西澤 潤一 (にしざわ じゅんいち、1926年 9月12日 - 2018年 10月21日 [ 1] )は、日本 の工学者 。東北大学 名誉教授 。日本学士院会員 。
専門は電子工学 ・通信工学 で、半導体デバイス 、半導体プロセス、光通信 の開発で独創的な業績を挙げた。半導体関連の特許保有件数は世界最多である[ 2] 。
東北大学 総長、岩手県立大学 学長 、首都大学東京 学長、上智大学 特任教授 を歴任。
宮城県 仙台市 出身。西澤恭助 (東北帝国大学 教授)の第二子、長男として生まれる。西澤泰二 (東北大学名誉教授)は弟。
1945年4月、内申書だけで東北帝国大学工学部電気工学科に入学した。西澤の本心は理学部へ行って原子核の研究か数学基礎論を希望していたが、父親から許されなかった[ 3] 。父恭助は1995年に103歳で亡くなるまで西澤を子供扱いし、言う事は絶対だったという。
卒業研究で研究室を選ぶ時、父親の恭助(工学部化学工学科教授)から電気工学科教授の抜山平一 に相談がなされた。抜山は渡辺寧 の研究室を推薦し、西澤はそれに従った。この事が西澤が半導体固体素子の研究の道に進むきっかけとなった[ 4] 。
渡辺寧 に師事。渡辺は当時国内の電子工学研究の指導的立場にあり、米軍関係者との接触により米国での半導体 研究の情報、ベル研究所 での点接触型トランジスタ の発明(1947年)の報を国内でいち早く入手する事ができた。西澤が研究者としての歩みを始めた時期は、ちょうど渡辺が半導体の研究を開始した時期と一致する。
工学部卒業後、当時存在した制度である大学院特別研究生に採用される。この時期の1950年に西澤独自のpin接合構造を考案し、半導体デバイスとしてpinダイオード 、静電誘導トランジスタ 、pnipトランジスタを発明する。また半導体プロセスとして重要なイオン注入法 も発明している。
新規の学説を発表した西澤であったが、学界では定説とは異なっているとして攻撃を受けた。渡辺はこの状況に配慮し、西澤の書き上げた論文を渡辺が預かり対外発表を控える時期がしばらく続いた。
大学院特別研究生を修了後、東北大学電気通信研究所 に任用される。以後定年退官まで同所で研究開発と教育に従事する。
西澤、渡辺らの持つpinダイオード等の特許権を元に財団法人半導体研究振興会 (1961年 - 2008年)を設立。産業界からの寄付を得つつ、事業として半導体研究所を設立した(1963年)。大学の外部でも西澤が主導して研究が進められた[ 5] 。
西澤の指導した学生にフラッシュメモリー 発明者の舛岡富士雄 、MEMS 研究者の江刺正喜 、メモリ研究の小柳光正、マーチングメモリの中村維男 らがいる。西澤の研究室に所属した教員として半導体プロセスとクリーンルーム研究の大見忠弘 がいる。
日本学士院賞 受賞に当たって直接の面識や指導を受けた事のない八木秀次 の推薦を受けている[ 6] [ 4] 。
東北大学を退官後は東北大学、岩手県立大学、首都大学東京で学長を歴任し、大学経営に従事する。
2018年10月21日、仙台市で死去。92歳没[ 1] [ 7] 。
半導体電子工学分野で独自の半導体から絶縁体へのホットエレクトロン注入理論を考案し、それに基づいてpn接合に絶縁体(i:insulator)層を挟んだpin構造を持つ電子デバイスであるpinダイオード、静電誘導トランジスタ、静電誘導サイリスタ等を発明する。
半導体への不純物導入手法としてイオン注入法を発明。半導体の結晶成長においてエピタキシャル成長の各種手法を開発した。またこれらに使用する製造装置に関する技術でも特許を多数取得している。
半導体の結晶成長技術の成果として高輝度発光ダイオード(赤色、緑色)を開発した。
光通信の3要素である発光素子、伝送路、受光素子を開発する。
2002年、米国電気電子学会(IEEE) は、西澤の名を冠した「ジュンイチ・ニシザワ・メダル(Jun-ichi Nishizawa Medal )」を電気事業連合会 の後援によって設立し、電子デバイスとその材料科学の分野で顕著な貢献をした個人・団体を顕彰している[ 2] 。
西澤の研究に近い所で、光ファイバー の研究でチャールズ・カオ が2009年にノーベル物理学賞を受賞している。光ファイバーの研究史については光ファイバー #歴史 を参照されたい。[ 8] [ 9] 。
主な業績として次のものが挙げられる。
半導体から絶縁体へのホットエレクトロン注入理論(1950)[ 10]
PINダイオード の開発(1950)
イオン注入法 の開発(1950)
