『豊饒の海 』(ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫 の最後の長編小説 。『浜松中納言物語 』を典拠とした夢 と転生 の物語で[ 1] 、『春の雪 』『奔馬 』『暁の寺 』『天人五衰 』の全4巻から成る。最後に三島が目指した「世界 解釈の小説」「究極の小説」である[ 1] [ 2] 。予定より早い最終回で了となる最終巻の入稿日に三島は、陸上自衛隊 市ヶ谷駐屯地 で割腹 自殺した(三島事件 )。
第一巻は貴族 の世界を舞台にした恋愛、第二巻は右翼 的青年の行動 、第三巻は唯識論 を突き詰めようとする初老の男性とタイ 王室の官能的美女との係わり、第四巻は認識 に憑かれた少年と老人の対立が描かれている。構成は、20歳で死ぬ若者が、次の巻の主人公に輪廻転生 してゆくという流れとなり、仏教 の唯識 思想、神道 の一霊四魂 説、能 の「シテ 」「ワキ 」、春夏秋冬などの東洋 の伝統を踏まえた作品世界となっている。また様々な「仄めかし」が散見され、読み方によって多様な解釈可能な、謎に満ちた作品でもある[ 3] 。
「豊饒の海」とは、月の海 の一つである「Mare Foecunditatis 」(ラテン語 名)の和訳で[ 注釈 1] 、作中の「月修寺」のモデルとなった寺院は奈良市 の「圓照寺 」である。なお、最終巻の末尾と、三島の初刊行小説『花ざかりの森 』の終り方との類似性がよく指摘されている[ 4] [ 5] 。
※以下、三島自身の言葉の引用部は〈 〉にしています(他の作家や評者の論文からの引用部との区別のため)。
文芸雑誌 『新潮 』に、先ず1965年 (昭和40年)9月号から1967年 (昭和42年)1月号にかけて『春の雪 』が連載され、同年2月号から1968年 (昭和43年)8月号にかけては『奔馬 』、同年9月号から1970年 (昭和45年)4月号にかけては『暁の寺 』、同年7月号から1971年 (昭和46年)1月号にかけては『天人五衰 』が連載された[ 6] 。
単行本は、1969年 (昭和44年)1月5日に『春の雪(豊饒の海・第一巻)』、同年2月25日に『奔馬(豊饒の海・第二巻)』、1970年 (昭和45年)7月10日に『暁の寺(豊饒の海・第三巻)』、1971年 (昭和46年)2月25日に『天人五衰(豊饒の海・第四巻)』が新潮社 より刊行された[ 7] 。文庫版は各巻新潮文庫 より刊行されている[ 7] 。
翻訳版は、『春の雪』『奔馬』は英米のMichael Gallagher訳(英題:Spring Snow、Runaway Horses)、イタリア (伊題:Neve di primavera、Cavalli in fuga)、『暁の寺』は英米のCecilia Segawa Seigle、D.E. Saunders訳(英題:Temple of Dawn)、イタリア(伊題:Il tempio dell'alba)、『天人五衰』は英米のエドワード・G・サイデンステッカー 訳(英題:The Decay of the Angel)、イタリア(伊題:La decomposizione dell'angelo)をはじめ、世界各国で行われている[ 8] 。
三島は1960年(昭和35年)頃から大長編を書きはじめなければならないと考え、19世紀 以来の西欧 の長編小説とは違う〈全く別の存在理由のある大長編〉、〈世界解釈の小説〉を目指して、『豊饒の海』を1965年(昭和40年)6月から書き始める[ 1] 。壮途半ばで作家人生を病で終えた高見順 の死も執筆に拍車をかけたとし[ 9] 、その執筆動機を以下のように語っている[ 1] 。
私はやたらに
時間 を追つてつづく
年代記 的な長編には食傷してゐた。どこかで
時間 がジャンプし、個別の時間が個別の物語を形づくり、しかも全体が大きな
円環 をなすものがほしかつた。私は小説家になつて以来考へつづけてゐた「世界解釈の小説」を書きたかつたのである。幸ひにして私は
日本人 であり、幸ひにして
輪廻 の思想は身近にあつた。
— 三島由紀夫「『豊饒の海』について」[ 1]
そして、学習院 時代の旧師の松尾聰 の校注に成る『浜松中納言物語 』に依拠した「夢 と転生 がすべての筋を運ぶ小説」を四巻の構成にし[ 注釈 2] 、〈王朝 風の恋愛小説 〉の第一巻は〈たわやめぶり(手弱女ぶり)〉あるいは〈和魂 〉を、「激越な行動小説」の第二巻は〈ますらをぶり(益荒男ぶり)〉あるいは〈荒魂 〉を、〈エキゾチックな色彩的な心理 小説〉の第三巻は〈奇魂 〉を、第四巻は〈それの書かれるべき時点の事象をふんだんに取込んだ追跡小説〉で〈幸魂 〉へみちびかれてゆくものと三島は説明している[ 1] 。
ちなみに、1950年(昭和25年)の『禁色 』の創作ノートにもすでに、〈螺旋 状の長さ、永劫回帰 、輪廻の長さ、小説の反歴史性、転生譚〉といった言葉が並び、『豊饒の海』を予告するような記載があり[ 1] 、初期作品の『花ざかりの森 』『中世 』『煙草 』などにも「前世 」への言及が見られ、もともと三島には早くから転生への関心を抱いていた傾向が見られる[ 2] 。
〈豊饒の海〉の題は「月の海 」の名のラテン語 の訳語であるが、三島は、作品完成前に有人ロケット の月面着陸 が行われることに触れて、〈人類が月 の荒涼たる実状に目ざめる時は、この小説の荒涼たる結末に接する時よりも早いにちがひない〉と述べ[ 12] 、題名は、〈月のカラカラな嘘の海を暗示 した題で、強ひていへば、宇宙 的虚無感と豊かな海 のイメーヂとをダブらせたやうなもの〉で、禅 語の〈時は海なり〉の意味もあると説明している[ 13] 。
三島は、論理 も体系 もない芸術 の宿命 や限界に、大きな哲学 の論理構造を持つ大乗仏教 の唯識 の思想のような〈人間を一歩一歩狂気 に引きずりこむような、そういう哲学体系〉を小説の中に反映させた長編を書き出したと述べ[ 14] 、第二巻の連載中には、汎神論 のような宗教 の世界像のようなものを、〈文学であれができたらなあ〉という願望を示しながら以下のように語っている[ 15] 。
そういう世界包括的なものを文学で完全に図式化されちゃったら、だれも動かせないでしょう。日本だったら「
源氏 」がある意味でそうかもしれないし、宗教ではありませんけれども
馬琴 が一生懸命考えたことはそういうことじゃないか。
仁義礼智忠信孝悌 、ああいうものをもってきて、人間世界を完全にそういうふうに分類して、長い小説を書いて、そうして人間世界を全部解釈し尽くして死のうと思ったんでしょう。
— 三島由紀夫「対談・人間と文学」(中村光夫 との対談)[ 15]
また、プルースト も『失われた時を求めて 』を書くことで、〈現実を終わらせようとした〉とし、その理由を以下のように三島は述べている[ 15] 。
ことばというものは終わらせる
機能 しかない。はじめる機能などありはしない。
表現 されたときに何かが終わっちゃう。その覚悟がなかったら
芸術家 は表現しなければいい。一刻一刻に過ぎてゆくのをだれもとめることはできない。しかしことばが出たらとめられる。それが
芸術 作品でしょう。それをだんだん広めていけば、ああいうものをやりたいという意欲はわかる。現実を終わらせちゃうことですね。(中略)ことばというのは世界の
安死術 だと思いますね。
鴎外 の「
高瀬舟 」ではないけれども、ことばというのは安死術です。そうしなければ時が進行してゆくことに人間は耐えられない。
— 三島由紀夫「対談・人間と文学」(中村光夫との対談)[ 15]
こういった三島の創作動機を松本徹 は、「小説 」というものが出現して以来の、最長時間かつ国境 を越えた広大な空間 に展開させ、「この人間世界全体」を可能な限り覆い尽くし、その成り立ちと意味を解き明かして、「小説なるものの存立の意味を示す」という「究極の小説」を三島が目指し、さらに「日本語 として全きもの」を企図したと解説している[ 2] 。
『豊饒の海』の「創作ノート」は23冊あるが、ごく初期の大まかな構想では「五巻 」構成で、第一巻は〈夭折した天才の物語――芥川家モチーフ〉とあり、主人公を芥川龍之介 のイメージにして、その長男 次男らも想定に入れ、第二巻は〈行動家の物語――北一輝 モチーフ、神兵隊事件 のモチーフ〉、第三巻は〈女の物語――恋と官能―好色一代女 〉、第四巻は〈外国 の転生の物語〉、第五巻は〈転生と同時存在と二重人格 とドッペルゲンゲル の物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義 、人間性の仮装舞踏会 〉というものだった[ 16] [ 17] 。
その後は「四巻 」構成に変更され、第一巻『春の雪』は〈明治 末年の西郷家と皇族 の妃殿下候補との恋愛[ 16] 〉(実際にあったことではなく三島のアイデアではないかという推察もあるが[ 17] 、村松剛は女子学習院の関係者から実際に噂を耳にしたことのある恋愛事件だったと述べている[ 18] )で、西郷隆盛 の実弟・西郷従道 の一家が〈松枝家〉のモデルの一部となり、従道の次男・従徳 の妻の実家である岩倉 家(従道の息女・桜子の婚家でもある)が〈綾倉伯爵家〉のモデルの一部となる構想で固まり[ 16] [ 17] 、第二巻『奔馬』は血盟団事件 が題材となる[ 16] 。第三巻(五巻構成時の三巻と四巻の合体)は、〈タイ の王室の女or戦後の女〉が死なずに生き延びて〈60歳になつた男と結婚し、子を生む〉とあり、その後の構想では、姫が〈聡子or第二巻の女とよく似た女とlesbian Love〉となり、本多は清顕の生まれ変わりの姫に恋するが〈レズビアン ・ラブの失恋〉をするという流れに変化する[ 16] [ 17] 。
