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基礎情報 | ||||
四股名 | 輪島 大士 | |||
本名 | 輪島 博 | |||
愛称 |
ワジー 蔵前の星[2] 黄金の左 | |||
生年月日 | 1948年1月11日 | |||
没年月日 | 2018年10月8日(70歳没) | |||
出身 | 石川県七尾市 | |||
身長 | 184cm | |||
体重 | 129kg | |||
BMI | 38.57 | |||
所属部屋 | 花籠部屋 | |||
得意技 |
左四つ 寄り 下手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第54代横綱 | |||
生涯戦歴 | 673勝234敗85休(68場所) | |||
幕内戦歴 | 620勝213敗85休(62場所) | |||
優勝 |
幕内最高優勝14回 十両優勝1回 幕下優勝2回 | |||
賞 |
殊勲賞3回 敢闘賞2回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1970年1月場所(幕下付出)[1] | |||
入幕 | 1971年1月場所[1] | |||
引退 | 1981年3月場所[1] | |||
引退後 | 花籠部屋師匠 | |||
他の活動 |
プロレスラー タレント | |||
備考 | ||||
2018年10月9日現在 |
輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - 2018年(平成30年)10月8日[3])は、石川県七尾市出身で花籠部屋に所属した大相撲力士、第54代横綱、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。
本名は輪島 博(わじま ひろし)。血液型はA型。大相撲時代は身長184cm、体重129kg。ニックネームは蔵前の星、黄金の左[4]、現役引退後はワジー[1]。
金沢高等学校・日本大学の相撲部で活躍。高校2年時には大鵬が二所ノ関部屋へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある[5]。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。東京農業大学出身の長浜(元小結・豊山、後の年寄・湊→立田川)は大学時代からのライバルである。
ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を日大の宿舎で過ごさせ、食事は師匠の自宅に呼んで食べさせるという異例の特別待遇[6][注釈 1]で入門。角界入りに際して高額な契約金が出されたのみならず、引退後の部屋継承も入門時点で決まっていた[7]。幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニングを取り入れたりして物議をかもした[8]。 1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。この取り組みは当時の皇太子一家が観覧していた(皇太子、皇太子妃、徳仁親王の3名)。7月場所が8勝7敗止まりであったことから本人もこの9月場所で昇進を決めることは諦めていたようであり[9]、インタビュー記事での「清國、琴櫻、大麒麟の先輩3大関と比べ、自分はどこが違うか」という質問に対しても「先輩の皆さんは、すぐにも大関だ、大関だと言われながら苦労してなったでしょう。その点自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話していた[10]。大関昇進当初は横綱昇進を掴み取れるかどうかについて「『やっぱりやってみなくちゃ分からない』という答えしか出せない」と話していた[11]が、大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り、場所後の横綱審議委員会ではわずか25分間の討議で満場一致で横綱推薦を決めた[12]。初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱[注釈 2]が誕生した。それまで学生出身力士は大成しないジンクスがあったが、それを破った[13]。さらに戦後生まれでは初めての横綱昇進となる。また輪島以降横綱に昇進した力士は全員が戦後生まれとなる。横綱推薦を伝えられた輪島は「オレ、いい星の下に生れたんだな」[12]と語り、昇進伝達式では使者に対し「謹んでお受けします。今後は一生懸命努力をします」[14]と答えた。
同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった[注釈 3]。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたが、これとは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせただけだった。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。また一時期「貴輪時代」(きりんじだい)を期待されたが、貴ノ花はその後幕内優勝を2回達成したのみで、輪島と共に横綱昇進は果たせず、大関在位50場所(当時歴代1位・現在3位)目の1981年1月場所を最後に現役引退した。
この頃貴ノ花ともう一人、同部屋の魁傑(後の年寄・放駒)の3人で“阿佐ヶ谷トリオ”と呼ばれた。
