詞(し)は、中国における韻文形式の一つ、あるいは歌謡文芸の一つ。
宋代に隆盛したので宋詞(そうし)ともいう。唐・五代では曲・雑曲・曲子詞(きょくしし)とも呼ばれた。また詩に対して詩余(しよ)とも言われ、長短不揃いの句で構成されることから長短句(ちょうたんく)ともいう。曲に合わせて詞が書かれたので、詞を埋めるという意味で填詞(てんし)、音楽に合わせるという意味で倚声(いせい)とも言われる。日本語では詩(し)と同音であるため、区別しやすく中国語音からツーと呼ばれることがある。
後代には音楽に合わせて作られるのではなく、前人の作品の平仄に合わせて作られるようになったため、詩と同様、朗読される詩歌の一種となった。
詞は1篇の字数が決まっている。また平仄と脚韻を持っており、その規則は近体詩に非常によく似ている。しかし、近体詩と異なって句ごとに字数が異なる。同様な形式に古楽府があり、実際に古くは詞のことを楽府と呼ぶこともあったが、楽府とは平仄の規則が異なるので区別がつく[1]。1句の字数は1字から11字(水調歌頭)まである。
詞は詞調に合わせて作られるが、詞調ごとに形式が決められており、例えば「憶江南」では、句の字数が3・5・7・7・5、押韻が2・4・5句目と決められている。
詞調には特定の名称が決められており、これを詞牌(しはい)という。詞の題名には詞牌が使われており、詩のように内容による題はつけられない。その代わり、詞牌の下に詞題が添えられたり、小序が作られた。ただし、後代には内容による詞題が設けられることもあった。詞牌の数は、清の康熙帝勅撰の『詞譜』によると、826調、同一詞牌で形式の異なる「同調異体」を数えると2306体に登る。このうち詞牌は100調くらいであったという。最も短いのは「竹枝」の14字、長いのは「鶯啼序」の240字である。
唐代、西域から新しい音楽(胡楽)が流入すると、従来の音楽体系が大きく変化した。このようにしてできた音楽に合わせて作られた歌詞が詞の由来である。その来源には宮中の燕楽や民間の通俗音楽にいたるいくつかがあると考えられる。
後代、曲や楽譜の伝承が途絶えると、その平仄や句式を基準にして作られた。
一般に李白が詞を初めて作ったと言われているが、李白の詞と呼ばれるものは題が詞牌になっているものの、形式の上では近体詩そのものであって、句の字数に変化がない(菩薩蛮・憶秦娥は句ごとの字数が異なるが、李白の作でない可能性が高い)[2]。盛唐では張志和「漁父」で七字の句を三+三にするなど詞の萌芽が見え、中唐以降に盛んになる[3]。とくに晩唐の温庭筠は大量の詞の作者として知られる[4]。
五代十国時代では前蜀の宰相になった韋荘がこの地に温庭筠の詞風を広め、後蜀では詞集『花間集』が編纂された。このため温庭筠とその一派を「花間派」と称する[5]。また、南唐の後主は史上屈指の詞人として知られる。
北宋にはいると詞は全盛期をむかえる。11世紀、仁宗のころになると、「慢」と呼ばれる字数の長い詞が現れた[6]。また、従来は偶数句で押韻していたのが、3句以上に伸びた[7]。とくに柳永は慢詞を多く作り、また俗語を多用して大流行した[8]。北宋末の周邦彦は柳永の強い影響を受けつつ、典故を多用してより典雅な詞を書いた。
宋の政治家は詞人としても優れた人物が多かったが(晏殊・晏幾道・范仲淹・欧陽脩・王安石・司馬光など)、中でも蘇軾はそれまで婉麗なものとされていた詞の表現や内容を大きく変更して、 詩で読むものとされていた内容を詞に盛り込んだ。蘇軾にはじまる豪放派の詞人には、南宋の辛棄疾や陸游、金の元好問らがある(ただし蘇軾の詞に「豪放」なものはごく少ないために豪放派の名は適切でないという議論があり、むしろ現実の体験に即して作詞した「現実派」と呼ぶ方が適切だともいう[9])。
南宋では専業の文人が出現した点に特徴がある[10]。代表的な詞人には姜夔・呉文英・張炎・周密らがある。作曲家でもあった姜夔は詞の楽譜を残しており、また張炎は作品のほかに詞論書『詞源』を撰述したことでも重要である。
元・明では詞は振るわなかったが、清初になると復興し、納蘭性徳のような優れた詞人が現れた。清初の人々が多く北宋を理想としたのに対し、朱彝尊は南宋の姜夔と張炎を模範とした[11]。
詞の分類方法にはいくつかがある。字数による分類によると、
宋初までは小令がほとんどであった。後代、
という分類がされたが、何か根拠となるようなものがあるわけではなく、単なる分類の目安である。
また段落の数により、
この節の参考資料[12]。かっこ内は清の勅撰『欽定詞譜』で選ばれた代表作の作者。