静電誘導型トランジスタ の開発(1950)[ 11]
pnipトランジスタ(1950)[ 12]
電子なだれ電流増幅トランジスタ開発(1951)
化学量論的組成制御法の開発(1951)
半導体中のなだれ現象の発見(1952)
アバランシェフォトダイオード の開発(1952)
pinフォトダイオード(1953)
pnipドリフトトランジスタ(1954)
走行時間負性抵抗トランジスタ(1954)
エレクトロエピタキシの発明(1954)
半導体レーザー の発明(1957)(1957年 日本国特許出願)・開発
レーザーディスクの原理(1957)
半導体インダクタンスの発明(1957)
タンネットダイオード(1958)
可変容量ダイオード(1959)
フォトカプラ(1960)
温度差法によるシリコンのエピタキシャル成長(1963)
分子振動 、格子振動 (フォノン)を利用したテラヘルツ波 発生の提案(1963年 )
集束型光ファイバー (GI型光ファイバー)の開発(1964)
FETの飽和特性解明(1968)
静電誘導サイリスタ の開発(1971)
MOSSITの提案(1971)
GaAs(ガリウム砒素)の蒸気圧液相成長法(1971)
蒸気圧制御温度差液相成長法の発明(1972)
バリスティックトランジスタ(1973)
ストイキオメトリ制御された結晶成長法(1973)
高輝度赤色発光ダイオード(GaAlAs)(1976)
高輝度緑色発光ダイオード(GaP)(1976)
光サイリスタ(光トリガサイリスタ)(1984)
光励起エピタキシャル成長法(1984)[ 13]
静電誘導トランジスタ-集積回路(1984)
光励起分子層エピタキシャル成長法(PMLE)(1984)
両面ゲート静電誘導サイリスタ
GaAs完全結晶成長法
THz 帯ショットキ・ダイオ-ド[ 14]
準光学的共振器を用いたミリ波多素子発振器
半導体ラマンレ-ザ
光励起プロセスによる原子層オ-ダ-の GaAs エッチング技術
極薄金属分子層堆積
化合物結晶の分子層エピタキシャル成長及びド-ピング
タンネットダイオード
理想型 SIT
超高速広帯域光変調器
ミリ波帯イメージングアレイの研究
テラヘルツ波 による癌診断、がん治療の提案(2000年 )
学歴
職歴
学外における業歴
小学校入学前のエピソードとして、「1+1はなぜ、2になるのだろう?」というようなことをいつも考えていた。例えば「りんご1個とみかん1個を足すと何個になるでしょう?」といった問題があるときに、普通の考えでは当然答えは2個となる。しかし西澤はこれを本当に2個と言えるのかと疑った。なぜなら、りんごとみかんはあくまで別の物体であり、一緒にする(足す)ことはできないと考えたからであった。[ 10]
小学生の頃から絵画を描くのが趣味で、仙台第二中学校(旧制)で絵画部に入部している[ 3] 。後年14歳~24歳の間に121枚の水彩画やペン画等を残していることが発見されているが、それ以後は研究に忙しく自ら筆を執る事は叶わなかった[ 29] 。
クロード・モネ の愛好家でもある。1971年に、パリのマルモッタン美術館 を訪れたところ、水面に空が映っている睡蓮 の絵が上下逆さまに展示されていたことに気付き、翌年もそのままだったため、その旨を指摘し『ル・モンド 』紙に取り上げられたことがある。
西澤は著書、講演等において「独創」を説いた。独創とは他者に追従することではなく、自ら未開の境地を開拓することである。「独創を成すには異端であらねばならない」とも語っている。 半導体研究の初期に文献にあった黄鉄鉱による固体増幅素子(トランジスタ)の実験に失敗し[ 30] 、明るい発光ダイオードの実現は不可能との定説を覆して高輝度赤色発光ダイオードを開発し[ 31] 、ガラス(誘電体)中に光波を通す光通信を提唱して学界の権威に論難された西澤らしい哲学である。懐疑主義を勧めていた[ 32] 。
西澤は特許を多数出願しているが、弁理士に依頼せず自ら出願書類を執筆している。光ファイバーの特許もこのため書類不備で特許庁に差し戻しされた。やっと特許出願公告が出ると、今度は異議申立を受け、拒絶査定ととなった。特許庁との裁判の係争は長期化し、期限切れの憂き目に遭っている。
