西村 賢太 (にしむら けんた) | |
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誕生 |
1967年7月12日 日本・東京都江戸川区 |
死没 |
2022年2月5日(54歳没) 日本・東京都北区[1] |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 中卒 |
活動期間 | 2004年 - 2022年 |
ジャンル | 私小説・随筆 |
代表作 |
『暗渠の宿』(2006年) 『苦役列車』(2010年) 『芝公園六角堂跡』(2017年) 『雨滴は続く』(2022年) |
主な受賞歴 |
野間文芸新人賞(2007年) 芥川龍之介賞(2011年) |
デビュー作 | 『けがれなき酒のへど』(2004年) |
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西村 賢太(にしむら けんた、1967年(昭和42年)7月12日 - 2022年(令和4年)2月5日[1])は、日本の小説家。同人誌への参加で執筆を始め、暗澹たる日々にもがく姿をさらけ出す私小説の書き手。
2011年(平成23年)「苦役列車」で芥川賞受賞。ほかに『暗渠の宿』(2006年)、『二度はゆけぬ町の地図』(2007年)、『無銭横町』(2015年)など。
東京都江戸川区春江町出身[2]。祖父の代から続く運送業の家庭の子供として生まれる。実家は下請け仕事が中心で、トラック3台、従業員は最盛期でも4人の零細企業だった[2]。父は外車マニアで、数年ごとにジャガーやシボレー・カマロ、マーキュリー・クーガーなどを買い換えていたが[2][注 1]、1978年(昭和53年)秋に連続強姦事件を起こして逮捕され、刑務所に収監される。このため両親が離婚し、3歳上の姉と共に母子家庭で育つ。
読書好きな姉の影響で、幼児期から『赤毛のアン』『キュリー夫人』などを読み、活字に親しんでいた[3]と発言したとされているが、その後本人は「一回も読んだことがない」と取材で語る[4]。江戸川区立二之江第二小学校在学中、5年の2学期に千葉県船橋市へ転居し、さらに6年生に進級する春休み中に東京都町田市の集合住宅へ転居[2]。
それまでは父が単なる強盗事件を起こしたと聞かされていたが、町田市立成瀬台中学校の3年生の時、父が起こした事件が性犯罪だったことを知り、その衝撃で2学期の頃から不登校となる[2]。国語を除くと成績は「1」ばかりでローマ字も書けず、高校は全寮制の東京都立秋川高等学校しか行くところがないと教師に宣告されたが、寮に入るのを嫌って進学せず[5]、家を出て東京鶯谷の家賃8,000円のアパートに下宿。
中学を卒業し1人暮らしを始めてからは、中学時代の同級生よりも先に初体験を済ませなければならないと焦り、15歳で池袋のソープに行っている。風俗については、その店にしばらく通い、葛飾区の金町の1万円ソープに通うようになり、気がついていたらハマっていた[6]。
アルバイトに明け暮れていたようだが[7]、家賃を4か月滞納したまま1年半で鶯谷のアパートから強制退去処分を受け、飯田橋、横浜市戸部町、豊島区要町、板橋などでトイレや風呂のない一間のアパートに住み、家賃滞納と強制退去を繰り返す[2]。この間、港湾荷役や酒屋の小僧、警備員などの肉体労働で生計を立てていた。1990年(平成2年)ごろには品川の屠場で働いたこともあるが、「あまりのきつさに音を上げて一日でやめてしまった」という[8]。
傍ら、16歳の頃から神田神保町の古本屋に通い、戦後の探偵小説の初版本などを集めていたが[2]、土屋隆夫の『泥の文学碑』を通じ田中英光の生涯を知ってから私小説に傾倒。1994年(平成6年)より1996年(平成8年)まで私家版『田中英光私研究』全8冊を刊行、この研究書の第7輯に私小説「室戸岬へ」を発表。第8輯にも私小説「野狐忌」を発表している。田中英光研究から離れた理由については「田中英光は、結局、一種のエリートなんですよ。そこでもう、なんか、そこでこう、もの足りないものを感じた」[9] と語る一方、「泥酔の果ての一方的な無礼による、英光の遺族のかたとのトラブルで出禁となったとき、私は自責の念からすべてを諦めざるを得なかった」[10]とも記している。