また第三巻『暁の寺』執筆の期間、三島は「楯の会 」と共に1969年(昭和44年)10月21日の国際反戦デーのデモ の鎮圧のため、自衛隊 の治安出動 直前の斬り込み隊として討死 する可能性を見ていたため、第三巻は「未完 」になるとも考えていた[ 19] [ 20] 。この時期に三島は川端康成 宛てに、自分の身にもしものことがあった場合の〈死後の家族の名誉〉を護ってもらいたいという内容の手紙を送っている[ 21] [ 22] 。しかし自衛隊の治安出動はなされずに憲法9条 改正の期待は潰え、「楯の会」の存在意義が見失われてしまった[ 20] [ 23] [ 24] 。三島は、『暁の寺』を脱稿した時の気持ちを〈いひしれぬ不快〉と述べ、その完成によって〈それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつた〉とし、以下のように語っている[ 19] 。
私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり
人生 であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。(中略)私はこの第三巻の終結部が嵐のやうに襲つて来たとき、ほとんど信じることができなかつた。それが完結することがないかもしれない、といふ現実のはうへ、私は賭けてゐたからである。(中略)しかしまだ一巻が残つてゐる。最終巻が残つてゐる。「この小説がすんだら」といふ言葉は、今の私にとつて最大の
タブー だ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することがイヤでもあり怖ろしいのである。
— 三島由紀夫「小説とは何か 」[ 19]
第四巻『天人五衰』は、実際に発表された作品と、創作ノートで検討されていたものと大きな隔たりがあるが、これは事前に構成をはっきりと固めずに、終結部分を不確定の未来 に委ねていたためで、何度も構想を練り直している[ 16] [ 17] 。一番初めの具体的な案は以下のようなものであった[ 16] [ 17] 。
本多はすでに老境。その身辺に、いろいろ一、二、三巻の主人公らしき人物出没せるも、それらはすでに使命を終りたるものにて、
贋物 也。四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八才で死せんとするとき、十八歳の少年現はれ、宛然、
天使 の如く、
永遠 の
青春 に輝けり。(今までの主人公が
解脱 にいたつて、消失し、輪廻をのがれしとは考へられず。第三巻女主人公は悲惨なる死を遂げし也) この少年のしるしを見て本多はいたくよろこび、自己の
解脱 の契機をつかむ。思へば、この少年、この第一巻よりの少年は
アラヤ識 の権化、アラヤ識そのもの、本多の
種子 なるアラヤ識なりし也。本多死せんとして解脱に入る時、
光明 の空へ船出せんとする少年の姿、窓ごしに見ゆ。(バルタザールの死)
[ 注釈 3] — 三島由紀夫「『豊饒の海』創作ノート」[ 16]
これに関連する第四巻の構想では、本多が転生者を探すために新聞の人探し欄や私立探偵 を使うなどし、聡子から手紙で〈何を探してをられる?〉と問われ、聡子を訪問した後に病に倒れて入院し、転生者の黒子 がある若い〈電工 の死〉(転落死)を窓越しに見て臨終 を迎える大団円のプランが看取されている[ 16] [ 17] 。1968年(昭和43年)のインタビューでも、〈ドス・パソス の有名な「U・S・A 」みたいに、その時点の日本の現状にあるものをみなブチ込んで、アバンギャルド 的なものにするつもりだ〉と三島は述べている[ 10] 。この〈若い電工〉という転生者の死が本多に救済 をもたらすという構想は、第三巻の完成の〈いひしれぬ不快〉の後でも基本的には変わらなかったが、しかしその後第四巻の主題は〈悪 の研究〉と変更され、〈天使の如く〉であった〈少年〉が、〈悪魔 のやうな少年〉に変更されてゆく[ 16] [ 17] 。
また当初、第四巻の完結は1971年(昭和46年)末になるであろうと三島は述べていたが[ 1] 、実際の掲載終了は三島の自死 (三島事件 )により当初の予定よりも約1年余り早まった。1970年(昭和45年)3月頃、三島は村松剛 に、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなった」と洩らしていたとされる[ 25] 。なお、〈天人五衰 〉の前に予定されていた第四巻の題名は〈月蝕 〉だった[ 16] 。
最終巻の執筆が概ね出来上がっていた1970年(昭和45年)9月の時点で三島は、第三巻以降への流れについて、現世 の人間が〈これが極致だ〉と思考したことが、第三巻で〈空観 、空〉の方へ溶け込まされるとし[ 26] 、その〈残念無念〉の感覚を設定するには、第一巻と第二巻を戦前に設定させて、第三巻で一度〈空〉が生じ、〈それからあとはもう全部、現実世界というのはヒビが入ってしまう〉流れとなり、それが次元 は違うが、〈現実世界の崩壊〉を〈戦後 世界の空白〉のメタファ となると語っている[ 26] 。
僕にとっても、戦後世界というのは、ほんとに信じられない、つまり、こんな空に近いものはないと思っているんです。ですから
仏教 の空の観念と、戦後に僕がもっている空の観念とがもしうまく適合すればいいんですけれどもね。小説としてはもう完全に下り坂になるわけです。そこからはもう「絶対」もなんにもない。
— 三島由紀夫「文学は空虚か」(武田泰淳 との対談)[ 26]
そして三島は〈空を支える情熱 〉は、信仰 以外にはないとしつつ、信仰者 や信仰になったら小説ではなくなるので、第四巻の主人公を〈悪魔 的〉にし、〈空を支えるのが、空観という形で、悪魔の仕業のように考える〉方法にしたと説明している[ 26] 。
また同時期に、〈第四巻の幸魂 は、甚だアイロニカル な幸魂で、悪 (自意識の悪)が主題ですが、最後の本多の心境は、あるひは幸魂に近づいてゐるかもしれません。(中略)この全巻を外国の読者に読んでもらふとき、はじめて僕は一人の小説家とみとめられるであらうと、それだけがたのしみです〉とドナルド・キーン 宛てに三島は説明している[ 13] 。
自死の一週間前には、『豊饒の海』の主題と終局について三島は以下のように語っている[ 27] 。
絶対者 に到達することを夢みて、夢みて、夢みるけれども、それはロマンティークであって、そこに到達できない。その到達不可能なものが芸術であり、到達可能なものが行動であるというふうに考えると、ちゃんと
文武両道 にまとまるんです。(中略)あの作品では絶対的一回的人生というものを、一人一人の主人公はおくっていくんですよね。それが最終的には
唯識論 哲学の大きな
相対主義 の中に溶かしこまれてしまって、いずれもニルヴァーナ(
涅槃 )の中に入るという小説なんです。
— 三島由紀夫「三島由紀夫 最後の言葉」(古林尚 との対談)[ 27]
ちなみに、恩師の清水文雄 宛てへの最後の書簡では、〈小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならない〉とし、以下のように述べている[ 28] 。
カンボジア の
バイヨン 寺院のことを、かつて「
癩王のテラス 」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあとで、一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、一ト並べにされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。
[ 注釈 4] — 三島由紀夫「清水文雄 宛て書簡」(昭和45年11月17日付)[ 28]
執筆期間は1965年(昭和40年)6月から1966年(昭和41年)11月まで[ 29] 。
モデルとなる寺の取材のため、三島が初めて奈良県 の圓照寺 に行った日は1965年(昭和40年)2月26日である[ 29] 。松枝侯爵邸のモデル(環境および建築としての邸のモデル)は、西郷従道 の邸宅で、この洋風建築は博物館明治村 に保存されている[ 30] 。
この邸宅をモデルにしたのは、西郷家の誰かと皇族の妃殿下候補が恋愛した事件の噂が実際にあったことも三島の興味をそそったのではないかと推察されており[ 18] 、三島のノートには尼寺の林丘寺 に関する聞き書きの記述もある[ 16] [ 18] 。
