読本(よみほん)は、中国の白話小説の影響を受けて江戸時代後期に流行した伝奇風小説集。寛政の改革以降流行し、文化文政の頃全盛となり、明治になっても活字本として流布し読み継がれた。
文章中心の読み物であるところから読本と呼ばれたといわれてきたが、後期読本(江戸読本)になると、作者が下絵を描いた口絵や挿絵の存在意義も重要になる。史実に取材することがあっても基本的にフィクションであり、勧善懲悪や因果応報を作品構成の方法として採用した読み物であった。娯楽性も強いが漢語が散りばめられ、会話文主体で平易な滑稽本や草双紙などと比べ文学性の高いものと認識されており、高価であった。印刷技術や稿料制度など出板の体制が整っていたこともあり、貸本屋を通じて流通したため多くの読者を獲得したが、大衆的で廉価な草双紙とは流布した量では比較にならないほど少ない。18世紀の大阪では都賀庭鐘や上田秋成が、19世紀になると江戸で曲亭馬琴や山東京伝といった作者が活躍した。
当時の中国文学の白話小説から影響を受けて生まれた。古典とは違い同時代の中国語で書かれた白話小説は、唐通事という当時の中国語通訳のための教科書として日本に持ち込まれたが、やがてそれらの小説を実用目的ではなく楽しみとして読むものが現れ、影響を受けた創作や翻訳を行うものが現れた。特に荻生徂徠らに中国語を教えたこともある岡嶋冠山、さらに岡田白駒、都賀庭鐘、沢田一斎らによって出版物や講義の形で一般に俗語小説が広められ、読本が生まれる環境が作られた。
そのため初期読本は古典的知識を持つ知識人層によって書かれた。白話小説からの翻案が行われ、さらに18世紀の後半には単なる翻案に留まらない『雨月物語』などの代表作が書かれ前期読本が栄えた。
江戸では寛政の改革による黄表紙や洒落本の不振以後、浄瑠璃や歌舞伎あるいは実録物などを世界設定を採り、そこへ白話小説や内外の説話集から伝奇的な要素を採り込んでストーリーを構成した作品が書かれはじめた。山東京伝、曲亭馬琴、式亭三馬、十返舎一九、柳亭種彦らがおもな作者として挙げられる。特に京伝の工夫により、口絵や造本の図案にさまざまに趣向が凝らすことが定着し、それにそった造本で制作されつづけた(水滸伝の本にあった繍像にならって登場人物などを描いた口絵を描く形式は京伝の読本『忠臣水滸伝』から定型となったと考えられている)。このような形で江戸で刊行された作品群が主に後期読本と称されている。三馬・京伝没後の文化文政年間および馬琴が『南総里見八犬伝』を完結させた天保年間以後は出版点数が乏しくなり、松亭金水が活躍する以外には、既存の読本作品を合巻化する手法が多くの版元で採用され刊行巻数を重ねた。
大阪では京伝や馬琴らと時期を同じくして手塚兎月、暁鐘鳴、栗杖亭鬼卵らが読本を執筆していた。また、文政年間から明治にかけて岳亭定岡・知足館松旭によって『神稲水滸伝』が執筆出版されており、継続された。同作は読本の作品中では最長編となっており、読本や合巻の登場人物を描いた錦絵でも落合芳幾『当盛草子合』(神刀奥治)、月岡芳年『美勇水滸伝』(神洞小二郎信行、木鼠小法師怪伝など)などで登場人物が題材として採られている。
明治時代に入ってからも馬琴の評価は高く、坪内逍遥や二葉亭四迷によって近代文学が打ち立てられるまで日本文学は読本など戯作の影響を逃れなかった。