23歳で初めて藤澤清造の作品と出会った時は「ピンと来なかった」というが、29歳の時、酒に酔って人を殴り、留置場に入った経験から清造に共鳴するようになり[2]、以来、清造の「没後弟子」を自称し、自費で朝日書林より刊行予定の藤澤清造全集(全5巻、別巻2)の個人編集を手掛けようとした(完成しなかった)。朝日書林の主人からは相当額の金銭的援助を受け、神田神保町のビルの一室を契約したとき費用を借りた他、「これまでにトータルで5、600万は借りてる」[2] という。
清造の墓標を貰い受けて自宅に保存している他、1997年(平成9年)ごろから[2] 清造の月命日の毎月29日には清造の菩提寺の浄土宗西光寺(石川県七尾市)に墓参を欠かさなかった。2001年(平成13年)からは自ら西光寺に申し入れて「清造忌」を復活させた他、2002年(平成14年)には清造の墓標を可能な限りずらし、その隣に自身の生前墓を建てている[11][12]。このエピソードがいくつかの作品において主人公の行動に擬して描かれているように、西村の作風は強烈な私小説である。また「瘡瘢旅行」で、敬愛する藤澤清造は「小説家」ではなく「私小説家」だと呼んでいる。
31歳のときに、地方のホテヘルで顔がドンピシャな子と出会い、プレイ中に借金の相談を受け90万円を肩代わりしたら音信不通になるという経験をしている。この経験をもとに『けがれなき酒のへど』という同人誌を発表することになり小説家としてデビューすることになるため、その子が長い風俗歴の中で一番忘れられない女の子だと語っている[6]。
2003年(平成15年)夏、同人雑誌『煉瓦』に参加して小説を書き始める。2004年(平成16年)、『煉瓦』第30号(同年7月)に発表した「けがれなき酒のへど」が『文學界』12月号に転載され、同誌の下半期同人雑誌優秀作に選出される。同年に『煉瓦』を退会。
2006年(平成18年)、「どうで死ぬ身の一踊り」で第134回芥川賞候補、「一夜」で第32回川端康成文学賞候補、『どうで死ぬ身の一踊り』で第19回三島由紀夫賞候補となる。2007年(平成19年)、『暗渠の宿』で第29回野間文芸新人賞受賞。2008年(平成20年)、「小銭をかぞえる」で第138回芥川賞候補。2009年(平成21年)、「廃疾かかえて」で第35回川端康成文学賞候補。
2011年(平成23年)、「苦役列車」で第144回芥川賞受賞[13]、この際、「格差社会のヒーロー」という呼称について、格差社会恨む人は努力してないだけとした上で、選評で西村に一切触れなかった選考委員(名前は挙げていないが触れていないのは池澤夏樹のみ[14])について、往生際の悪さが不快だとコメントしている[15]。芥川賞受賞後の2011年7月には、「この受賞の流れを逃したら次はない」[16] という自身の提案で新潮社から清造の代表作『根津権現裏』を新潮文庫より復刊させた。2012年(平成24年)には同文庫より、自ら編集した「藤澤清造短篇集」を刊行。芥川賞受賞会見における「そろそろ風俗に行こうかなと思っていた」との発言が話題を呼んだ[17]。同賞受賞以後のマネジメントはワタナベエンターテインメント[18]が担当したが、同事務所所属ではなかった[19]。
2012年(平成24年)10月2日からTOKYO MXの『ニッポン・ダンディ』にレギュラー出演し、2013年(平成25年)6月4日の放送で終了直後に突然降板する。かねてより番組スタッフとMCの段取りの悪さに不満を募らせ続けており、それがこの日の我慢のならぬ段取りと進行が重なったことによって爆発したという[20]。
2022年(令和4年)2月4日夜、東京都北区赤羽から乗車したタクシーの車内で意識を失い、運転手により同区東十条の明理会中央総合病院へ搬送されたが心停止の状態で、翌5日午前6時32分、死去[1][21][22]。54歳没。死因は心疾患。生涯独身だった。藤澤清造の命日にあたる前月29日には「清造忌」に参列し[12]、七尾市立図書館に清造と自身の著作計14冊を寄贈していた[23][注 2]。夏には清造の随筆集を出版させる予定だったという[12][注 3]。2月16日、西光寺で葬儀が行われ、3月29日、清造の月命日にあわせて四十九日法要が営まれ、清造の墓の隣に生前建てた自らの墓(前述)に納骨埋葬された[25]。戒名は賢光院清心貫道居士(けんこういんせいしんかんどうこじ)[26]。また作品の著作権は財団法人石川近代文学館が管理している。
2024年(令和6年)1月1日に発生した能登半島地震では西光寺も被災し、並んでいた藤澤と西村の墓石に地蔵堂が覆いかぶさるように倒壊して横倒しになった[27]が、ファンの支援や関係者の尽力によって同年9月3日に二人の墓の修復が完了した[28]。