種類 | 株式会社 |
---|---|
市場情報 | 非上場 |
略称 | 近代映協、近代 |
本社所在地 |
日本 〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2丁目36-2 片桐ビル4階 |
設立 | 1950年7月31日[2] |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 7010401007669 |
事業内容 |
劇映画・教育映画の製作配給[2] 俳優・企画の斡旋 |
代表者 | 新藤次郎[1] |
資本金 | 1,600万円[2] |
関係する人物 |
新藤兼人 吉村公三郎 殿山泰司 絲屋寿雄 乙羽信子 劇団民藝 神山征二郎 |
外部リンク |
www |
株式会社近代映画協会(きんだいえいがきょうかい)は、日本の映画会社である。1950年(昭和25年)、新藤兼人、吉村公三郎、殿山泰司らが設立した。
1947年(昭和22年)の『安城家の舞踏会』以降、新藤と吉村は松竹で脚本家・映画監督としてコンビを組んでいた。しかし1949年(昭和24年)に2人の手がけた『森の石松』『真昼の円舞曲』『春雪』が興行的に失敗したため、次回作として用意していた『肉体の盛装』の製作を拒否され、会社からコンビ解消を迫られた[3][4][5]。そのため2人は1950年(昭和25年)3月に松竹を退社。独立の噂を聞きつけた松竹京都撮影所の映画プロデューサーの絲屋寿雄、松竹と契約していた俳優の殿山泰司、そして第一協団の山田典吾も加わり、この5人で同月中に近代映画協会を結成した[6](会社としての設立日は同年7月31日[2])。
設立第1作は、大映との提携作品『戦火の果て』(絲屋がプロデュース、新藤脚本・吉村監督、水戸光子・森雅之主演)で、同年9月16日に劇場公開された。続いて懸案だった『肉体の盛装』をやはり大映との提携で製作し、『偽れる盛装』と改題して完成させた。以降、大映と契約し作品製作が続いたが、1952年(昭和27年)、新藤監督の『原爆の子』の企画に大映が難色を示したため、同作を自主製作。これに主演した大映のスター女優乙羽信子も大映を退社し、近代映協の同人となった。同作は、1954年(昭和29年)に第8回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭平和賞、1956年(昭和31年)に第10回英国アカデミー賞国連平和賞をそれぞれ受賞している。これ以降は、大映や日活といった大手映画会社との契約で作品製作を続ける一方で、自主製作作品を新東宝や北星映画(のちの独立映画)などで配給するようになるが、資金面での苦闘が続いた。1954年(昭和29年)には松竹を退社した脚本家の長瀬喜伴も近代映協の同人となった[7]。
1960年(昭和35年)、新藤が監督した『裸の島』は、資金難による同社の解散記念作品として企画・製作された作品であった。翌1961年(昭和36年)の第2回モスクワ国際映画祭で発表されるや、グランプリ獲得の前から各国の映画バイヤーの申し入れが相次ぎ、同作の上映権売却益によって会社設立以来の累積赤字が解消[8]。興行的にも成功を収め、一転して会社の存続が決まった。
現在は、新藤兼人の息子の新藤次郎が社長を引継ぎ、テレビドラマも多数作っている。