、所奉覧也
嘉禎三年十月廿八日丙午 午時
桑門明靜 頽齡七十六
以人令讀合、書入老耄落字訖
— 定家本『古今和歌集』
嘉禎三年十月二十八日書写本
(梅沢家旧蔵本奥書)
泉式部は雲林に雁の一聲をあはれみ、淸少納言は四國のかたにさまよひて、つゞりのすがたをかへりみ、菅原の孝標の娘は筆身の藥師佛を拜し、藻璧門院の少將はをのがねの面ぶせなりとて、障子をへだてゝ平の親淸の娘に見えけむ。むかの風流したはずしもあらねど、身にいたづきおほく、心すこやかならざれば、衣裳にたき物し、白粉を顔にほどこすことをしらず。
— 斯波園女『六十賀集』
大津にて智月といふ老尼のすみかを尋て、己が音の少将とかや、老の後此あたりちかくかくれ侍りしといふを
少将の尼の咄や志賀の雪
— 智月筆懐紙
寶生佐大夫三吟に
老いの名の有りとも知らで四十雀
— 許六真蹟書簡
藻璧門院少將身罷りて後、人の夢に見えて、
あるかひも今はなぎさの友千鳥 くちぬその名の跡や殘らむ
とよみ侍りける歌の心を、辨內侍人々にすゝめてよませ侍りけるに
なき跡を忍ぶ昔の友千鳥 おもひやるにもねはなかりけり
— 『続千載和歌集』 巻第十九 哀傷歌
山本入道前太政大臣