松枝家の別邸として登場する「終南別業」(王摩詰 の詩の題をとって号した)は、旧加賀藩 主・前田本家第16代目当主・前田利為 侯爵家の広壮な別邸をモデルとしている[ 31] 。加賀藩・前田家は、三島の祖父・橋健三 、曽祖父・橋健堂 が代々仕えた家である[ 31] 。綾倉聡子のモデルとしては北白川祥子#その他 を参照。
三島は『春の雪』において、〈会話のはしばしにまで、古い上流階級 の言葉の再現〉をしたとし、〈あと十年もたてば、これらの言葉は全くの死語となるであらう〉と述べ[ 30] 、『春の雪』は、〈『花ざかりの森 』や『盗賊 』の系列の延長線上にあるもの〉としている[ 10] 。
時代は明治末から1914年(大正3年)早春まで。
勲功華族 たる松枝侯爵の令息・松枝清顕は、出生時から貴族 であることが約束され何不自由ない生活を送っていたが、流れるままの生活に何か蟠りを抱えていた。清顕は幼い頃に、堂上華族 の綾倉家に預けられていた。本物の華族の優雅を身につけさせようという父の意向であった。
綾倉家の一人娘・綾倉聡子は清顕より2歳年上で何をやっても優れた優雅な令嬢である。そんな幼馴染の聡子は初恋のようでもあり、姉弟のように育てられた特別な存在であったが、自尊心の強い繊細な18歳の清顕にとって聡子は、うとましくも感じられる複雑な存在であった。聡子もいつからか清顕を恋い慕うようになっていたが、清顕は些細なことで聡子に子供扱いされたと思い、自尊心を傷つけられ、突き放したような態度をとるようになる。聡子は失望して洞院宮治典王殿下と婚約するが、清顕は、父が聡子の縁談話を話題にしても、早く嫁に行った方がよいという冷めた態度であった。しかし聡子は、清顕の想像を超えて清顕のことを深く愛していたのである。
いよいよ、洞院宮治典王殿下との婚姻の勅許 が発せられた。清顕の中でにわかに聡子への恋情が高まってくる。皇族 の婚約者となったことで聡子との恋が禁断と化したことから、日常生活からの脱却を夢見る清顕は、聡子付きの女中・蓼科を脅迫し、聡子と逢瀬を重ねることを要求し、聡子もこれを受け入れる。親友・本多繁邦の協力もあり密会は重ねられ、聡子は妊娠してしまう。中絶 を聡子から拒否された蓼科が自殺未遂したことにより、清顕と聡子の関係が両家に知れ渡った。聡子は大阪 の松枝侯爵の知り合いの医師の元で堕胎をさせられ、そのまま奈良 の門跡寺院 「月修寺」で自ら髪を下ろし出家 する。洞院宮治典王殿下との婚姻は聡子の精神疾患を理由に取り下げを願い出た。
清顕は聡子に一目会おうと春の雪 の降る2月26日に月修寺に行くが門前払いで会えない。なおも清顕は聡子との面会を希望するが、聡子は拒絶する。そして、雪中で待ち続けたことが原因で肺炎 をこじらせ、20歳の若さで亡くなる直前に、清顕は親友・本多繁邦に、「又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で」と言い、転生 しての再会を約束する。
松枝清顕(18 - 20歳)
第一巻の主人公。学習院高等科 学生。松枝侯爵 家の一人息子。祖父は明治維新 の功臣。幼少期には堂上貴族 の綾倉家に行儀見習いとして預けられていた。「又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で」と本多に言い残し、20歳で夭折。
綾倉聡子(20 - 22歳)
羽林家 綾倉伯爵 家の一人娘。かつては清顕と姉弟のように育った。清顕より2歳年上。のちに月修寺に出家する。
本多繁邦(18 - 20歳)
清顕の親友で同級生。判事 の父を持ち、法律の勉強をしている。清顕と聡子の逢引の手助けをする。全巻にわたって登場し、主人公の転生に居合わせる副主人公、あるいは主人公。このシリーズ全体のキーパーソン 。
松枝侯爵(41 - 43歳くらい)
清顕の父。新華族 となり、由緒ある華族の綾倉家の雅にあこがれる。豪放な性格。
松枝侯爵夫人・都志子
清顕の母。現実的で鈍感な心性。
月修寺門跡(老年)
聡子の大伯母。松枝邸庭園の滝口で死んでいた黒犬を弔う。のちに出家を希望する聡子を迎え入れる。
松枝侯爵の母(老年)
清顕の祖母。邸内の離れに住んでいる。聡子を妊娠させた清顕に、宮様の許婚を孕ましたとは天晴れだね、さすが清顕はお祖父様の孫だ、と褒める。
みね
松枝家の女中 。松枝侯爵のお手つき。尻軽で朗らかな娘。のちに暇を出され飯沼茂之と夫婦となる。
飯沼茂之(23 - 24歳)
松枝家の清顕付きの書生 。清顕と蓼科に、女中・みねとの仲をとりもってもらったのと交換に、清顕の腹心となる。みねとの仲が侯爵に漏れ、松枝家を出てのちに女中・みねと夫婦となる。
蓼科(62 - 64歳)
綾倉家に仕える老女。聡子付き女中。清顕と聡子の逢引の手助けをする。過去に主人の綾倉伊文伯爵と関係を持ったことがある。
綾倉伊文伯爵
聡子の父。怪我や病気を極端に恐れる潔癖症。かつて松枝侯爵から無意識で言われたはずかしめに傷つき、松枝侯爵の紹介した縁組に聡子を処女で嫁がせるなと蓼科に命じていた。
綾倉伯爵夫人
聡子の母。
パッタナディド殿下(ジャオ・ピー)(18 - 19歳)
シャム の王子。ラーマ5世 の息子。日本に留学し、学習院 に遊学する。いとこのクリッサダ殿下(クリ)の妹・月光姫が恋人。姫の餞別のエメラルド の指環 を学習院寮で無くしてしまう。クリ・清顕・本多と鎌倉 (松枝家の別荘。モデルの家は現・鎌倉文学館 )で夏を過ごす。姫が死んだという知らせを受け、予定を切り上げて帰国する。
クリッサダ殿下(クリ)(18 - 19歳)
パッタナディド殿下のいとこ。ラーマ4世 の孫。同い年のパッタナディド殿下と一緒に日本に留学する。妹は月光姫。妹の死を知り帰国する。
洞院宮治典王(25 - 26歳)
皇族 。近衛騎兵 大尉 。勇武を好む。聡子と婚約し、婚姻の勅許 が下りる。聡子より4歳年上。
新河男爵(34歳)
豪商。薩長 政府と持ちつ持たれつの仲。日本の風習を嘲笑し、英国流を旨とする。
新河男爵夫人
新しもの好きで、夫に習い英国流の新しい思想を旨とするが思想的なことは何一つわからぬ夫人。
『春の雪(豊饒の海・第一巻)』(新潮社 、1969年1月5日) NCID BN04808298
装幀:村上芳正 。布装(紫絹装)。貼函。金色帯。269頁。帯(裏)に川端康成 、北杜夫 による作品評。
※ 私家限定本(総革装。天金。見返しマーブル 紙使用)4部あり。
※ 奥付での印刷・発行日表記が、前年の「昭和43年 10月25日印刷/昭和43年10月30日発行」となっているものが小部数あり。
文庫版『春の雪(豊饒の海・第一巻)』(新潮文庫 、1977年7月30日。改版2002年10月15日。新版2020年11月)
新装版『春の雪(豊饒の海〈一〉)』(新潮社、1990年9月10日)
英文版『Spring Snow―The Sea of Fertility』(訳:Michael Gallagher)(Knopf、1971年。他多数)
『春の雪』(ポニー ・カセット文庫、1970年5月) - カセットブック
『春の雪』(ビクター 、1973年5月) - 舞台録音
執筆期間は1966年(昭和41年)12月から1968年(昭和43年)6月まで[ 29] 。
『奔馬』の題材は、昭和初期に起こった血盟団事件 をヒントにしている[ 16] 。三島は取材のため1966年(昭和41年)8月に奈良県の大神神社 と、熊本県 の新開皇大神宮 、桜山神社 を訪れている[ 29] [ 32] 。
作中で勲が愛読している『神風連 史話』は、三島の作中作品で架空の歴史書であるが、福本日南 の『清教徒神風連』や石原醜男 の『神風連血涙史』などが元になっている[ 22] 。『奔馬』について三島は、〈『英霊の聲 』や『剣 』の集大成〉だとし、〈これを読めば本当の僕がわかってもらえるだろう〉と語っている[ 10] 。
時代は1932年(昭和7年)5月から1933年(昭和8年)年末まで。
聡子と最後に会うことなく清顕が死んでから18年。彼の親友であった38歳の本多繁邦は、大阪控訴院 (高等裁判所 に相当)判事 になっていた。6月16日、本多は頼まれて見に行った大神神社 の剣道 試合で、竹刀 の構えに乱れのない一人の若者に目がとまった。彼は飯沼勲という名で、かつて清顕付きの書生だった飯沼茂之の息子で18歳だった。試合後、本多は宮司の特別な許可を得て、禰宜の案内で禁足地の三輪山 山頂の磐座へ参拝する。摂社の狭井神社でお祓いを済ませた後,御山の登り口にて野生の笹百合 を見て、率川神社 の三枝祭を想起する。山頂の沖津磐座と高宮神社に至る禁足地の山中で三光の滝で勲に出くわし、彼の脇腹に清顕と同じく3つの黒子があるのを発見する。本多は死に際の清顕の言葉を思い出し慄然とする。翌日の三枝祭の巫女の舞と百合を前に「これほど美しい神事は見たことがなかった。」という思いと前日の剣道の試合との混淆を体験するに至る。
本多は勲から、愛読しているという『神風連 史話』を渡される。勲はその精神を以て有志達と「純粋な結社」を結成、決死の何事かを成し遂げようとしていた。勲は政界 財界 華族 の腐敗を憤り、仲間と共に剣 によってこの国を浄化しようと考えていたのだった。陸軍 の堀中尉 とも近づき、洞院宮治典王殿下にも謁見した。軍の協力に期待がもて仲間も増えるが、勲は、父の主宰する右翼 塾「靖献塾」にいる佐和から、財界の黒幕・蔵原武介だけはやめろと忠告される。塾が蔵原絡みの金で経営されているのをほのめかされ、勲は自分の純粋の行為の目的が汚されたと感じる。佐和は、蔵原は自分が退塾して刺すか、もし勲がやるならば自分も同志に入れてくれと言う。自分が加われば塾に傷がつかず上手くやれると言うが、勲は何も計画していないと嘘で切り抜ける。
