あだち まさお 足立 正生 | |
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![]() 『映画評論』1967年7月号より。 | |
生誕 |
1939年5月13日(85歳)![]() (現・北九州市八幡東区) |
職業 | 映画監督・脚本家・俳優 |
運動・動向 | 元パレスチナ解放人民戦線メンバー・元日本赤軍メンバー |
刑罰 | ルミエ刑務所で禁錮3年の実刑後、国外追放で日本に強制送還 |
足立 正生(あだち まさお、1939年5月13日[1] - )は、日本の映画監督[2]・脚本家[3]・俳優[4]。パレスチナ解放人民戦線・日本赤軍の元メンバー[5]。
福岡県八幡市(現・北九州市八幡東区)出身[6]。日本大学芸術学部映画学科中退[5]。若松プロダクション参加[5]、若松孝二の盟友とされる[7]。
1939年5月13日[1]、福岡県八幡市(現・北九州市八幡東区)に生まれた[6]。八幡市立中央中学校と福岡県立八幡高等学校を卒業。1959年、日本大学芸術学部映画学科に入学[8]。新映画研究会を立ち上げた[9]。同時期に、VAN映画科学研究所を設立[10]。
1961年の監督映画『椀』が学生映画祭大賞を受賞し[11]、1963年の自主製作映画『鎖陰』でも脚光を浴びた[5]。1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、大林宣彦、高林陽一、金坂健二、佐藤重臣、ドナルド・リチーらと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成。1966年、『堕胎』で商業映画監督デビューを果たした[5][12]。
日本大学中退後は、若松孝二が設立した独立プロである若松プロダクションにて活動[5]。1969年、若松プロダクション製作による『女学生ゲリラ』の監督を務めた[13]。また、若松プロダクションではピンク映画の脚本を数多く手がけている[14][注 1]。
1971年、カンヌ国際映画祭からの帰国途中、若松孝二とともにパレスチナへ渡った[16][17]。パレスチナ解放人民戦線のゲリラ隊に加わり共闘しつつ、ゲリラ隊を題材とする『赤軍ーPFLP 世界戦争宣言』の撮影・監督を務めた[5]。
1974年、重信房子が率いる日本赤軍へ合流し、国際手配された[5][18]。日本赤軍ではスポークスマンの役割を担ったという[18]。1997年、レバノンで逮捕され、ルミエ刑務所にて3年間の禁錮刑を受けた[18]。2000年3月、刑期が満了し日本へ強制送還された[19]。2007年、日本赤軍の岡本公三をモデルとする『幽閉者 テロリスト』(田口トモロヲ主演)を監督した[18][20]。
2011年、フランスのフィリップ・グランドリュー監督が『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう 足立正生』(原題 : 英語: Masao Adachi. Portrait)を製作し、日本では東京都渋谷区のアップリンクにて2012年12月に公開された[21]。同作品の公開を記念し、アップリンクでは足立の脚本・監督4作品を上映する「特集 足立正生」が開催された[18]。
2016年には『断食芸人』を監督し、第45回ロッテルダム国際映画祭のディープフォーカス部門に正式出品されたほか、同映画祭にて足立の特集上映が行われた[5]。
2011年に設置された日本映画大学では非常勤講師を6年間務めた[22]。
2022年9月、同年に発生した安倍晋三銃撃事件の実行犯の半生を描いた映画『REVOLUTION+1』を制作中であると報じられた[23]。自身も“テロリスト”として国際指名手配をうけた経験がある足立は「国家に対するリベンジだ」と語ったという[23]。足立は、銃撃の被害者である安倍晋三に対して、「オレにとって、安倍家三代は不倶戴天の敵」と敵愾心をあらわにし、実行犯である容疑者について「最後まで自分が壊れることなく現実に立ち向かった」「尊敬する」と絶賛した[24]。また、取材に対して「個人的な決起を、いつからテロと呼ぶようになったのか。元テロリストと呼ばれている僕は疑問です」と私見を述べている[25]。安倍晋三の国葬に反対を表明しており「国葬だけは許せない。きょう上映するため、国葬の時にやりたいと思ってつくった国葬反対の映画。」だとした[26]。また、「現在は生活保護を受給して生きている」、(国から保護費を貰っているから)「職業は国家公務員だ」と語っている[27][28]。