西山 宗因(にしやま そういん、慶長10年(1605年) - 天和2年3月28日(1682年5月5日))は、江戸時代前期の俳人・連歌師。本名は西山豊一。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。通称次郎作。宗因と号し、別号として一幽・西翁・梅翁・野梅などがある。宗因は相手によって号を使い分けていたとされる[1]。生まれは肥後国八代(現・熊本県八代市)[2]。談林派の祖。
15歳頃から肥後国八代城代加藤正方の側近として仕えた。正方の影響で連歌を知り京都へ遊学した。里村昌琢に師事して本格的に連歌を学んだが、1632年(寛永9年)主家の改易で浪人となる。1647年(正保4年)、大坂天満宮連歌所の宗匠となる一方で、同門の松江重頼の影響で俳諧を始める。宗因の「軽口」と「無心所着体」を旨とする作風は大きな話題となり、延宝年間頃には、井原西鶴などに代表される談林派を築き上げ、当時の主流だった貞門派を圧倒した。貞門派が宗因の後継者争いの様相を呈する中、宗因は晩年、連歌に戻った[3]。
連句集
連歌集
紀行文
代表作
芭蕉は「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」(去来抄)とのべている。