本多は勲の父・飯沼に誘われ山梨県 梁川での錬成会にやって来たが、そこで勲の荒魂 を鎮めようとする白衣の男たちを見る。勲は、「お前は荒ぶる神だ。それにちがひない」と父に言われる。そして、その光景は清顕の夢日記に描かれていた光景そのものだった。本多は勲が清顕の生まれ変わりであるという確信を深める。
堀中尉が満州 へ転属になり、勲の仲間は減るが、財界要人の刺殺計画は佐和を同志に加え秘密裡に練られていた。ところがどこからか計画は漏れ、勲たちは実行前に逮捕されてしまう。本多は急遽、判事を辞して弁護士 となり勲を救う決意をする。本多の弁護により、勲たちは1年近い裁判の末、刑を免除するという判決を受けて釈放される。勲は警察へ密告したのが父だったと知っても驚かないが、父に知らせたのが恋人の鬼頭槇子だと佐和から聞かされて茫然とする。酔った勲が、うわ言で「ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇 の光りの中で。……」と言うのを本多は聞く。
12月15日、蔵原武介は伊勢に遊んで松阪牛を喰べた翌朝、知事と共に伊勢神宮 内宮 を参拝する。玉串 と二脚の床几 が用意され別格の扱いを受けるが、玉串を尻に敷く涜神を犯したことを勲は知る。12月29日、勲は姿をくらまし、短刀を携えて伊豆山 に向かう。そして、蔵原の別荘に忍び込み「伊勢神宮で犯した不敬の神罰を受けろ」と言い殺害する。追手を逃れ、勲は夜の海 を前にした崖 で鮮烈な切腹 自決 を遂げる。第二巻は「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。」と締めくくられる。
飯沼勲(18 - 19歳)
第二巻の主人公。國學院大學 予科学生。剣道 3段。昭和の神風連 たらんと行動をおこす。滝の下で本多と会う。清顕と同じく脇腹に3つの黒子がある。満20歳の年を目前に切腹 する。
本多繁邦(38 - 39歳)
大阪控訴院 判事 となる。後に退職して勲のために弁護士 になる。
本多梨枝
本多の妻。つつましい性格。夫婦に子供はいない。
飯沼茂之(43 - 44歳)
勲の父。書生を辞め松枝家を出た後、みねと夫婦になり、右翼団体 「靖献塾」の塾長となっている。
飯沼みね
勲の母。かつては松枝家の女中だった。中年肥りしている。6年前に塾生の一人と浮気し、夫に打たれ入院したことがある。
鬼頭謙輔
陸軍 中将 。名高い歌人 。鬼頭家と飯沼家は家族ぐるみの付き合いがある。
鬼頭槇子(32、3歳)
鬼頭中将の娘で、当人も歌人。勲の恋人。離婚経験者。実在の歌人・斎藤史 がモデルではないかという推察もあるが[ 33] [ 34] 、それに異を唱える意見もある[ 35] 。
堀中尉(26、7歳くらい)
陸軍歩兵 中尉 。清顕と聡子が最初に密会した下宿屋・北崎に住んでいる。
洞院宮治典王(44 - 45歳)
山口で聯隊長をしている。剛毅な宮様軍人。
佐和(40 - 41歳)
靖献塾の年長塾員。世事に長けている。勲の理解者だが、一筋縄ではいかない人物。
井筒、相良(18 - 19歳)
勲の学友。要人刺殺計画の仲間。
蔵原武介
資本家。財界 の黒幕。辺幅を飾らない人柄で愛嬌がある。伊豆山 の蜜柑畑に別荘を持つ。
新河亨(新河男爵)(53 - 54歳)
軽井沢に広大な別荘を持つ豪商。日本の風習を嘲笑する。右翼に狙われブラックリスト に載る。勲の暗殺計画にも名前が上がり、刺殺する担当は勲であった。
新河男爵夫人・訽子
自分たちを野蛮な国(日本)に滞在している白い肌の文明人と思い、ロンドン に「帰り」たがっている。
松枝侯爵(61歳くらい)
清顕の父。実権がなくなり、新河男爵家の別荘に集まる客の中で、唯一右翼に狙われない。
真杉海堂
神道家。平田派 国学者、国粋主義者。山梨県に道場を持つ。
北崎玲吉(79歳)
北崎下宿屋の亭主。勲の裁判における証人。
山尾綱紀
『神風連史話』の著者。
『奔馬(豊饒の海・第二巻)』(新潮社 、1969年2月25日) NCID BN01612110
装幀:村上芳正 。布装(黒絹装)。貼函。銀色帯。402頁。帯(裏)に川端康成 による作品評。
※ カバーの墨跡は、神風連 の加屋霽堅 の書より。
※ 私家限定本(総革装。天金。見返しマーブル 紙使用)4部あり。
文庫版『奔馬(豊饒の海・第二巻)』(新潮文庫 、1977年8月30日。改版2002年12月5日)
カバー装幀:池田浩彰。解説:村松剛
※ 改版2002年より、カバー改装:新潮社装幀室
新装版『奔馬(豊饒の海〈二〉)』(新潮社、1990年9月10日)
英文版『Runaway Horses―The Sea of Fertility』(訳:Michael Gallagher)(Tuttle、1973年1月。他多数)
執筆期間は第一部が1968年(昭和43年)7月から1969年(昭和44年)4月までで[ 20] 、第二部は1970年(昭和45年)2月まで[ 29] 。
『暁の寺』の取材のため、三島はインド とバンコク に行くが、ガンジス川 のベナレス を見て、〈インドでは宗教 が生きています。あれだけ宗教がナマナマしく生きてゐる国は見たことがありませんね〉と語っている[ 36] 。
ジン・ジャンのモデルには、タイ からの留学生 で22歳の東大 経済学部 に学んでいたスワンチットという美人学生を留学生会館で小島千加子 (雑誌『新潮 』の三島担当編集者)の協力によって選び、一度三島邸で面会したものの、その後に一晩東京の街で会う約束をすっぽかされたまま、彼女が帰国してしまったために作品の内容もそれに沿ったものに変更されていったという[ 37] 。また、ドイツ文学者 ・今西康のモデルは澁澤龍彦 で、久松慶子のモデルは朝吹登水子 と白洲正子 を足して二で割ったものだと三島は小島に語ったという[ 37] [ 注釈 5] 。
標題の『暁の寺』は、バンコクにあるワット・アルンラーチャワラーラーム から来ている。
第一部 - 時代は1941年(昭和16年)から終戦の1945年(昭和20年)まで。
47歳の本多は訴訟の仕事で、かつて清顕と親交のあったシャム(タイ) の王子と、そのいとこの故郷であるバンコク に来ていた。そこで彼は、日本人の生まれ変わりであると主張する7歳の王女・月光姫(ジン・ジャン)と出会う。月光姫は本多を見ると懐かしがり、黙って死んだお詫びがしたいと言った。彼女は勲が逮捕された日付も、清顕と松枝邸の庭園で門跡に会った年月も正確に答え、明らかに生まれ変わりを証明していたが、後日の姫とのピクニック では、脇腹に黒子はなかった。それから本多はインド へ旅行し、そこで深遠な体験をする。そして、インドの土産を月光姫に献上し、本多にすがって泣く姫との別れを惜しみながら日本へ帰国する。帰国2、3日後、日本とアメリカ との戦争が始まる。
インドの体験と親友の生まれ変わりに触発され、仏教の輪廻転生 、唯識 の世界にも足を踏み入れた本多は、戦争中、様々な宗教 書を読みあさり研究に没頭する。ある日、仕事の用件のついでに松枝邸跡に足をのばしてみると、そこは焼跡になっていたが、偶然にも老いさらばえた蓼科に会う。本多は聡子に会いたいと思ったが戦局のきびしさでままならなかった。
第二部 - 時代は終戦後の1952年(昭和27年)と、15年後の1967年(昭和42年)。
58歳の本多は戦後、土地所有権を巡る裁判の弁護の成功報酬で多額の金を得て、富士 の見える御殿場 に土地を買い別荘を建てた。隣人には久松慶子という50歳前の有閑婦人がいて、本多の友人となる。別荘の客には他に、かつて勲と恋仲であり、勲の計画を父・飯沼へ密告した歌人 ・鬼頭槙子や、その弟子・椿原夫人、ドイツ文学者 ・今西康らがいた。しかし、本多が一番待ち望んでいた客は日本に留学 して来た18歳のジン・ジャンであった。
5年前の1947年(昭和22年)に本多は、皇族の籍を失った洞院宮治典王が開業した骨董屋で、かつて学習院の寮でシャム(タイ) の王子・ジャオ・ピーが紛失した初代・月光姫の形見の指環 を発見して買い取り持っていた。これを日本に留学している二代目の月光姫(ジン・ジャン)に渡すため、本多は別荘に彼女を招くが、その日、姫は来ず、十日以上経って漸く東京で会うことができた。幼い時、勲の生まれ変わりだと主張していたことを何も憶えていないとジン・ジャンは言う。美しく官能的に成長した姫に本多は魅了され、年齢不相応の恋心を抱く。そして、ジン・ジャンに執心し翻弄され、別荘のプールに招いた彼女の脇腹に黒子が無いことを確かめた。その夜、本多は別荘の部屋に泊まったジン・ジャンを覗き穴から覗くが、そこに見たものは、慶子と裸で抱き合う同性愛 (レズビアン )行為の最中の光景だった。そして、その脇腹には3つの黒子があった。驚いていたのもつかの間、やがて別荘が火事 になり、別の部屋に泊まっていた今西と椿原夫人が死亡してしまう。帰国したジン・ジャンもその後、消息を絶ってしまった。
