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貝原 俊民 かいはら としたみ | |
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生年月日 | 1933年8月24日 |
出生地 | 佐賀県武雄市 |
没年月日 | 2014年11月13日(81歳没) |
死没地 | 兵庫県神戸市中央区 |
出身校 | 東京大学 |
前職 |
国家公務員(自治省) 兵庫県副知事 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 旭日大綬章 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1986年11月24日 - 2001年7月31日 |
貝原 俊民(かいはら としたみ、1933年8月24日 - 2014年11月13日)は、日本の自治官僚、政治家(第5代兵庫県知事、在任:1986年11月24日 - 2001年7月31日、4期)。位階は従三位。2007年4月29日、旭日大綬章受章[2]。
佐賀県武雄市に生まれる。佐賀県立武雄高等学校、東京都立北園高等学校を経て、東京大学法学部卒業後に旧自治省へ入省。1970年、兵庫県に総務部地方課長として出向して財政課長、農林部長、総務部長などを歴任、1980年から副知事を務める。1986年には知事となり4期15年を務めたが、任期を1年残した2001年に、辞任した。防災士を育成する特定非営利活動法人日本防災士機構会長を経て同機構顧問に就任。
2014年11月13日14時30分頃、神戸市中央区港島中町1の市道交差点で、乗っていた乗用車の左側面に別の自動車から衝突される。左半身強打による外傷性大動脈損傷で15時50分に死亡[3][4]。相手の運転手は自動車運転過失致死罪現行犯で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた[5]。突然の訃報に接し、親交のあった建築家の安藤忠雄は、「貝原さんの遺志を受け継ぎ、私も兵庫県民も、自分自身で地域や地元に対し何ができるか考えていかなければならない」と語り、貝原知事の任期中に副知事を務めていた兵庫県の井戸敏三知事は、「偉大な恩師が逝ってしまったという思い。厳しい方だったが、常に県民のために尽くすことを基本としてこられた。残された私たちがしっかりしなくてはいけない」と述べた[6]。叙従三位[7]。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では知事として対応を行った。
貝原知事は登庁直後、被害状況の酷さに対し職員の少なさ(職員も被災し、登庁していた者は全庁で40人程であった)、通信手段の少なさ(電話は回線輻輳のため発信はほとんどつながらず、生きていた大代表への着信は混乱を極めていた。災害時優先電話はなぜか使用されていなかった。消防庁との防災無線(中央回線)もつながらず、停電時でも県内の市町及び国へ連絡できる筈だった衛星通信は自家発電設備の故障で役目を果たせなかった)、[要出典]情報の無さ(連絡の取れた各市町の役場、警察、消防からは「被害はあるが規模は不明」としか来ていなかった)といった状態で臨時の特別班編成を行い、情報収集・緊急救援対策に梶田信一郎総務部長を、余震対策に柴田都市住宅部長を、救援物資対策に豊泉進商工部長を、各省庁や他府県との折衝に芦尾副知事を当て、その時点で取り得る最善を尽くすように指示している。この時に野口課長補佐も会議には参加せず、自席で市町や自衛隊との連絡に専念するよう知事に指示されている(それでも次に自衛隊と連絡が取れたのは午前10時となった)。
貝原は、後年、「自衛隊と交信ができなかった。8時の段階で、姫路の連隊からこちらの係員にやっと通じた。『大災害だから、準備を。すぐ要請するから』と言ったところで切れて、それ以降、連絡が取れなかった。いまだから言ってもいいと思うけど、出動要請が遅かったというのは、自衛隊の責任逃れですよ」と述べ、出動要請遅延の責任は自分ではなく自衛隊にあると振り返った[9]。
公職 | ||
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先代 坂井時忠 |
![]() 公選第11-14代:1986年 - 2001年 |
次代 井戸敏三 |