たにぐち まさはる 谷口 雅春 | |
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1958年12月21日撮影 | |
生誕 |
1893年11月22日 日本·兵庫県神戸市兵庫区烏原町(兵庫県八部郡烏原村東所) |
死没 |
1985年6月17日(91歳没) 長崎県 |
墓地 | 多磨霊園 |
出身校 | 早稲田大学文学部英文科中退 |
職業 | 宗教家 |
著名な実績 | 生長の家創設、初代総裁 |
代表作 | 「生命の實相」 |
配偶者 | 谷口輝子 |
子供 | 谷口恵美子(長女) |
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11月22日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁[注釈 1]。旧名は同訓異字の“正治”。兵庫県八部郡烏原村東所(現在の兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に生まれ、大阪市港区の大阪府立市岡中学(旧制)出身。早稲田大学文学部英文科中退。同学科には青野季吉、木村毅、坪田譲治らが在学していた。
著作は400冊以上に及び、主著『生命の實相』[1]は通算1,900万部を超える。他に『新版真理』全11巻、『新選谷口雅春選集』全20巻、『新選谷口雅春法話集』全12巻等、多数の著書(聖典)がある。他にも、彼が受けたとした33の神示(総称:『七つの燈臺の點燈者の神示』)や自由詩の形態を取る「聖経」として『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』等がある。
解脱名(戒名)は「實相無相光明宮大真理説授正思惟大聖師」。専ら略して「大聖師」と冠され、信徒には称されている。
1893年(明治26年)11月22日、谷口12歳の時、1905年(明治38年)に烏原貯水池に沈んだ兵庫県八部郡烏原村東所(現在の兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に生誕した。のちに谷口は以下のように述懐している。
当時は、貯水池に番人がいたらしく、以下のようにも述べている。
早稲田大学を中退して大本の専従活動家になっていた谷口は、出口王仁三郎の『霊界物語』の口述筆記を任せられたり、機関紙の編集主幹などを歴任するなど、教団内で嘱望されていたが、1922年(大正11年)の第一次大本事件を機に、浅野和三郎に従って大本から脱退。浅野が旗揚げした『心霊科学研究会』で宗教・哲学的彷徨を重ねていたが、当時流行のニューソート(自己啓発)の強い影響を受け、これに『光明思想』の訳語を宛てて機関紙で紹介した。
1929年(昭和4年)12月13日深夜、「今起て!」との神の啓示を受けたとして、当時勤務していたヴァキューム・オイル・カンパニーを辞め、文筆活動でニューソート流の成功哲学を全世界に宣布せんとの志を立て、『生長の家』誌の執筆に着手。翌1930年(昭和5年)3月1日に、神道、仏教、キリスト教に現代科学を加味して完成したとする、『生長の家』誌1000部を自費出版。教団は、その発行日を立教記念日としている。
雅春は、真理の言葉の力による人類光明化運動の実現を目指し、「言葉こそ真理そのものである」として「声字(しょうじ)即実相」の真理を説き、言葉・文字を用いて「大宇宙の真理」を懸命に書き続けた。 雅春の説いた教えの根本原理は以下の2点である。
また、神道や仏教、キリスト教など諸宗教は、その根本においては一致しているという「万教帰一」の立場を取っている。
第二次世界大戦期に急速に右傾。国家主義・天皇信仰・感謝の教えを説いた。こうした教えを記述した雅春の著作は、信徒間で「愛国聖典」と呼ばれた。海ゆかば斉唱反対運動をするなど当時の軍部と対立する面もあった一方、「皇軍必勝」のスローガンの下に戦闘機を軍に献納するなどして大東亜戦争への協力もした。なお当時の信者には、高級軍人の家族が多くいた。
