貞顕王后 | |
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朝鮮王妃 | |
在位 |
成化16年11月8日 - 弘治8年12月25日 (1480年12月9日 - 1496年1月10日) |
全名 | 尹昌年 |
別称 | 慈順和恵昭懿欽淑貞顕王后 |
出生 |
天順6年6月25日[1] (1462年7月21日) 忠清道、新昌官衙 |
死去 |
嘉靖9年8月22日 (1530年9月13日) 漢城、景福宮東宮正寝 |
埋葬 | 宣陵 |
配偶者 | 成宗 |
子女 |
中宗 順淑公主 慎淑公主 |
氏族 | 坡平尹氏 |
父親 | 尹壕 |
母親 | 延安府夫人田氏[2][3] |
貞顕王后 尹氏(ていけんおうこう いんし、チョンヒョンワンフ ユンシ、1462年7月21日 – 1530年9月13日)は、李氏朝鮮第9代国王成宗の正室(継室)で第11代国王中宗の実母。鈴原府院君尹壕(いん ごう、ユン・ホ、윤호、1424年 - 1496年[4])と正室延安府夫人田氏の娘。本貫は坡平尹氏。名は昌年[5]。
世祖8年(1462年)に誕生。成宗4年(1473年)に後宮として王宮に入り淑儀に封じられた[6]。成宗10年(1479年)6月2日に王妃尹氏が廃位され庶人に身分を落とされる[7]と、翌成宗11年(1480年)10月に継室に選ばれ[8]、同年11月8日に王妃に封じられた[9]。また実母を廃位および賜死によって失った元子燕山君の嫡母となった。淑儀であった1478年に翁主(後の順淑公主)を出産、王妃となった後に慎淑公主と王子晋城大君(後の中宗)を出産したが成人したのは晋城大君だけであった。
燕山君が即位して国王となった事に伴い大妃となり、燕山君2年(1496年)に慈順の尊号を受けて[10]慈順王大妃[脚注 1]と称されるようになった。燕山君11年(1505年)には尊号に和恵が加えられ称号が慈順和恵王大妃となった[脚注 2]。1506年9月2日に起きた中宗反正の際は事が起こる前に上啓を受けている[12]。
中宗25年(1530年)8月22日に崩御。中宗の2番目の王妃である章敬王后が産褥死した時は一時期元子(後の仁宗)を代わって保護し育てていた[13]。同年9月、諡号が貞顕王后、徽号が昭懿欽淑と定められ、また遺言に従い夫の成宗の墓所である宣陵に埋葬される事となった[14]。
先代 斉献王后 |
朝鮮王妃 在位:1480年 - 1496年 |
次代 廃妃慎氏 |
先代 昭恵王后(追尊) 安順王后 |
朝鮮大妃 在位:1494年 - 1530年 |
次代 文定王后 |