大相撲の歴史上でも、輪島のみが幕下付出初土俵で横綱に昇進し(現在の番付制度が確立した明治以降、江戸時代を除く)、学生相撲出身唯一の横綱であり、横綱昇進後も本名を四股名にしていた横綱となっている(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった[1]。トレードマークの金色の廻し[8]とかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した[1][注釈 4]。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例であった。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」[注釈 5]と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「稽古」を「練習」[注釈 6]と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。
横綱土俵入りについては、脇が空いて前屈みの姿勢でせり上がるなどの批判もあったが、徐々に落ち着いた土俵入りとなり、テンポの早い北の湖とは好対照であった。後年になって輪島以降、下段の構えで掌が真下を向く傾向が顕著になったとやくみつるが考察している[注釈 7]。
ユルフンの力士として知られており、上手投げを打たれても廻しが伸びて効かなかった[15]。
輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、千代の富士や鷲羽山などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった[注釈 8]。
横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、1974年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、土俵上をバタバタと動き回っては自滅し「勝ち方を忘れた」と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながち誤った見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。当時柏戸が持っていた金星最多供給記録を更新し、「いったいあの黄金の左はどこに行ってしまったのでしょうか?」と問われると自らの左腕を見せて「まだまだここに健在です、昔は下手投げでしたが今は金星を与えるという意味で黄金の左と呼ばれています」と答える始末であった。1975年5月場所直後には場所を途中休場した身にも拘らずカメラマンの前にゴルフウェア姿で出てくるという不謹慎な様子を見せ、翌7月場所を休場するという挙動を見せるなど報道を騒がせる事態も引き起こしていた。
1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる[注釈 9][16]。この年の7月場所14日目の北の湖との対決では、左四つ、輪島は左下手、北の湖は右上手と、ともに十分な廻しを取り合ういつもの体勢になった。輪島は北の湖の右上手投げを残すと、右からおっつけて、左下手で脅かす、両力士の攻防が決定打に欠ける中、北の湖は過去、慌てた攻めで輪島の左下手投げの餌食になった反省を踏まえ、持久戦に持ち込み、水入りとなった。控えに下りた両者だが、北の湖が普段と変わらぬ表情だったのに対し、輪島は肩で息をするなど、明らかに疲労感がにじみ出ていた。再開後は、北の湖が積極的に攻め、右上手から強引に振り回したあと、左下手を取り、がっぷり左四つの体勢から持久力の切れた輪島を寄り切った[16]。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた[注釈 10]。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。1979 - 1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないこと、若乃花や三重ノ海の横綱昇進などでライバルが増えたことなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。
1981年1月29日には当時の後援会長であった安倍晋太郎通商産業大臣・洋子夫妻の媒酌により花籠親方の長女・中島五月と結婚披露宴を行った[17][18]。スポーツ紙などによると、結婚式にかけた費用は1億5000万円、招待客は約3000人と報じられた[17]。
「昭和の大横綱」と言われた北の湖とは通算成績は23勝21敗、優勝は1976年、翌77年の2年間で輪島5回、北の湖5回と「輪湖時代」(りんこじだい)を築く[19]。また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という記録を持つ[注釈 11]。1976年・1977年は12場所のうち、輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))。
1976年から1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は下記の通り。
場所 | 輪島成績 | 北の湖成績 | 優勝力士 | 備考 |
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1976年1月場所 | 12勝3敗 | 13勝2敗 | 北の湖 | 千秋楽2敗同士相星決戦で、北の湖勝利。 |
1976年3月場所 | 13勝2敗 | 10勝5敗 | 輪島 | 千秋楽対戦は、輪島勝利。 |
