国分寺 | |
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大師堂 背後には五色台が聳える | |
所在地 | 香川県高松市国分寺町国分字上所2065番地 |
位置 | 北緯34度18分11.3秒 東経133度56分39秒 / 北緯34.303139度 東経133.94417度座標: 北緯34度18分11.3秒 東経133度56分39秒 / 北緯34.303139度 東経133.94417度 |
山号 | 白牛山 |
院号 | 千手院 |
宗派 | 真言宗御室派 |
寺格 | 別格本山 |
本尊 | 十一面千手観世音菩薩 |
創建年 | 天平勝宝8歳(756年)以前 |
開基 | (伝)行基 |
正式名 | 白牛山 千手院 国分寺 |
札所等 | |
文化財 |
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公式サイト | 讃岐國分寺 |
法人番号 | 1470005001879 |
讃岐国分寺(さぬきこくぶんじ)は、香川県高松市国分寺町国分にある真言宗御室派の寺院。白牛山(はくぎゅうざん)、千手院(せんじゅいん)と号す。本尊は十一面千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第八十番札所。札所寺院としては単に「國分寺[1]」と称するのが通例である。
開門時間 8:00~16:30
高松市西部、国分台丘陵の南に立つ。讃岐国府跡推定地の東方2 kmに位置し、一帯は讃岐国の中心地であり多くの遺跡が発掘されている。
現在の境内は、創建当時の国分寺の伽藍と重複している。伽藍跡は全国に残る国分寺跡の中でも保存状態が良く、国の特別史跡に指定されている。なお国分寺跡で特別史跡であるのは、当寺の他に遠江国分寺跡と常陸国分寺跡のみである。そのほか、本堂・本尊・銅鐘が国の重要文化財に指定されている。
国分寺は天平13年(741年)聖武天皇が発した国分寺建立の詔により全国六十八箇所に建立されたとされ、当寺もその頃の創建と推測される。寺伝では、行基が丈六の十一面千手観世音菩薩を本尊として開基したとされる(現存する本尊像は当時のものではないが、四国霊場の江戸期以前作の仏像で、丈六仏は善通寺の薬師如来坐像と当寺本尊のみで、しかも立像であるので四国霊場で最大の大きさである)。史実としての具体的な創建年は定かでない。
『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)に「讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜」[2]との記載があり、この頃に寺観が整っていたと考えられる[3]。
明徳2年(1391年)の文献には当寺が西大寺の末寺である旨が記されており[4]、その他の文献から鎌倉末期までには西大寺末となっていたと推測されており現存本堂の建造も西大寺系の僧が関わっていたものと考えられる[3]。
天正の兵火により本堂と本尊と鐘楼を残しほとんどが焼失した。
その後、江戸時代には讃岐高松藩主から崇敬され、63石前後の寺領寄進を受けた[3]。
仁王門をくぐり八十八ケ所の石像が両脇にならぶ参道を進むと左に閻魔堂があり右に四国最古の釣鐘があり、さらに行くと礎石のならぶ間を行き小さな橋を渡ると正面に本堂が立つ。本堂を背に左手を進むと白い多宝塔があり、それが大師堂である。その右の門から遍路用品のならぶ店内に入るとそこが大師堂拝殿であり、納経所でもある。 (注意)参拝には最短でも10分かかるとのことで、午後4時50分以降は閉門され入場できない。
発掘調査で明らかとなった奈良時代の寺域は南北240メートル、東西220メートルで、現在の国分寺や東隣にある宝林寺を含んでいる[5]。伽藍は大官大寺式伽藍配置で、中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂を回廊で結んだ内側の区画の東側に塔が建てられていた[5]。
遺構の保存状況はよく、金堂、七重塔などの礎石が原位置に残っている。現国分寺の本堂は奈良時代の講堂跡に建ち、現本堂はこの礎石を再利用している。他に、回廊・僧房・鐘楼・掘立柱建物・築地塀の遺構が発掘で確認されているほか、中門・南大門があったと推定される。
旧伽藍跡は遺跡公園として整備され、奈良時代の伽藍が縮尺10分の1の石造模型で再現されているほか、築地塀の一部が実物大で復元されている。また、僧房跡は残存状況が良好であったため遺構を覆屋で覆い、建物の一部が復元されている。
讃岐国分寺跡資料館(讃岐国分寺跡資料館)は1993年(平成5年)9月4日に開館した[16]。発掘調査で出土した瓦・土器・金属器および、1/20縮尺の金堂模型などを展示している。
入館料は大人100円で中学生以下無料、開館時間は午前9時-午後4時30分、休館日は月曜日(月曜日が祝祭日のときは翌日)と年末年始。