日本企業が日本人研究者(の業績)を軽く扱うことに不満を露わにしている。自身もPINダイオードについて、米国で特許を持つゼネラル・エレクトリック (GE)よりも先に日本で特許を出願し成立していたのに、日本企業はろくに特許の調査もせずGEに特許料を支払っていたばかりか、日本では西澤の特許が有効であることが知れ渡ってからも特許料をほとんど払ってもらえなかったという経験をしている。結局、前述の半導体研究振興会の設立時に、同特許を元に企業から出資(計7000万円)を得たものの、西澤曰く「向こう(GE)に払っていた分と比べたら随分ディスカウントさせられた」という。このため、日本の技術開発の問題として「日本人に独創性がないのではない。同胞の成果を評価しないし工業化もしないのが問題」だと語っている[ 33] 。
若い頃から8ミリフィルム で映像を撮影するのが趣味だった。古いものは昭和30年ごろの研究室の映像などもあり、それらのフィルムは西澤の研究室に資料として残されている[ 34] 。
1970年代中期には、韓国 ・サムスン 会長のイ・ビョンチョル が、日本訪問の際に教えを求めて西澤が教授として在籍している東北大学に何度も訪れた。1990年に西澤は半導体産業を主導する国家が日本から韓国に移り、中国 を経てベトナム へと移行すると発言した。そのため、2018年に朝鮮日報 は「一種予言のような言葉」だとしている[ 2] 。
アメリカ電気電子学会(IEEE)は、Nishizawa Medal制定の時のステートメントで、”IEEE Spectrum recognized him as one of the geniuses of the 20th century”(アメリカ電気電子学会は、西澤潤一を20世紀の天才の一人と認める) と述べている。
日本学術振興会 21世紀COEプログラム プログラム委員会委員(2006年 度)
社団法人日本工学アカデミー名誉会長
社団法人先端技術産業戦略推進機構会長
財団法人松前国際友好財団理事
財団法人斎藤報恩会理事
財団法人警察協会理事
財団法人東北大学研究教育振興財団理事長
社団法人学術・文化・産業ネットワーク多摩理事
財団法人カシオ科学振興財団理事
國語問題協議會評議員
社団法人日中科学技術文化センター名誉会長
財団法人2007年ユニバーサル技能五輪国際大会日本組織委員会副会長
財団法人尾崎行雄記念財団評議員
財団法人東北開発記念財団理事
日本ヒートアイランド学会最高顧問
財団法人科学技術交流財団顧問
財団法人全日本地域研究交流協会顧問
社団法人原子燃料政策研究会 会長
財団法人七十七ビジネス振興財団理事
財団法人半導体研究振興会理事
財団法人地球環境戦略研究機関顧問
財団法人マツダ財団評議員
特定非営利活動法人全日本自動車リサイクル事業連合名誉顧問
文理シナジー学会 顧問
特定非営利活動法人ITSSユーザー協会会長
財団法人インテリジェント・コスモス学術振興財団理事長
財団法人世界平和研究所顧問
アメリカ合衆国特許第 3,896,484号
アメリカ合衆国特許第 4,465,527号
アメリカ合衆国特許第 4,526,632号
アメリカ合衆国特許第 4,613,881号
アメリカ合衆国特許第 4,619,718号
アメリカ合衆国特許第 4,685,979号
アメリカ合衆国特許第 4,720,735号
アメリカ合衆国特許第 4,772,926号
アメリカ合衆国特許第 4,819,058号
アメリカ合衆国特許第 4,841,350号
アメリカ合衆国特許第 4,872,044号
アメリカ合衆国特許第 4,935,798号
アメリカ合衆国特許第 5,001,535号
アメリカ合衆国特許第 5,357,361号
先代 高橋正
東北大学電気通信研究所長 第9代:1983年 - 1986年
次代 岩崎俊一
先代 山口開生
電子情報通信学会会長 第64代:1987年 - 1988年
次代 前田光治
先代 岩崎俊一
東北大学電気通信研究所長 第11代:1989年 - 1990年
次代 稲場文男
先代 新設
岩手県立大学学長 初代:1998年 - 2005年
次代 谷口誠
先代 佐藤利三郎
東北大学電気系同窓会会長 第5代:1999年 - 2004年
次代 村上浩
先代 永野健
日本工学アカデミー会長 第5代:2002年 - 2006年
次代 中原恒雄
東京都立大学 学長(首都大学東京学長:2005年 - 2009年)
東北大学 総長(第17代:1990年 - 1996年)
東北帝国大学総長 東北大学総長※1949-1994学長
前身諸学校・大学長
仙台医学専門学校長
第二高等中学校医学部主事
学部長/主事 山形仲芸 1888/1888-1894
第二高等学校医学部主事 仙台医学専門学校長
心得/校長 山形仲芸 1901/1901-1912
東北帝国大学附属医学専門部主事
東北大学附属医学専門部長
東北帝国大学臨時附属医学専門部主事 東北帝国大学附属医学専門部長 東北大学附属医学専門部長