1976年5月場所 | 13勝2敗 | 13勝2敗 | 北の湖 | 千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦。輪島勝利。優勝決定戦は、北の湖勝利。 |
1976年7月場所 | 14勝1敗 | 12勝3敗 | 輪島 | 千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦。 輪島勝利。 |
1976年9月場所 | 12勝3敗 | 10勝5敗 | 魁傑 | 千秋楽対戦は、輪島勝利。 |
1976年11月場所 | 13勝2敗 | 14勝1敗 | 北の湖 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、北の湖勝利。 |
1977年1月場所 | 13勝2敗 | 12勝3敗 | 輪島 | 千秋楽2敗同士相星決戦で、輪島勝利。 |
1977年3月場所 | 12勝3敗 | 15勝0敗 | 北の湖 | 千秋楽対戦は、北の湖勝利。 |
1977年5月場所 | 11勝4敗 | 12勝3敗 | 若三杉(後の若乃花(2代)) | 千秋楽対戦は、北の湖勝利。 |
1977年7月場所 | 15勝0敗 | 13勝2敗 | 輪島 | 千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗で対戦。輪島勝利。 |
1977年9月場所 | 10勝5敗 | 15勝0敗 | 北の湖 | 千秋楽対戦は、北の湖勝利。 |
1977年11月場所 | 14勝1敗 | 13勝2敗 | 輪島 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、輪島勝利。 |
1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回)
1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)
このように、1976年〜1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち、相星決戦は4度である)。また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現(この時は、輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制し逆転優勝、北の湖は場所後に横綱昇進する)。
このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録する。
1975年9月〜1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である[注釈 12]。
輪湖両雄の対戦は、1972年7月場所〜1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(うち、相星決戦が4回)、水入りの大相撲が3回と、数多くの名勝負が展開された。
千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を表す。
場所 | 対戦日 | 輪島勝敗 (通算成績) |
北の湖勝敗 (通算成績) |
優勝力士 | 備考 |
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1972年7月場所 | 13日目 | ○(1) | ●(0) | 高見山 | 初対戦 |
1972年9月場所 | 12日目 | ○(2) | ●(0) | 北の富士 | |
1972年11月場所 | - | - | - | 琴櫻 | 対戦なし。輪島新大関 |
1973年1月場所 | 初日 | ●(2) | ○(1) | 琴櫻 | |
1973年3月場所 | 10日目 | ○(3) | ●(1) | 北の富士 | |
1973年5月場所 | 4日目 | ○(4) | ●(1) | 輪島(2) | |
1973年7月場所 | 7日目 | ○(5) | ●(1) | 琴櫻 | 輪島新横綱 |
1973年9月場所 | 8日目 | ○(6) | ●(1) | 輪島(3) | |
1973年11月場所 | 5日目 | ○(7) | ●(1) | 輪島(4) | |
1974年1月場所 | 初日 | ●(7) | ○(2) | 北の湖(1) | |
1974年3月場所 | 12日目 | ●(7) | ○(3) | 輪島(5) | 北の湖新大関 |
1974年5月場所 | 千秋楽 | ○(8) | ●(3) | 北の湖(2) | |
1974年7月場所 | 千秋楽 | ○(9) | ●(3) | 輪島(6) | 千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦。輪島勝利。優勝決定戦も輪島が勝利 |
1974年9月場所 | 千秋楽 | ○(10) | ●(3) | 輪島(7) | 北の湖新横綱 |
1974年11月場所 | 千秋楽 | ○(11) | ●(3) | 魁傑 | |
1975年1月場所 | 千秋楽 | ○(12) | ●(3) | 北の湖(3) | |
1975年3月場所 | - | - | - | 貴ノ花 | 輪島休場により対戦なし |
1975年5月場所 | - | - | - | 北の湖(4) | 輪島休場により対戦なし |
1975年7月場所 | - | - | - | 金剛 | 輪島休場により対戦なし |
1975年9月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(4) | 貴ノ花 | |
1975年11月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(5) | 三重ノ海 | |