“大東亜戦争(太平洋戦争)に敗れたのは飽くまでも無明(まよい)と島国根性に凝り固まった「偽の日本」であって、本当の「神洲日本国」は敗れたのではない”と七つの灯台の点灯者の神示などで主張した。
また日本国憲法を“連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本を弱体化する為に日本に押し付けた無効の憲法であるので、即時に破棄して大日本帝国憲法(明治憲法)に復元しなければならない”と説き、「明治憲法復元運動」を起こした。その一環として時の首相・福田赳夫に日本国憲法無効宣言をするように提言した。著書『“諸悪の因”現憲法』(1972年)では以下のように記している。
諸悪は悉く、占領憲法の各条項が、日本国家を(中略)愛国心の勦滅と、家庭破壊と、性頽廃とにより、やがては自滅の道をたどらざるを得ないように意図して起草されたるその目的の漸進的病毒の進行というほかはない — “諸悪の因”現憲法
1974年(昭和49年)には円覚寺貫主・朝比奈宗源の呼びかけを受け、宗教界の保守主義団体「日本を守る会」(「元号法制化実現国民会議」が1981年に変わった「日本を守る国民会議」と共に現在の日本会議の前身の一つ)を結成した。
雅春はさらに優生保護法の廃止を強く訴え、優生思想や堕胎容認の同法を「生命軽視」であるとして強く非難した。当初、雅春は首相となった鳩山一郎や岸信介に帝国憲法復原や優生保護法廃止を要求するにとどまっていたが、自由民主党の政治家が本気で優生保護法廃止に取組まないと見るや1964年(昭和39年)に生長の家政治連合を結成し、法廃止を訴える議員を推薦して選挙運動を行うようになった。
雅春のプロライフ的な主張で注目すべきは、それが人間の胎児だけでなく動物にも及んでいたことである。占領終結直後に執筆した「日本再建の道を拓くもの」では次のように記した。
人間が生物を殺して生きていながら、人類だけが殺し合いの戦争をしないで平和に生活したいと考えるのは、すべての業は循環する、一点一画と雖も、播いた種子は刈りとらなければならないと云う原因結果の法則に矛盾するのである。人類の平和は先ず生物を殺さないことから始まらなければならないのである。 — 限りなく日本を愛す
さらに著書『心と食物と人相と』では「平和論をなすもの、本当に平和を欲するならば、肉食という殺生食をやめる事から始めなければならないのであります。」とし、肉だけでなく魚や鶏卵、乳製品の摂取をも好ましくないというヴィーガニズムに近い考えを述べて、さらに肉食と堕胎が同様の行為であるとまで主張した。
「人工妊娠中絶をすると、その中絶せられた子供の霊魂が親に反抗心をもっていて、それが息子の心に反映して、その息子が反抗心が強くなったり、手に負えない不良児になることがあるんですよ」
しかしこの奥さんは、本当に人工中絶はしていないらしいのである。
そこで私は言った。「そのお子さんは肉食が好きじゃありませんか」
「大変好きなんです」
「ほほう、やっぱりそうですか。肉食だって堕胎だって大なり小なり同じことなんですよ。生きていたいものを自分の生活の都合で殺す。やはり怨念の反抗が何らかの形でその家庭にあらわれてくる」 — 心と食物と人相と
そしてこうした自分の思想を政治に反映しなければ世界平和は実現しない、と考えていた。
「世界の平和も、肉食の廃止から」といいたいのでありますが、政府が肉食を奨励して牛肉なども国費を使って大量に輸入しているのだから、我々の思想が政界を浄化しない限りは、国内の闘争も、世界の戦争もなかなかおさまりそうにないのであります。 — 心と食物と人相と
しかし、このような徹底したプロライフ(=生命尊重)の主張が政界で受け入れられることはなかった。1978年(昭和53年)に雅春は生長の家総本山に移住し政治活動の一線から退き、1983年(昭和58年)には優生保護法廃止が実現しないこと等を理由として生長の家政治連合の活動停止が決定され、以後生長の家は自民党政権と距離を置くようになる。
1985年(昭和60年)に生長の家総本山のある長崎で没した。
谷口雅春は妻・輝子との間に1女をもうけた。孫は5人(そのうち1人は1歳未満で死去)[4]。