15年後の1967年(昭和42年)、73歳の本多は米国大使館に招かれ、その晩餐会の席上でジン・ジャンにそっくりの夫人に会う。その夫人はジン・ジャンの双生児 の姉であり、妹は20歳の時に庭でコブラ に腿を噛まれ死んだと本多に告げる。
第一部
本多繁邦(47 - 51歳)
第三巻・第一部の主人公。弁護士の仕事でバンコックに行き、薔薇宮で勲の生まれ変わりと思える幼いタイの王女と対面する。
ジャントラバー姫(ジン・ジャン)(7歳)
タイ の王女・月光姫。パッタナディド殿下(ジャオ・ピー)の末娘。殿下は娘に、かつて死に別れた恋人の名を付けた。ジン・ジャンは勲の過去世を憶えている。
菱川
タイでの通訳兼案内人。芸術家崩れ。依頼人の五井物産の経費で贅沢な朝食やワインを飲み食いする。本多に嫌われる。
蓼科(95歳)
元・綾倉家の聡子付きの女中。旧松枝邸の焼跡の敷地で、本多と偶然会い、生卵をもらう。
第二部
本多繁邦(58歳。73歳)
第三巻・第二部の主人公。弁護の仕事で成功し、御殿場 に別荘を建てる。ジン・ジャンの肉体見たさにプールや覗き穴を作る。
ジャントラバー姫(ジン・ジャン)(18歳)
成長と共に過去世の記憶がなくなる。美しく官能的になり本多を魅了する。本多がプールで見たときは黒子が無かったが、部屋で覗いたときは脇腹に3つの黒子があった。
久松慶子(49歳)
本多の別荘の隣人で本多の友人となる。離婚経験のある有閑婦人。包容力のある性格で日本人離れした体格。のちに同性愛 者とわかる。
本多梨枝
本多の妻。腎臓の持病がある。ジン・ジャンと夫との仲を疑い嫉妬するが、慶子には嫉妬しない。
鬼頭槇子(52、3歳)
歌人。かつて勲の計画を飯沼に密告した勲の恋人。自分の目の前で、椿原夫人と今西が性行為をするのを観察する。
椿原夫人(52、3歳)
鬼頭槇子の弟子。戦争で亡くした息子・曉雄のことばかり口にする。
今西康(40歳くらい)
ドイツ文学者。今西証券の次男坊で裕福な独身生活を送っている。蒼白な長身で神経質な顔立ち。小ばかにしていた椿原夫人と深い仲となり心中 する。
新河元男爵(73歳)
老いてもパーティー好きだが、その皮肉に毒がなくなる。
新河夫人・訽子
老いてますます自分のことしか語ろうとしない。
飯沼茂之(63歳)
勲の父。終戦直後に自刃を試み失敗した傷を本多に見せに来る。生活に困窮し、2年前にみねと離婚する。
志村克己(21歳)
慶子の甥。慶応大学 生。本多がジン・ジャンの裸体見たさに、慶子に依頼し呼んだ手の早い軽薄な青年。
ジン・ジャンの双生児 の姉(33歳)
ジン・ジャンとよく似ている。米国大使館の晩餐で本多に会い、ジン・ジャンの死を知らせる。
『暁の寺(豊饒の海・第三巻)』(新潮社 、1970年7月10日) NCID BN04808436
装幀:村上芳正 。布装(赤絹装)。貼函。紫色帯。341頁。帯(裏)に三島の『小説とは何か』より抜粋された「読者へ」と題した文章。
※ 私家限定本(総革装。天金。見返しマーブル 紙使用)4部あり。
文庫版『暁の寺(豊饒の海・第三巻)』(新潮文庫 、1977年10月30日。改版2002年11月15日)
カバー装幀:池田浩彰。解説:森川達也
※ 改版2002年より、カバー改装:新潮社装幀室
新装版『暁の寺(豊饒の海〈三〉)』(新潮社、1990年9月10日)
英文版『Temple of Dawn―The Sea of Fertility』(訳:Cecilia Segawa Seigle、D.E. Saunders)(Knopf、1973年10月。他多数)
執筆期間は1970年(昭和45年)5月から同年11月まで[ 29] [ 注釈 6] 。
三島は最終巻の取材のため、1970年(昭和45年)5月に清水港 、駿河湾 を訪れ、5月末頃に題名を〈天人五衰 〉に決めた[ 29] 。
時代は1970年(昭和45年)から1975年(昭和50年)夏まで。
76歳となった本多はすでに妻を亡くし、67歳の久松慶子と気ままな旅をしたりして暮していた。本多は、天人伝説 の伝わる三保の松原に行った折、ふと立ち寄った清水港 の帝国信号通信所で、そこで働く聡明な16歳の少年・安永透に出会う。彼の左の脇腹には3つの黒子があった。本多は透を清顕の生まれ変わりでないかと考え、養子 にする。そして英才教育や世間一般の実務マナーを施し、清顕や勲のような夭折者にならないように教育する。しかし本多は、透の自意識の構造が自分とそっくりなのを感じ、本物の転生者ではないような気もした。透は次第に悪魔 的になっていき、養父・本多が決めた婚約者の百子を陥れて婚約破棄にする。東大に入学してからは80歳の本多にも危害を加えるようになった。
透に虐待されるストレスから本多は、20年以上やっていなかった公園でのアベック 覗き見 を再びしてしまい、警察に取り押さえられ、その醜聞が週刊誌沙汰になる。これを機に透は、本多を準禁治産者 にしようと追い込み、自分が本多家の新しい当主として君臨しようと企む。見かねた久松慶子が透を呼び出した。そして、本多が透を養子にした根拠の3つの黒子にまつわる転生の話をし、あなたは真っ赤な贋物だとなじる。慶子は、あなたがなれるのは陰気な相続人だけと透を喝破する。自尊心 を激しく傷つけられた透は、本多から清顕の夢日記を借りて読んだ後、12月28日に夢日記を焼いて服毒自殺 を図り、未遂に終わったものの失明 してしまう。21歳の誕生日の数か月前のことだった。事情を知った本多は慶子と絶交した。
翌年の3月20日の21歳の誕生日を過ぎたが、透は大学をやめ、点字 を学んで穏やかに暮らしていた。性格は一変し、狂女 ・絹江と結婚して彼女のなすがままに、頭に花を飾って天人五衰 のようになっていた。やがて、絹江に妊娠の兆候が現れた。一方、本多は自分の死期を悟り、60年ぶりに奈良 の月修寺へ、尼僧門跡 となった聡子を訪ねるのであった。だが、門跡になった聡子は、清顕という人は知らないと言う。門跡と御附弟は本多を縁先に導く。夏の日ざかりのしんとした庭 を前にし、本多は何もないところへ来てしまったと感じる。
安永透(16 - 21歳)
第四巻の主人公。中学卒業後、清水港 で通信員をしている。3つの黒子があるので、本多が、清顕、勲、ジン・ジャンの生まれ変わりだと信じて養子にする。20歳の時、自殺未遂し盲目 となる。
本多繁邦(76 - 81歳)
妻に先立たれ、慶子と行った旅先で、転生者らしき透を見つけ養子 にする。
久松慶子(67 - 72歳)
本多の友人。透に本多の秘密を教える。そのため、本多から絶交される。
古沢(21歳)
透の家庭教師 の東大生の一人。透に親切にしていたが、左翼 思想を透に見抜かれ密告される。
浜中繁久(55歳)
東北の旧藩主 出身。領地の地方銀行の頭取をしている。
浜中栲子
浜中繁久の妻。大名華族出で、太ってぞんざい。
浜中百子(18歳)
透と同じ歳の美しい娘。両親の勧めで透の許婚となるが、透に陥れられ婚約破棄にされる。
汀(25、6歳)
百子を傷つけるために透に利用された童貞 喰いの女。
絹江(21 - 26歳)
自分を美しいと思っている狂女。透が清水港で通信員をしている時からの知り合い。透が心を許している数少ない人物。のちに盲目となった透と結婚し、妊娠する。
月修寺門跡(綾倉聡子)(83歳)
本多が訪ねて来て昔話をしても、清顕を知らないと言う。
月修寺御附弟(まだ若い)
門跡の手を引き、本多を縁先に導く。
『天人五衰(豊饒の海・第四巻)』(新潮社 、1971年2月25日) NCID BN04808549
装幀:村上芳正 。カバー画:三島瑤子 。布装(紺絹装)。貼函。青銀色帯。271頁
付録・対談:佐伯彰一 、村松剛 「認識と行動と文学―『豊饒の海』四部作をめぐって」
※ 私家限定本(総革装。天金。見返しマーブル 紙使用)4部あり。
文庫版『天人五衰(豊饒の海・第四巻)』(新潮文庫 、1977年11月30日。改版2002年9月20日)
カバー装幀:池田浩彰。解説:田中美代子
※ 改版2002年より、カバー改装:新潮社装幀室
新装版『天人五衰(豊饒の海〈四〉)』(新潮社、1990年9月10日)
英文版『The Decay of the Angel ―The Sea of Fertility』(訳:エドワード・G・サイデンステッカー )(Tuttle、1974年。他多数)
『春の雪』『奔馬』の刊行後の反響については、否定的なものも多少混ざっているが、概ねは好意的なものが多い[ 5] 。批判的なものとしては、森川達也 が、作品が「荒唐無稽」だとし[ 39] 、北村耕 は、作品に込められている「天皇 崇拝思想」を批判している[ 40] 。
肯定的なものは、桶谷秀昭 [ 41] 、福田宏年 [ 42] 、奥野健男 [ 43] 、佐伯彰一 [ 44] 、阿川弘之 [ 45] 、村上一郎 [ 46] 、高橋英夫 が[ 47] 、現代に対する挑戦、三島美学の集大成という受け止め方で[ 5] 、野口武彦 は、『豊饒の海』を「三島由紀夫氏の『失われた時を求めて 』である」と評し[ 48] 、三島は日本文学の遺産である「物語」を選択したと解説している[ 49] 。