1976年1月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(6) | 北の湖(5) | 千秋楽2敗同士の相星決戦 |
1976年3月場所 | 千秋楽 | ○(13) | ●(6) | 輪島(8) | |
1976年5月場所 | 千秋楽 | ○(14) | ●(6) | 北の湖(6) | 千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦。優勝決定戦は北の湖勝利 |
1976年7月場所 | 千秋楽 | ○(15) | ●(6) | 輪島(9) | 千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦 |
1976年9月場所 | 千秋楽 | ○(16) | ●(6) | 魁傑 | |
1976年11月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(7) | 北の湖(7) | 千秋楽1敗同士の相星決戦 |
1977年1月場所 | 千秋楽 | ○(17) | ●(7) | 輪島(10) | 千秋楽2敗同士の相星決戦 |
1977年3月場所 | 千秋楽 | ●(17) | ○(8) | 北の湖(8) | 水入りの大相撲で北の湖勝利 |
1977年5月場所 | 千秋楽 | ●(17) | ○(9) | 若三杉(のちの若乃花(2代) | |
1977年7月場所 | 千秋楽 | ○(18) | ●(9) | 輪島(11) | 千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗で対戦 |
1977年9月場所 | 千秋楽 | ●(18) | ○(10) | 北の湖(9) | |
1977年11月場所 | 千秋楽 | ○(19) | ●(10) | 輪島(12) | 千秋楽1敗同士の相星決戦 |
1978年1月場所 | 千秋楽 | ●(19) | ○(11) | 北の湖(10) | |
1978年3月場所 | - | - | - | 北の湖(11) | 輪島休場により対戦なし |
1978年5月場所 | 千秋楽 | ●(19) | ○(12) | 北の湖(12) | |
1978年7月場所 | 14日目 | ●(19) | ○(13) | 北の湖(13) | 13戦全勝同士で対戦。水入りの大相撲で北の湖勝利 |
1978年9月場所 | - | - | - | 北の湖(14) | 輪島休場により対戦なし |
1978年11月場所 | 14日目 | ○(20) | ●(13) | 若乃花(2代) | |
1979年1月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(14) | 北の湖(15) | |
1979年3月場所 | 14日目 | ●(20) | ○(15) | 北の湖(16) | 水入りの大相撲で北の湖勝利 |
1979年5月場所 | 14日目 | ○(21) | ●(15) | 若乃花(2代) | |
1979年7月場所 | 13日目 | ○(22) | ●(15) | 輪島(13) | |
1979年9月場所 | 千秋楽 | ●(22) | ○(16) | 北の湖(17) | |
1979年11月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(17) | 三重ノ海 | |
1980年1月場所 | - | - | - | 三重ノ海 | 輪島休場により対戦なし |
1980年3月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(18) | 北の湖(18) | |
1980年5月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(19) | 北の湖(19) | |
1980年7月場所 | - | - | - | 北の湖(20) | 輪島休場により対戦なし |
1980年9月場所 | 14日目 | ●(22) | ○(20) | 若乃花(2代) | |
1980年11月場所 | 13日目 | ○(23) | ●(20) | 輪島(14) | |
1981年1月場所 | 14日目 | ●(23) | ○(21) | 千代の富士 | 輪湖最後の対戦 |
北の湖横綱昇進以前の対戦成績(1974年7月場所まで)は、輪島の9勝3敗。両者横綱同士の対戦成績(1974年9月場所以降)は、北の湖の18勝14敗。1974年9月場所から1977年11月場所までは、輪島の10勝7敗、優勝回数は、1977年11月場所まで、輪島12回、北の湖9回。1978年1月場所以降は、北の湖の11勝4敗で、優勝回数は、1981年1月場所まで、輪島2回、北の湖11回。
1981年3月場所中に引退し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※平成時代の花籠部屋とは別)を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し、「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)を名乗った(のちに花籠 大嗣〈- ひろし〉と改名)。しかし同年、9月20日にその先代が輪島の引退相撲を目前にして亡くなったため、断髪式では花籠部屋の兄弟子にあたり、二所ノ関(花籠)一門の総帥格であった二子山が止め鋏を入れた[注釈 13]。
報知新聞の評論家として、毎場所15日間のコラムコーナー「花籠診断」を担当した[20]。
