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誕生 |
1828年4月26日(文政11年3月13日) 武蔵国江戸辰ノ口(現・東京都千代田区丸の内) |
別名 | 泊翁(号)、平太郎、芳在、鼎 |
死没 |
1902年8月18日(74歳没) 東京府豊多摩郡渋谷村下渋谷(現・東京都渋谷区) |
墓地 | 養源寺(東京都文京区) |
職業 | 政治家、洋学者、官僚、教育者 |
国籍 |
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教育 | 文学博士(日本・1901年) |
代表作 | 『日本道徳論』(1887年) |
西村 茂樹(にしむら しげき、文政11年3月13日(1828年4月26日) - 明治35年(1902年)8月18日[1])は、明治時代の日本の啓蒙思想家[1]・教育者・官僚・貴族院議員。「明六社」創設者の一人[1]。「日本弘道会」創設者[1]。日本の西洋化に貢献する一方で伝統的な儒教を重視し、「世外教」(仏教、キリスト教など)の否定と「世教」(西洋哲学、儒教)による道徳教育を推進した[1]。号は泊翁(はくおう)、樸堂(ぼくどう)、庸斎(ようさい)[1]。
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佐倉藩の支藩であった佐野藩堀田家に仕える側用人・西村芳郁の子として、江戸の佐野藩邸に生まれる。幼名は平八郎、名は芳在、後に鼎、茂樹と改めた。
十歳で佐倉藩の藩校である成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)に入り、藩が招いた安井息軒から儒学を学んだ。また嘉永3年(1850年)に大塚同庵に師事し砲術を学び、翌年、佐久間象山について砲術修業をした。
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊の来航に衝撃を受け佐倉藩主の堀田正睦に意見書を提出して居交易と出交易との得失を明らかにしつつ積極的貿易論を説き、老中の阿部正弘にも海防策を献じた。堀田正睦へは、積極的に海外へ進出して貿易を行うべきであると意見書を提出している。安政3年(1856年)、堀田正睦が老中首座・外国事務取扱となると、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当。
明治6年(1873年)に、福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之らと明六社を結成。また同年11月24日、文部省に出仕し編書課長に就任、以後1886年まで省内で儒教主義的徳育の強化政策を推進した。また漢字廃止論者として明治7年(1874年)には『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』を発表した。一方で明治8年(1875年)3月には、大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まりである洋々社を結成する。3月『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表。
明治8年(1875年)から天皇、皇后の進講を約10年間務め、東京学士会院会員、貴族院議員、宮中顧問官、華族女学校の校長をつとめた[2]。また、文部省編輯局長として教科書の編集や教育制度の確立に尽力。修身の必要性を訴え、明治9年(1876年)4月に坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする修身学社(現・社団法人日本弘道会)を創設した。
明治12年(1879年)に編纂が開始された日本最大にして唯一の官撰百科事典「古事類苑」は、西村茂樹の発案によるものであった。
明治20年(1887年)に、西村の主著として知られる『日本道徳論』を刊行した。当時、日本の近代教育制度が整備されつつあり、国民教育の根本精神が重要な問題としてさまざまな論者によって議論されるようになっていた[3]。西村は、首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮し、日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本としてこれに西洋の精密な学理を結合させるべきと説き[4]、国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示した[5]。文部大臣の森有礼はこれを読んで大いに賛成したが、伊藤首相は新政を誹謗するものとして怒り、文部大臣を詰責した[6]。明治22年(1889年)2月に、宮内省に、皇室が徳育を管理するように明倫院を設置するよう建議した[7]。
明治35年(1902年)8月18日没[8]。
孫の一人に小説家の宮本百合子(妻・千賀子との次女・蕗江の子)。弟は日本の製靴業の父と言われる西村勝三[9]。三女・スミの養子となった幸二郎は田中源太郎の七男。
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その他の役職 | ||
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先代 (新設) |
日本弘道会長 1887年 - 1902年 日本講道会長 1884年 - 1887年 |
次代 谷干城 |