中でも澁澤龍彦 は、「戦後文学最高の達成」とした上で、そこでは「行動と認識をいかに一致させるかの問題」が作品構成の動機になって、本多は「行動という危険な領域に惹かれつつ、その一歩手前で踏みとどまる小説家の営為」を象徴的に体現している人物と説明し[ 50] 、三島が中村光夫 との対談で、〈自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝 というのが主人公の行動を決定する、太陽崇拝は母であり天照大神 である。そこへ向っていつも最後に飛んでいくのですが、したがって、それを唆すのはいつも母的なものなんです〉[ 15] と述べていたことに触れながら、無意識の特性を持つ女(太陽)が男の「悪の芽を育て、悪を唆す」という存在でもある面を鑑みて、勲が死ぬ時に体内に太陽が入り込み、次回に女に転生するのは偶然ではなく、物語の論理的必然であると解説している[ 50] 。
川端康成 は、『春の雪』『奔馬』を読み、「奇蹟に打たれたやうに」感動、驚喜して[ 51] 、『源氏物語 』以来の日本小説の名作と思ったとし[ 52] 、以下のように高評価している[ 51] 。
このやうな古今を貫く名作、比類を絶する傑作を成した三島君と私も同時代人である幸福を素直に祝福したい。ああ、よかつたと、ただただ思ふ。この作は西洋古典の骨脈にも通じるが、日本にはこれまでなくて、しかも深切な作品で、日本語文の美彩も極致である。三島君の絢爛の才能は、この作で危険なまでの激情に純粋昇華してゐる。この新しい運命的な古典はおそらく国と時代と論評を超えて生きるであらう。
— 川端康成 「三島由紀夫『豊饒の海』評」[ 51]
『暁の寺』の刊行後には、文壇全般的な受け取られ方は芳しくはないが、佐伯彰一 や池田弘太郎 は、認識者の世界攻略のドラマという主題を看取し[ 53] [ 54] 、田中美代子 や磯田光一 は、本多とジン・ジャンの関係性を「密通」「エロス の弁証法 」と見なすことにより、認識の孕む生の豊饒さへの回路について言及している[ 55] [ 56] 。
三島の自死による『天人五衰』刊行後には、磯田光一や田中美代子が、『豊饒の海』の前半では心情の純化や生の極限が描かれ、後半は認識者・本多が主人公となり、その結末は三島の死と表裏の関係があるとし[ 57] [ 58] 、粟津則雄 は、死の主題への偏執や、個人を越えた全体への志向を指摘している[ 59] 。
澁澤龍彦や奥野健男 は、『天人五衰』で、三島を襲ったニヒリズム の露呈を指摘している[ 60] [ 61] 。澁澤龍彦は、末尾の夏の日ざかりを終戦の日の風景だと指摘し、以下のように評している[ 60] 。
『天人五衰』のラストの夏は、輝かしい
抒情 の夏ではないけれども、それでもやはり終末の夏、しんとした、あらゆる物音の消え去った、そのまま劫初の沈黙と重ね合わせられるような、三島氏がどうしてもそこから離れられなかった、あの永遠の夏であることに変りはなかったのである。それは、いわば三島文学の終末の夏でもあって、私はそこに、否応なしに感動させられたのであった。
— 澁澤龍彦 「ニヒリズムの凄惨な格闘」[ 60]
謎の多い『豊饒の海』への論究は非常に膨大な数があり、様々な観点から研究論がなされている[ 5] 。三島の他の作品との共通点を探る比較論的なもの、典拠となった『浜松中納言物語 』との比較論や、作品世界の構造を論じたナラトロジー 的なもの、『竹取物語 』や『源氏物語 』と重ねる研究論、個別の作中人物(本多、清顕、勲、ジン・ジャン、透、聡子、みね、蓼科、鬼頭槇子)の行動や内面を探ったもの、誰が贋物の転生者であるかを探ったもの、輪廻転生 と唯識論 の宗教 論的な観点からのもの、結末部の解釈を巡っての解釈論、日本の近代史などの歴史 や社会的な背景(神風連 、二・二六事件 や天皇 )との相関関係から論じたもの等々、多岐にわたって論究されている[ 5] 。
奥野健男 は、最終巻『天人五衰』の終り方が、三島の初刊行小説『花ざかりの森 』の終結部で老婦人が、〈どこへ行つてしまひましたやら。あんなものずきなたのしい気分。……わたくしのどこかにでも、そんなものがのこつてゐるやうにおみえでせうか〉と言った後に、客人を庭に案内し、〈生がきはまつて独楽 の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……〉という末尾と酷似していることを指摘している[ 4] 。奥野は「三島由紀夫の文学の華やかで激しい三十年は、同じ空夢の幻影から空夢の幻影への夢のまた夢というであったのであろうか。それが真の文学というものなのかもしれない」と述べている[ 4] 。
井上隆史 は、三島の自死の日が、『仮面の告白 』の起筆日の日付と同じことに着目し、『仮面の告白』の執筆動機が、〈私が今までそこに住んでゐた死の領域〉を超克することで、〈飛込自殺 を映画 にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖 の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉ような〈生の回復術〉だと三島が位置づけていたことから、以下のように論考している[ 62] 。
三島が死の日付として、また『天人五衰』の擱筆日として11月25日を選んだのは、フィルムを逆回転する前の状態、つまり自殺者が谷底で死んでいる状態に戻るということを意味する象徴的行為ではないだろうか。すなわち、『天人五衰』において『春の雪』にまで遡ってすべてを虚無で覆い尽くそうとしたのと同様に、三島はその文学活動の最後に、自分の作家的
アイデンティティ を確立させた『仮面の告白』まで遡り、その後の創作活動のすべてを解体し、虚無へと導いたのである。
— 井上隆史「虚無の極北の小説」[ 62]
佐伯彰一 は、三島が「純粋 情念 こそ歴史をふみこえ、時間 をのりこえ得るという思念」に繰り返し心惹かれていた作家であったことを鑑みて、『豊饒の海』の「時間の流れ」自体の定着に三島の意図はなく、むしろ「時間から脱け出し、時間を超えること」に三島の的があり、「時間の超克、棄却」が目指されていたとし[ 63] 、「近代小説の大前提と常識に向って正面切った反抗をくわだてた作品」で、「三島流の壮大な反・小説 の試み」がなされていると解説している[ 63] 。
柴田勝二 は、『金閣寺 』や『憂国 』『英霊の聲 』など三島文学には、主人公を行動に駆り立てる「他者的な精神 や霊魂 的な浸透」や、「別個の人間間で、その精神や魂 が憑依する関係性」があるとし、『春の雪』の煮え切らなかった清顕が、聡子への強い恋情を自覚する「変身」も、「烈しい恋愛者の霊魂が入り込んだ」場面だと考察し[ 64] 、その〈みやび〉の烈しさや荒々しさは、倭建命 や王朝 貴族 に底流し、〈非常の時には、「みやび」はテロリズム の形態をさへとつた〉[ 65] という三島が『文化防衛論 』で言及している意識と同じだと解説している[ 64] 。
また、『サド侯爵夫人 』にも見られるように[ 注釈 7] 、三島が作中の年や日時にメッセージを込める傾向を鑑みながら、聡子と皇族の婚約の勅許 が下るのが5月15日で、清顕が月修寺の聡子を訪れる日に雪 が降り、2月26日だという、「五・一五事件 」と「二・二六事件 」との連携性を柴田は考察し[ 64] 、転生する主人公たちの寿命 が〈二十歳〉であるのは、伊勢神宮 の式年遷宮 が20年ごとに行われるという神道 的な意味合いで、三島が『文化防衛論』で展開している、〈いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナル なのであつて、オリジナルはその時点においてコピー にオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになる〉[ 65] という関係性がそこに反映されているとし、本多が勲を見て〈清顕がよみがへつた!〉と感銘するのは、清顕が勲に「再生」していることの表われだと柴田は解説している[ 67] [ 注釈 8] 。
そして『天人五衰』の入稿日と自決の11月25日の意味については、「昭和天皇 が摂政 に就任した日」という安藤武 の考察と[ 68] 、松本健一 の「(三島が)じぶんだけの〈美しい天皇〉を抱きしめ、その〈美しい天皇〉の歌をもはや誰にも歌わせまいとして、一人あの世へと走り去ってしまったのではないか」という考察[ 69] を敷衍しながら、「時代への抗議」と共に三島が、昭和天皇が事実上〈神 〉になった日に自決 することで、人間天皇の代りに自らが「〈神〉の連続性」を掴んで、「神になる」行為であったとし[ 24] 、自国の主体性がなくなった時代背景を基調に書かれた最終巻の意味について柴田は以下のように論考している[ 24] 。
『天人五衰』においては転生が受け継がれず、憑依も
狂女 の上に
劇画 的にしか現われない。それはとりもなおさず、転生者たちに秘かに託されていた「天皇霊」の継承を、主人公ではなく、三島自身が担おうとしたからであっただろう。作品の末尾に記された「昭和四十五年十一月二十五日」という、四部作の完結と決起の日を結びつける日付は、自身の最期の鍵がこの作品自体にあることの表明にほかならなかった。また