1982年4月、妻・五月が自殺未遂(その後離婚)、1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。年寄名跡は他の親方に売れば高値がつくため、担保として認めた債権者がいて、それ以前にも同じことをした親方はいたといわれるが[21]、これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある[6]。
結局これが原因で、同年12月に廃業[22][注釈 14]となった。花籠部屋は部屋の継承者を決めることができず消滅、所属の力士たちは花籠部屋出身の魁傑が開いた放駒部屋へ移籍した[23]。さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。
輪島 大士 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 輪島 大士 |
本名 | 輪島 博 |
ニックネーム | 黄金の左 |
身長 | 185cm |
体重 | 125kg[24] |
誕生日 | 1948年1月11日 |
死亡日 | 2018年10月8日(70歳没) |
出身地 | 石川県七尾市 |
スポーツ歴 | 大相撲 |
トレーナー |
ジャイアント馬場 パット・オコーナー ネルソン・ロイヤル |
デビュー | 1986年8月7日 |
引退 | 1988年12月 |
大相撲を離れた輪島は、1986年4月に全日本プロレスに入門[25]。輪島はそれ以前までは力道山の試合をテレビで見たぐらいで、プロレスについての知識はそれ以上は無かった。だが、輪島の後援者となっていた会社経営者からプロレス入りを勧められ、大相撲からプロレス入りした日大の後輩の石川敬士の存在を思い出して彼に相談したことで入門が決まった。1986年4月7日、ジャイアント馬場と会談した輪島は後援者と相談するために一旦入門の話を保留したが、翌日の日刊スポーツの1面にこの話がすっぱ抜かれて後に引けなくなって入門に至ったという話がある。
多額の借金問題を抱えて廃業した輪島がプロレス界入りに至ったことは恰好のワイドショーネタであり、世間の野次馬的な注目を多く集めたが、相撲の現役を離れて5年、38歳でのプロレス転向は「無謀」という声も多く聞かれた[26]。輪島が入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。これにより、プロレスのビッグマッチには日本武道館が馴染みの舞台となった[26]。
入門後、全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラーであるパット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける[26]。瞬発力や馬力や柔軟性等の身体能力が高く、練習も真面目にやっていたためスタミナもそれなりにあった。但し大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という欠点があり、流れが途切れてしまうことがよくあった。またプロレスにおいて最も重要な受身技術については「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」と述べていたように決してうまいほうではなく、頭を打ってしまうこともあった。38歳と高齢での入門に加え、元横綱という立場で迅速なデビューを前提とされたため、プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がほとんど無かったのも一因だったようである。阿修羅・原のバックドロップを受けた際に、体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷した事もあった。また、プロレスとしての見せ場を作る技術は低かった。
8月に馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行い、相撲タックルで勝利。日本デビュー戦までにアメリカで予行演習的な試合を7戦行った[26]。その後、オリジナル技のゴールデン・アームボンバーをフィニッシュとするようになった。11月には地元七尾市で日本国内でのデビュー戦をタイガー・ジェット・シンとのシングルマッチで行い注目を集め、いきなりの乱闘戦を行い、23.7%もの高視聴率を得る。これは'80年代後半から現在に至るまで、プロレス中継における最高視聴率[26]。なお、アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、後に田上が肘の内側をあてがう代わりに掌を喉に添える喉輪の形にし、さらにそのまま倒すのではなく相手を持ち上げてから落とす形に変えた喉輪落としへと発展させ、これはチョークスラムとも呼ばれ世界的に流行した。他にジャイアント馬場直伝の抱え式バックドロップも得意技としていた。また、相撲タックルや突っ張り攻撃等の相撲殺法の他、ザ・ファンクスの指導により、スピニング・トーホールド等も用いていた。
「お守り」として馬場が付いたタッグでのアメリカデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのように専用バスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし、仲田龍によれば、輪島が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にし、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である渕正信らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っており、練習もきちんと行っていた[注釈 15]とのことであり、「全く仲間がいなかった」、「練習をしなかった」というのは当たらなかった。
