趙 爾巽(ちょう じそん、1844年5月23日〈道光24年4月7日〉 - 1927年〈民国16年〉9月3日)は、清末民初の政治家。字は次珊、号は無補。奉天府鉄嶺県出身の漢軍正藍旗人。清末に地方官を歴任し、特に東三省総督時代は辛亥革命勢力の押さえ込みに成功した。辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担った。
父の趙文穎は進士出身だったが、地方官として赴任していた際に太平天国軍の侵攻を受け殉職している。兄は趙爾震。弟は趙爾豊・趙爾萃。弟の趙爾豊は辛亥革命の際に四川総督として成都に赴任中に革命側に殺害されている。
著作には『刑案新編』・『趙留守攻略』等がある。
盛京将軍に就任した時期は、義和団の乱とそれに引き続くロシアの東三省占領、さらに日露戦争に伴い行政組織や地域そのものが非常に混乱した中にあった。しかし趙は馬賊の帰順を促すなど治安の維持に力を注ぎ、さらに東三省へなだれこんでくる漢族流民への農地を確保し、財政を安定させる(領域内の収支を黒字にもちこんだといわれる)ことに成功した。また、辛亥革命時の動乱期には、帰順した元馬賊の張作霖を活用して革命派を弾圧し、東三省の治安維持に成功するなど実務家としても非常に優秀であった。趙爾巽に抜擢された張作霖は、生涯にわたって趙爾巽を師として敬い、自分の三女の張懐瞳を趙爾巽の子の趙天賜(字は世輝)に嫁がせている。
晩年は『清史稿』編纂に携わるなど学者としての側面も見せるが、動乱の時局が充分な校正時間を許さず、完成した『清史稿』には年号・人名等の誤りが多いと言われている。また、『清史稿』そのものも趙爾巽死後に発生した清史館の内紛によって流転の運命を辿る事になった。