藤原定家 を主人公として、人間が「神になる」主題を追求する作品はついに書かれなかった
[ 注釈 9] 。それは三島自身が「神になる」行為を全うするゆえに、書く必要がなくなったからでもあったに違いないのである。
— 柴田勝二 「〈神〉となるための決起――『天人五衰』と1970年11月25日」[ 24]
松本徹 は『天人五衰』の最終場面について、生まれ変わり の連鎖にずっと立ち会い、それに囚われてその連鎖から脱け出せない本多と、輪廻 の連鎖から逃れたところの解脱 の立場にいる聡子が「向き合っている」ということが肝心だとし[ 2] 、最後の〈何もない。記憶 もなければ何もないところ〉は、「世界 すべて消えるのではなく、輪廻の一つの輪が終わろうとしているところ」だと説明しながら、そこには「輪廻する生を根底で成り立たせているところのものが、露わになっている」と解説し、以下のように論じている[ 2] 。
冒頭の、透が望遠鏡で見た、なにも見えず、「いつもしたたかに
存在 の用意を蓄えてゐる」
海 に照応する、
阿頼耶識 そのものが、露わになって
日 に晒されているのです。さらに言えば、もろもろの存在を出現させるべく用意している存在の基底が、露出しているのです。
唯識論 に拠った「究極の小説」にふさわしい最後です。また、それだからこそ『豊饒の海』は、なにがなんでも完結させなくてはならなかったのです。
この世 なるもの、さらには小説なるものを出現させている、大本の大本が、ここには顔を覗かせているのです。
— 松本徹 「究極の始まり『豊饒の海』(二)」[ 2]
佐藤秀明は、この松本の論を敷衍しながら、本多の自意識の〈悪 〉(直接手を下さずに世界を〈虚無〉に陥れる)についても考察し、本多が聡子に再会しようとしたのは、聡子から世界を肯定されることで、「その時本多の自意識は、世界を無 に陥れようと図っていた」とし、以下のように論じている[ 3] 。
聡子によって世界が肯定され、本多の自意識がそれを無に移し変える、ただそれだけのことに老齢の本多は賭けたのである。本多の気配に異様なものを察知したのかどうか、門跡は唯識の立場で話をした。〈松枝さんといふ方は、存じませんな〉。世界は肯定されず、
空 である。本多の最後の目的は潰えた。世界は空である。しかし、阿頼耶識は世界を存在させる。だから〈庭は夏の日ざかりの日を浴びて〉そこに存在するのである。
— 佐藤秀明「〈作品解説〉豊饒の海」[ 3]
宮崎哲弥 は、第三部『暁の寺』でさかんに説かれている仏教は「中観 ではなく、唯識仏教」だとして、「(阿頼耶識を個我の根本識、対象世界の諸法の根本因と看做す)唯識説が仏教哲学の精華として礼賛されて」いるとし[ 70] 、ナーガセーナ の見解も「不徹底な立場と決めつけられている」と批判しつつ、「かかる仏教観が、そっくり三島自身のものでもあったとしたら、彼の仏教理解は、極めて浅薄なものであったと断ぜざるを得ない」としている[ 70] 。
小室直樹 は、第三部『暁の寺』について、「仏教のエッセンスは、ここにつきていると言ってよい」とし、三島が『ミリンダ王の問い ――インド とギリシャ との対決』の一節を説明して、〈ナーガセーナ長老は、はるかはるか後世になつてイタリア の哲学者 が説いたのとほとんど等しく、《時間とは輪廻の生存そのものである》と教へるのであつた〉と導いてゆく件りについて、以下のように評している[ 71] 。
日本人はすぐに『
般若心経 』こそ仏教の
真理 の
ダイジェスト だと言いたがる。(中略)三島由紀夫の仏教理解が、いかに徹底したものか。三島は決して、そこらへんの日本人がやりたがるように、『般若心経』の解説なんぞしはしない。宗教音痴の日本人に仏教の神髄を理解せしむるために、『ミリンダ王の問い』を引用し解説する。これのみにて三島の仏教理解の深さ、はるかに日本人を超えていると評せずんばなるまい。
— 小室直樹 「戦後天皇制に挑戦した三島由紀夫」[ 71]
また小室は、第四部『天人五衰』冒頭で三島が海の波 を描き「万物流転 」を表現していることについても、「仏教における因縁 のダイナミズムを、これほど見事に表現した文章をほかに知らない」と評している[ 71] 。
『豊饒の海』は、多様な解釈を誘うような細部の仄めかしがあったり、嘘 をつく人物がいたり、物語自体が本多の認識 にすぎなかった、あるいは、転生者が贋物 ではないか、など様々な読み方が可能で、謎に満ちている作品である[ 3] [ 63] 。
例えば、勲の母・みねが息子の顔を見て、〈飯沼と似てゐるやうでもあり、似てゐないやうでもある〉と思う場面など、勲の実父が松枝侯爵でもある可能性が仄めかされ、ジン・ジャンの死亡日が明確でなく確認できないこと、また、安永透は天人 の死を意味する〈天人五衰 〉となっていくため、本物の可能性もあると佐藤秀明は解説している[ 3] 。
作中では、安永透は贋者だと久松慶子(本多の友人)が断定しているが、村松剛 によると、作者の三島は、透が贋者か本物かは分かりにくく不明にしているとテレビで述べていたという[ 72] [ 25] 。また村松剛は、透が作中(第13章と第5章)で〈光明があり、閃光が走つた〉記憶(『奔馬』で勲の瞼の裏に昇った〈日輪〉)と、自分がそこから来たと確信する〈薔薇いろに花ひらいた幻の国土〉(『暁の寺』のタイ)という2度の過去世を見ていることと、第24章の透の手記で、ある雪の日に窓から外を眺めている中で、老人が落した鴉 の屍骸が〈女の鬘 のやうにも思はれ出した〉と書いてある描写に触れ、この光景は『春の雪』で剃られた、聡子の髪の幻(前世 の記憶)を見たということだと解読している[ 72] [ 25] 。鴉の屍骸のようなものを落すこの老人は、話の筋と無関係に唐突に出てくるが、この黒いベレー帽 の老人が、本多が公園で覗き をする箇所でも出てくることが指摘されている[ 73] 。
作中において、この黒いベレー帽の老人が誰で何を意味しているのかは不明であるが、柏倉浩造 は、この人物は未来の三島本人であると憶測し、ヒッチコック のように登場させていると解釈している[ 73] [ 注釈 10] 。また柏倉は、本多の瞼から飛翔した三羽の黒い鳥や、三つの黒いほくろ 、鬘のような黒い鴉の死骸、清顕や勲が猟銃で鳥を撃つ場面や、今西と椿原夫人が〈黒いレエスのブラジャー 〉を拾って捨てる場面などを関連させて意味を考察している[ 73] 。
三島が取材のために京都 ・奈良 の尼寺 を歴訪し、ある尼寺で高齢の尼 門跡 に会ったときに、『春の雪』がどんな筋かと聞かれて、「宮様 の許婚 になった恋人を犯して妊娠 させ、そのため恋人は剃髪 遁世し、自分は病歿する青年の話」だと答えると、その尼僧が三島をじろじろと疑わしげに見つめて、「どこでそれをおききになりました?」と言い、逆に三島の方がびっくりし、自分の純然たる創作だと尼僧に言ったが信じてもらえなかったという[ 30] 。この寺は、三島の創作ノートなどから林丘寺 ではないかと村松剛は推察している[ 18] 。
単行本の『奔馬』のカバーには、神風連 の副首領加屋霽堅 の墨書を基としたものが使われているが、これは三島が捜して選んだものである[ 74] 。三島は担当編集者の小島千加子 に、『暁の寺』の刊行後、「君は三巻までの装幀のうちでどれが一番好きかい? どれもいいね。……だけど僕は二巻が好きだねえ」と言ったとされ[ 74] 、神風連の志士が数多のこした書のなかから、三島が加屋の遺墨を選んだことに、この書と『奔馬』への愛着がうかがえる[ 74] 。荒木精之 でさえその所在を知らない、その加屋の遺墨「長刀 賦 」を三島がどうやって入手したかは今なお謎だという[ 32] 。
原文は漢詩で、その読み下し文は
力を中原に致し、自ら習労す
此生、何ぞ惜しまん、鴻毛に附するを
雲霧を破除する、豈、日無からんや
磨励、霜は深し、偃月刀
三島の辞世の二首のうちの一首、〈益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜〉は、加屋霽堅のこの漢詩の最終行をふまえていることが見てとれるという[ 32] 。荒木精之は三島から贈られた『奔馬』のカバーを見て「おや」と驚き、売れる、売れない、といったことはどうでもよいという「真剣な態度」がこのカバーから窺われるとし、それだけに三島が神風連 にいかに傾倒しているかが伝わってくるように感じられたと以下のように語っている[ 32] 。
それにしてもこのような現代ばなれの、くすんだような、特殊な史家や漢詩人、骨董屋でもないかぎり何の魅力も関心もありそうにない、このような地味なカバーをえらんだところに三島氏の心がしのばれた。書店の店頭でみたら、これだけで若い人たちに敬遠されるような、そういう感じのこのカバーを用いたところに著者がこの書にうちこむあつい心にふれるような気がした。
— 荒木精之 「初霜の記 三島由紀夫と神風連 」[ 32]
2018 PARCO PRODUCE“三島×MISHIMA”『豊饒の海』第一部「春の雪」第二部「奔馬」第三部「暁の寺」第四部「天人五衰」
『春の雪』東宝 現代劇特別公演
『春の雪』松竹 三島由紀夫作品連続公演 II
『春の雪』松竹 市川海老蔵 酒井和歌子 初顔合せ公演
バウ・ミュージカル『春の雪』