輪島のデビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、全日本と業務提携を結んでいたジャパンプロレスの大型新人であった馳浩が「輪島さんと同じリングに上がるんですか」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳により、否定される。ジャパンプロの代表であった長州力は1987年3月に新人の輪島が主役扱いされることに不満を抱き全日本を離脱したが[26]、後に現場監督として新日本プロレスから(問題行動や暴言を繰り返していた)元横綱の北尾光司の専属フリー契約を解除する際に北尾と比較して「輪島さんは一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上では入れ違いに終わったジャパン勢からも輪島の真摯な姿勢は認められていた。
リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された(輪島が初登場した全日本プロレス中継で20%を超える視聴率を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。
レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながり、天龍のシューズの紐の跡が輪島の顔に残るほどの激しさであった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない顔面への蹴りを真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。新日本にUターンしていた前田日明は、この2人の試合を見て「これはヤバイ。あんな事をやられたら(蹴りと関節技を主体に戦う)自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという[26]。
必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年田上明により使われ(田上のものは輪島のように何度か揺らさずに一度の溜めから浴びせていく)、さらに喉輪を取り入れて形を変えた「喉輪落とし」が後に日米で多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身で既にトップレスラーであった天龍と激闘を展開したりと、プロレスでのデビュー時の年齢やキャリアの浅さを考慮すればかなりの活躍を見せていた。
1988年12月27日に引退した[18]。事前の宣伝や引退試合等も一切無く、ひっそりと身を引いた。膝や首の怪我等による体力の限界[26]や、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団が一因だともされている。その後、SWSへと参戦した石川とともにマットに上がることは無かった。プロレス引退後、プロレス界から距離を置いていた一方で、プロレス界のことを悪く言うことは皆無であった[27]。
プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する(登場時には「第54代横綱・輪島こと輪島大士」と紹介された)。
福澤朗(当時・日本テレビアナウンサー)の「好きな食べ物は?」「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「マグロ!」「ブリ!」「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、とんねるずの石橋貴明からワジーと言うあだ名で呼ばれ出し、ワジーと言う愛称が、現役時代を知らない世代にも広く定着する。
また、この番組ではテロップが初めて出たことでも知られ、輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に江戸文字体や相撲字体・歌舞伎文字体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。また、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ「マグロ?」という具合になっていた。
この番組には輪島功一も準レギュラーで出演していたが、石橋貴明は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。本来功一とは又従兄弟であり、これは輪島直幸を含む3人が従兄弟であると横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾するが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである[28]。功一とは従来より友人であったため「コウちゃん」「ヒロシ」と互いに呼びあっている。なお、木梨憲武と輪島の共演はほとんどなかった。後に輪島が回想録等で話したところによると、当初は元横綱のプライドがあり出演を固辞していたが、貴明らが輪島の現役時代のファンであると口説かれ出演を応諾したという。
その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、キューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の水産物販売会社スギヨのCMにもスギヨふるさとの味大使として登場するなどした。また一時期TBS系「サンデーモーニング」等で相撲解説を担当していた。1996年2月に23歳年下の元モデルの一般女性と結婚した[18]。2008年に還暦を迎えたが、還暦土俵入りは行われなかった[注釈 16]。
