街道(かいどう)とは、日本における古くから存在する陸上をつなぐ交通路・道路のことである。つながる場所としては街・集落であることが圧倒的に多いが、一方で人里離れた神社・寺院であることも多い。
日本の津々浦々に張り巡らされている街道は、その起源や名の由来はまちまちである。名称の大半が明治時代以降に道路行政上の必要性からつけられたものであり、同じ名称が別の複数の街道名称として用いられていることがある。明治以前は、逆に同じ道であっても地域や進行方向によって名称が異なる事が多かった。
明治時代以降、番号制を導入し、国道と地方道の区別が明瞭となり、年月を経るにつれて番号や指定区間がめまぐるしく変わっていく中でも、かつての街道を継承する道の区間や経由地は大きくは変わらなかった。各時代の交通の発達と衰退にあわせて姿を変えたものが多いものの、現在も幹線道路の脇に並行した生活道路として残っているものがある。特に主要な街道では、『○○街道』が道路通称として今日でも親しまれていることが多い。しかし災害や都市計画・改良工事などで分断されたり消滅した街道も少なくない。
以下、日本の街道について記述するが、外国の古い道路も「街道」と呼ばれるものが多い(ローマ街道等)。
過去の設置・建設のいきさつから、下記の通りの年代別に概要を説明する。
統一国家が誕生する以前、地域ごとに「ムラ」程度の集まりで地域が集結し、争いが繰り返されていた頃は、各ムラどうしとの人や物資の交流はあるものの、整備の行き届いた交通路(=街道)の概念はなかったと思われる。
畿内に天皇を中心とする統一政権が誕生すると、都(京)と周囲の豪族が治めていた地域との交流や、海辺に面した港(津)との間を行き来するための交通路の整備が行われた。
山辺の道、竹内街道、長尾街道などがこの時代に整備されたとされている。聖徳太子が通ったとされる「太子道」とよばれる複数の道についてもこの時代に存在した。
大化の改新以降、日本全土を統一した基準で治めるために律令制が制定され、各地の統治や租税の徴収を円滑に行うために各地を結ぶ交通路が整備された。駅馬・伝馬などの駅制により、宿場も整備された。
奈良時代になると、高僧行基により、多くの街道が整備されたといわれる。また、平城京と各地を結ぶ、現在で言う「奈良街道」が整備されている。
奈良時代以降、各地に神社や仏教寺院が建立されていくが、その地域の信仰を集めただけでなく、遠路からの信仰も集めることがあり、それらの寺院と各地を結ぶ交通路が整備されるようになった。主なものでは高野街道、熊野古道が挙げられる。
鎌倉時代に畿内以外の遠方を中心とする政権が誕生すると、京と鎌倉を結ぶ道筋は重要となっている。
武士・豪族が群雄割拠する戦国時代となると、兵の移動や物資の輸送(兵站)のための交通路として利用されている。また、割拠された地域の境界には関所が設けられ、通行する人々から通行税を徴収した。
江戸時代には、一般旅行者や諸大名の参勤交代のために江戸を中心とした五街道を幹線とし、これに「佐屋路・美濃路・例幣使街道・壬生通・水戸佐倉道・本坂通などのほか、日光法成道」があり、「万治2(1659)年設置の道中奉行」の管下にあった[1]。また、脇往還、宿場町が日本全国で整備された。「脇往還または脇街道、脇道など」と言われるものの中で「重要度の高いものは伊勢路・中国路・佐渡路」などは、勘定奉行の管下にあった[1]。
このころから伊勢参りが一般的になり、伊勢神宮と各地を結ぶ「伊勢街道」が整備された。
各地に残る「一里塚」「丁石」「道標」の大半が江戸時代に設置されたものとされる。
明治維新以降、国策として「国道」が制定され、主要な街道は国道に指定された。
ただし、陸上交通の主役が鉄道となり、都心部を除き、道路の大がかりな整備は行われなかった。
太平洋戦争後、高度経済成長期になると、自動車が普及し、それにあわせて旧街道の舗装・拡張・付け替えが行われるようになった。その一方で、とくに山越えの旧道は維持整備が行われずに廃道となるなど、忘れられた存在となりつつある。