![]() 足利義澄木像(等持院霊光殿安置) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 文明12年12月15日(1481年1月15日) |
死没 | 永正8年8月14日(1511年9月6日) |
改名 | 清晃(法名)→ 義遐(初名)→ 義高[注釈 1]→ 義澄 |
別名 | 阿波御所[2]、近江御所、近江將軍、キヤウケンシ殿 |
戒名 | 法住院殿旭山道晃 |
官位 | 従五位下、正五位下、左馬頭、征夷大将軍、従四位下、参議、左近衛中将、従三位、贈従一位左大臣、贈太政大臣 |
幕府 |
室町幕府第11代征夷大将軍 (在職:1495年 - 1508年) |
氏族 | 足利氏(堀越公方家→足利将軍家) |
父母 |
父:足利政知、母:円満院(武者小路隆光の娘) 養父:足利義政[3]、足利義尚[4] |
兄弟 | 茶々丸、義澄、潤童子、小田政治? |
妻 |
正室:日野阿子 継室:武衛娘(斯波義寛の娘、または六角高頼の娘) |
子 | 義晴、義維、随風 |
足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代征夷大将軍(在職:明応3年12月27日〈1495年1月23日〉 - 永正5年4月16日〈1508年5月15日〉)。父は第8代征夷大将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を
明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された[5]。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。
文明12年(1480年)12月15日、堀越公方・足利政知の次男として生まれる。当時、政知の嫡男で異母兄の茶々丸が堀越公方の後継者とされていたため、文明17年12月(1486年1月)、叔父・足利義政の意向で政知が還俗する前に院主をしていた天龍寺香厳院の後継者に定められ、文明19年(1487年)6月、上洛して香厳院を継承、出家して法名を清晃と名乗る。
長享3年(1489年)3月、従兄の9代将軍・足利義尚が死去して義政が後継者を失い、翌年に義政も死去して室町幕府の将軍の座が空位となると、清晃も後継者候補の1人に挙げられたが、この時は義政の未亡人・日野富子の推挙で叔父・足利義視の子である足利義材(のちの義稙)が10代将軍に迎えられた。富子は清晃には自分が義尚と暮らしていた小川殿を譲ることにする。
延徳2年(1490年)4月27日にこの意向が示されると、義材の父である義視は富子が清晃を次期将軍に立てる準備と疑い、翌月に小川殿を破却してしまった。これをきっかけに義材と富子との関係は悪化していくことになる。なお、この年の8月28日に義材と清晃が対面して和解している(『政覚大僧正記』延徳2年閏8月9日条)が、これは細川政元や彼の意を受けた葦洲等縁の奔走によるものであった[6]。
明応2年(1493年)4月、清晃は明応の政変で義材を追放した管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって擁立され、故義政の猶子とされて11代将軍に就任する[7]。しかし、実権は政元や富子、貞宗に握られていた。
明応3年(1494年)12月27日の卯刻、将軍宣下に先立って元服の儀が行われるが、一連の儀式は足利義政の先例に従って行われた。会場は当時義澄の居住していた細川政元の邸宅、加冠が政元、理髪が尚経、打乱が政賢、泔坏が尚春と、元服の諸役を全て細川氏一門が占めた上に[8]、烏帽子を被せる政元が儀式で(政元本人が)烏帽子を被るのを嫌って当初予定の20日から延期され、列席予定者から政元が非難される[9]など、政元の独擅場であった[10]。また、政所執事の役についても、義政の元服の儀の際に先例とされた足利義満の元服時の先例が持ち出され、伊勢氏ではなく二階堂氏が務めるべきとして、伊勢貞陸は1日限定で二階堂尚行に執事の地位を譲っている[11]。
ところが、富子が死去し、義澄も成長すると自ら政務を行おうとして政元と対立、文亀2年(1502年)2月には政元が管領を辞任する意向を示して丹波国(後に山城槇島城)に下って義澄に慰留され、8月には義澄が岩倉の金龍寺(妙善院)に引き籠ってしまった。復帰を求める政元や伊勢貞宗に対して、義澄は武田元信の相伴衆登用や京都に滞在していた義材の異母弟の実相院義忠の処刑を求め[12]、政元もこれを認めた[注釈 2]。
義忠殺害によって政元は、義澄に代わる将軍候補を失って義澄を廃することが不可能となり、しばらくは義澄と政元は政治的には対立しつつも協力関係を維持し続けた[注釈 3]。また、永正元年(1504年)に細川氏家臣である摂津守護代・薬師寺元一が政元によって守護代を更迭されそうになった時には、義澄が政元に解任の中止を命じている[13]。
永正4年(1507年)に細川政元が暗殺され、細川氏(京兆家)の家督をめぐる内訌が生じ(永正の錯乱)、翌永正5年(1508年)4月、前将軍・義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により[注釈 4]、近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。
その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・長秀父子を京都に侵攻させるなどしたが、そのたびに細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れた。また、義尹の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。
永正7年(1510年)、義尹の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。さらに豊後国の大友親治や播磨国の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。
永正8年(1511年)8月14日、義澄は義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前、水茎岡山城で病死した[15][注釈 5]。享年32(満30歳没)。
義澄の死から9日後の8月23日に船岡山合戦が勃発、細川澄元・三好之長・赤松義村らが敗れて義尹の将軍職が確定した。両陣営はその後和睦、義澄の2人の息子義晴、義維はそれぞれ赤松義村、細川之持(澄元の兄)に引き取られた。
(※年代的に近い人物に畠山高政がいるが、高政は大永7年(1527年)生まれで、本文の通りこの当時義高(義澄)は将軍職を辞しているので偏諱を受けていない人物と分かる。)
(*一部を除き、「澄」の読みは「すみ」。)
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