2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継にデーモン小暮閣下(現・デーモン閣下)と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦することは年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。
2013年秋に下咽頭癌への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた[29]。2014年9月、かつての盟友・貴ノ花の系譜を継ぐ高田川部屋[30]へ、二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れた。この際に高田川部屋の当時幕下の達綾哉が自身の遠縁であると明かされた[31]。その達が関取に昇進し、現在の輝大士という四股名に改めた際には、下の名前の「大士」という字を譲った(読みは「ひろし」ではなく「たいし」)[32][注釈 17]。
大相撲九州場所13日目の2015年11月20日、輪湖時代を築き上げたライバル・北の湖理事長が、直腸癌による多臓器不全により62歳で死去。翌日の11月21日、発声不可能のため、文書でコメントを寄せる。「最近理事長は元気だと聞いたばかりなので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが先に逝かれて寂しい」「昔のライバルが、相撲界で頑張り続けている事が嬉しかった。俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れ様と言いたい」と弔いの言葉を贈っていた[33]。
2018年10月8日、咽頭がん及び肺がんによる衰弱のため、東京都内の自宅で死去。70歳没。関係者の話によると自宅のソファーの上で死亡したとのことである[34][35]。同年10月15日、葬儀・告別式が、東京都・青山葬儀所で執り行われた[36]。この日の喪主挨拶で、夫人が「最後は自宅のソファーでテレビを見ながら、静かに眠るように座ったまま、亡くなっていました。ご迷惑をおかけすることも多かった人生ですが、最後は一人で誰にも迷惑をかけず、静かにとてもいい顔で眠っておりました」とその安らかな様子を語った[37]。
死後の2020年10月24日、ラジオななおで追悼特別番組「黄金の左永遠に」が放映された。相撲甚句歌手でシンガーソングライターの北脇貴士が司会を務め、輪島の幼馴染が幼少期の逸話など紹介した。東京スポーツ新聞社の番記者であった柴田惣一も電話で出演し、輪島がプロレス修業で渡米した際の逸話を語った。輪島が2011年に七尾市内で行われたイベントに出演した際の音源なども披露された[38]。
2022年になり輪島の墓所が七尾市の常福寺に建立されていたことが明らかにされている[39]。
大相撲入り以降は右四つでも左四つでも取れるようになったが、日大時代は右四つの取り手であった。輪島はがっぷり四つにならないので右差しでも左差しでも体の動きの自由度は変わらず、それは輪島の幅広のやや前すぼみの肩という体型に由来しており、体型的に胸を合わせる四つ身の型にはなりにくかった。輪島は左下手一本でも引き付けて肩を密着させてくるので、体を開いて投げを打って対抗することもやりづらかった。怒り肩をしていたため、有効身長は実際の身長と比べて高かった[40]。
輪島の下手投げは投げの打ち返しか動いてくるところを小手投げのようにしたり引きずるようにしたりして投げるものではなく、腰の力を利用して土俵の真ん中からいきなり投げて相手を裏返す凄まじい威力のものであり[41]、輪島は現役時代に「下手投げは上位では効かない。だから悪い手だ」という常識に対して「下手投げでも、根こそぎ投げるから構わない」と言い放ち、その通りにしてきた。左からの投げは下手投げに限らず上手投げも掬い投げも小手投げも強かった[41]。寄り足はお世辞にも速いと言えなかったがすり足が徹底されていたためうっちゃりによる逆転を許さなかった。差せば腕を返し、押せば押し上げ、おっつけも絞り上げるなど、出る時に力を下から上へと加えたため、吊り身でなくても相手を浮かせることができた。逆にうっちゃりがないため、立合いで失敗して一気に土俵に押し込まれた時が最大の弱みになった[40][42]。
立合いを称賛されることは少なかったが、横綱昇進直後の記事では概して「ゆとりある幅の広い立ち合いをしており、立ち合いがずれても抜群の足腰のおかげで甘さにつながらず、相手を見ながら前さばきで押さえ込もうとする」と評され、この立合いに加えて「攻める踏み込みが自在に加われば、これは完璧である」と言われていた。その頃は「双葉山の立合いに最も近付き得るのは輪島」とまで期待された[43]。一方で小兵であったため変化をすることも多かった。ほとんどの場合は左に飛んでいたが、良く見て当たる瞬間に変わるので失敗率が低かった。押し相撲の力士であったが突進型でなかった大受も輪島の変化はよく喰らった。ただ、輪島の変化は決まり手に直結しない場合が多く、逃げただけの印象を与えることがままあった[41]。
輪島の死去の際、その当時現役大関であった豪栄道は「相撲をやっている人間からしたら、あの取り方はまねできない。普通は上手から攻めろと教わるが、輪島さんは平然と下手で攻める。理にかなっていない」と舌を巻いた[44]。
輪島の最多連勝記録は、27連勝である(1973年9月場所初日〜1973年11月場所12日目)。
下記に輪島のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。