『春の雪〜禁断の恋、聡子〜』
『春の雪』(主婦と生活社 、2006年2月/中公文庫コミック版、2008年3月)
島田雅彦 は、蝶々夫人 の4代100年にわたる末裔たちの非劇的な恋愛物語を描いた小説『無限カノン三部作』(『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』)を、『豊饒の海』を意識して書いたものと述べている[ 79] 。『無限カノン三部作』のエピグラフは、『春の雪』の松枝清顕の断末魔の言葉「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」が使用されている。
晩年の市川雷蔵 は、『春の雪』の舞台主演を強く希望していたが、病状悪化と逝去により実現することは叶わなかった[ 80] 。
『三島由紀夫全集 18巻(小説XVIII)』(新潮社、1973年7月25日)
装幀:杉山寧 。四六判 。背革紙継ぎ装。貼函。
月報:村松剛 「『天人五衰』の主人公は贋物か」。《評伝・三島由紀夫 3》佐伯彰一 「二つの遺作(その2)」。《同時代評から 3》虫明亜呂無 「『豊饒の海』について(その1)」
収録作品:「春の雪」「奔馬」
※ 同一内容で豪華限定版(装幀:杉山寧。総革装。天金。緑革貼函。段ボール夫婦外函。A5変型版。本文2色刷)が1,000部あり。
『三島由紀夫全集 19巻(小説XIX)』(新潮社、1973年8月25日)
装幀:限定版と共に上記と同一
月報:ドナルド・キーン 「下田の一夜」。《評伝・三島由紀夫 4》佐伯彰一「二つの遺作(その3)」。《同時代評から 4》虫明亜呂無「『豊饒の海』について(その2)」
収録作品:「暁の寺」「天人五衰」
『決定版 三島由紀夫全集 13巻 長編13』(新潮社、2001年12月10日)
装幀:新潮社装幀室。装画:柄澤齊 。四六判。貼函。布クロス装。丸背。箔押し2色。
月報:織田紘二 「最後の夏」、天野哲夫 (沼正三 )「三島氏と『家畜人ヤプー 』」。[小説の創り方13]田中美代子 「純潔の闇(「春の雪」「奔馬」)」
収録作品:「春の雪」「奔馬」
『決定版 三島由紀夫全集 14巻 長編14』(新潮社、2002年1月10日)
装幀:上記と同一
月報:出口裕弘 「なかなか終止符の打てない話」、神西敦子(神西清 の娘)「三島夫妻と二つの亀」。[小説の創り方14]田中美代子「知性の反乱(「暁の寺」「天人五衰」)」
収録作品:「暁の寺」「天人五衰」「『豊饒の海』創作ノート」
^ 今日では「豊かの海 」と訳されることが多いが、三島がこの題を付した当時は「豊饒の海」と訳されていた[ 1] 。
^ 『浜松中納言物語 』は、美しい中納言 が許されぬ悲恋に嘆いた末、亡父が唐 の第三王子に生まれ変わっているとの夢を見て船出してゆくという〈夢と転生〉の王朝文学 である[ 10] 。その主題は、〈もし夢が現実に先行するものならば、われわれが現実と呼ぶもののはうが不確定であり、恒久不変の現実といふものが存在しないならば、転生のはうが自然である〉という考えが貫かれている[ 11] 。
^ この最後の〈バルタザールの死〉というのは、正確には「バルダサール」で、プルースト の短編『バルダサール・シルヴァンドの死』の主人公のことである。プルーストは、インド に向かう船を窓越しに眺めながら、村の鐘の音に過去の記憶を思い出し幸福な臨終を迎えるバルダサールを描いている[ 17] 。
^ 手紙の続きは、以下のように綴られている。〈それはさうと、昨今の政治状勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和 の裡に、癌 症状は着々と進行し、失つたら二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人 のやうに思はれてゐました。良人といふ権威 に去られ、よるべなく身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。〉[ 28]
^ 小島千加子 によれば、三島は今西康のことを、「あれは誰が見たって澁澤龍彦 だってことが分っちゃうだろ。だから、わざと背を高く、たかーくしてあるんだよ」と言ったとされる[ 37] 。
^ 三島は、取材や想が熟さないところは後回しにして、書けるところから書く方法を取り、8月24日頃に最終回部分(第26-30章)を概ね書き上げ、原稿のコピーを新潮社の出版部長・新田敞に渡している[ 2] [ 29] 。また8月11日に下田 東急ホテル に滞在中の三島を訪ねてきたドナルド・キーン に終結部の原稿を示したが、キーンは遠慮して読まなかったという[ 38] 。
^ 三島があえて〈十九年前〉と登場人物に言わせ、作品発表から遡った昭和天皇 の人間宣言 の年を暗示させているともとれる箇所がある[ 66] 。
^ 三島は『文化防衛論 』で、「日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬ」と論じている[ 65] 。
^ 三島は『春の雪』執筆中の1966年(昭和41年)10月時点、「僕は人間がどうやって神になるかという小説を書こうと思っています。藤原定家 のことです」と林房雄 との対談で語っているため[ 14] 。
^ 時代設定は1974年(昭和49年)時点であるので、この60代の老人と、生きていればその時点で49歳の三島とは年齢的には符合はしていない。
^ その際、夫人との会話で日本のことが話題となり、日本のエネルギーは西洋のテクノロジーと東洋の伝統とが衝突し合って生れているのではないか、と夫妻で考えた。ヨーロッパはロマンチックの世界で過去の歴史が色濃く残り時代遅れの観があり、一方、アメリカは魂不在で体温の感じられないテクノロジーの国で、インドは優れた精神文化を重んじつつも、飢餓に苦しんでいる、とコッポラは考察し、それらの国々と比して、日本が唯一、「物質文化と精神文化」「陰と陽」「右脳と左脳」「たくましさとしなやかさ(男性度と女性度)」を兼ね備えて共存し合っている国だと語っている[ 75] [ 76] 。そして次回作を日本で撮ることを計画した[ 75] [ 76] 。
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^ a b c 澁澤龍彦「ニヒリズムの凄惨な格闘」(文藝 1971年5月号)。澁澤 1986 , pp. 86–91
^ 奥野健男 「死との凄絶で孤独な闘い」(朝日ジャーナル 1971年5月号)。事典 2000 , pp. 337–339
^ a b 「第十章 虚無の極北の小説」(井上・遺作 2010 , pp. 230–250)
^ a b c 佐伯彰一 「解説」(春の雪 2002 , pp. 468–475)
^ a b c 「第六章 「みやび」としてのテロリズム――二・二六事件 と『春の雪』」(柴田 2012 , pp. 166–199)
^ a b c 「文化防衛論 」(中央公論 1968年7月号)。35巻 2003 , pp. 15–51
^ 「第五章 現実への断念と彼岸への超出――『サド侯爵夫人 』と戦後日本批判」(柴田 2012 , pp. 134–165)
^ 「第七章 世界を存在させる『流れ』とは――『豊饒の海』の転生とアーラヤ識 」(柴田 2012 , pp. 200–231)
^ 「第四章 憂国の黙契」(生涯 1998 , pp. 233–331)
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^ a b 「『天人五衰』の主人公は贋物か」(『三島由紀夫全集第18巻』付録月報 新潮社、1973年7月)。「I 三島由紀夫――その死をめぐって 『天人五衰』の主人公は贋物か」(村松 1994 , pp. 38–44)
^ a b c 「第三章 雪の転生」「第四章 瞼の転生」(柏倉 2000 , pp. 87–130)
^ a b c 「作中人物への傾斜」(ポリタイア 1973年10月号)。小島 1996 , pp. 81–126
^ a b c 「第三部 一九七八年――再生のとき〈六月九日 ナパ〉」(コッポラ 2002 , pp. 370–372)
^ a b c 「第三部 一九七八年 新しい旅立ち〈六月九日 ナパ〉」(コッポラ 1992 , pp. 288–289
^ 「第三部 一九七八年――再生のとき〈十月十九日 ナパ〉〈十月二九日 ナパ〉」(コッポラ 2002 , pp. 381, 387–388)
^ 「第三部 一九七八年 新しい旅立ち〈十月十九日 ナパ〉〈十月二九日 ナパ〉」(コッポラ 1992 , pp. 296, 302–303
^ 島田雅彦 「『みやび』なアナーキスト」(続・中条 2005 , pp. 233–278)
^ 市川雷蔵 『雷蔵、雷蔵を語る』(あとがき:藤井浩明 )(飛鳥新社 、1995年11月。朝日文庫 、2003年9月)
^ a b 「第六章 小説に描かれた三島由紀夫――蠱惑する文学と生涯」(岡山 2016 , pp. 159–192)
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