回数 | 連勝数 | 期間 | 止めた力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 21 | 1973年3月場所千秋楽〜1973年7月場所5日目 | 三重ノ海 | 1973年5月場所全勝優勝 |
2 | 27 | 1973年9月場所初日〜1973年11月場所12日目 | 北の富士 | 1973年9月場所全勝優勝 |
3 | 20 | 1977年7月場所初日〜1977年9月場所5日目 | 高見山 | 1977年7月場所全勝優勝 |
上記の通り、20連勝以上を3回記録している。
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1970年 (昭和45年) |
幕下付出60枚目 優勝 7–0 |
東幕下8枚目 優勝 7–0 |
東十両8枚目 10–5 |
東十両4枚目 7–8 |
西十両6枚目 優勝 13–2 |
東十両筆頭 9–6 |
1971年 (昭和46年) |
西前頭11枚目 9–6 |
西前頭5枚目 5–10 |
東前頭12枚目 11–4 敢 |
西前頭2枚目 6–9 |
東前頭6枚目 10–5 |
東前頭筆頭 11–4 敢 |
1972年 (昭和47年) |
東小結 10–5 殊 |
西関脇 9–6 |
西関脇 12–3 殊 |
東関脇 8–7 |
東張出関脇 13–2 殊 |
東大関 11–4 |
1973年 (昭和48年) |
西大関 11–4 |
東大関 13–2 |
東大関 15–0 |
東横綱 11–4 |
東張出横綱 15–0 |
東横綱 12–2–1[注釈 20] |
1974年 (昭和49年) |
東横綱 12–3 |
東横綱 12–3 |
東横綱 10–5 |
東横綱 13–2[注釈 21] |
東横綱 14–1 |
東横綱 9–6 |
1975年 (昭和50年) |
西横綱大関 10–5 |
西横綱 0–4–11[注釈 22] |
西横綱 0–3–12[注釈 23] |
西横綱 休場 0–0–15 |
西横綱 10–5 |
西横綱 11–4 |
1976年 (昭和51年) |
西横綱 12–3 |
西横綱 13–2[注釈 24] |
東横綱 13–2[注釈 25] |
東横綱 14–1 |
東横綱 12–3 |
東横綱 13–2 |
1977年 (昭和52年) |
西横綱 13–2 |
東横綱 12–3 |
西横綱 11–4 |
西横綱 15–0 |
東横綱 10–5 |
西横綱 14–1 |
1978年 (昭和53年) |
東横綱 10–5 |
西横綱 1–1–13[注釈 26] |
西横綱 9–6 |
東張出横綱 14–1 |
西横綱 1–3–11[注釈 27] |
東張出横綱 13–2 |
1979年 (昭和54年) |
西横綱 10–5 |
東張出横綱 12–3 |
東張出横綱 12–3 |
東張出横綱 14–1[注釈 28] |
東横綱 10–5 |
西張出横綱 10–5 |
1980年 (昭和55年) |
西張出横綱 0–3–12[注釈 29] |
西張出横綱 11–4 |
東張出横綱 11–4 |
東張出横綱 1–4–10[注釈 30] |
西張出横綱 11–4 |
東張出横綱 14–1 |
1981年 (昭和56年) |
東横綱 10–5 |
西横綱 引退 1–2–0 |
x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
青葉城幸雄 | 10 | 0 | 青葉山弘年 | 9 | 0 | 朝汐太郎 | 6 | 2 |
旭國斗雄 | 30* | 4 | 天ノ山静雄 | 4 | 0 | 大潮憲司 | 5 | 1 |
巨砲丈士 | 6 | 2(1) | 大錦一徹 | 2 | 2 | 魁輝薫秀 | 7 | 1 |
北瀬海弘光 | 7 | 3 | 北の湖敏満 | 23* | 21* | 北の富士勝昭 | 5 | 7 |
清國勝雄 | 10 | 2 | 麒麟児和春 | 15(1) | 8 | 蔵間竜也 | 8 | 1 |
黒瀬川國行 | 2 | 2(1) | 黒姫山秀男 | 24 | 7(1) | 琴風豪規 | 8 | 3 |
琴櫻傑將 | 7(1) | 6 | 金剛正裕 | 19 | 5 | 蔵玉錦敏正 | 4 | 0 |
佐田の海鴻嗣 | 1 | 0 | 白田山秀敏 | 2 | 1 | 錦洋幸治 | 5 | 2 |
大麒麟將能 | 13 | 3 | 大受久晃 | 19 | 2 | 大雄辰實 | 4 | 0 |
隆の里俊英 | 11 | 1 | 貴ノ花利彰 | 31 | 17 | 高見山大五郎 | 24 | 19(1) |
玉輝山正則 | 5 | 0 | 玉の海正洋 | 0 | 1 | 玉ノ富士茂 | 19 | 4(1) |
千代の富士貢 | 6 | 1 | 出羽の花義貴 | 4 | 1(1) | 時葉山敏夫 | 3 | 1 |
栃赤城雅男 | 6 | 2 | 栃東知頼 | 12(1) | 1 | 栃光興福 | 15 | 2 |
羽黒岩智一 | 6 | 2 | 長谷川勝敏 | 18 | 5 | 播竜山孝晴 | 2 | 0 |
福の花孝一 | 6 | 5 | 富士櫻栄守 | 24 | 9(1) | 二子岳武 | 6 | 0 |
双津竜順一 | 4 | 0 | 鳳凰倶往 | 2 | 0 | 前の山太郎 | 8(1) | 2 |
増位山太志郎 | 30 | 8 | 舛田山靖仁 | 3 | 1(1) | 三重ノ海剛司 | 27* | 16 |
陸奥嵐幸雄 | 4 | 1 | 豊山広光 | 13 | 8 | 琉王優貴 | 4 | 2 |
若獅子茂憲 | 8 | 0 | 若浪順 | 2 | 2 | 若乃花幹士 | 19 | 14 |
鷲羽山佳和 | 18 | 0 |