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迫水 久常 さこみず ひさつね | |
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![]() 1960年頃に撮影 | |
生年月日 | 1902年8月5日 |
出生地 | 東京府東京市 |
没年月日 | 1977年7月25日(74歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 |
前職 | 内閣書記官長 |
所属政党 |
(自由党→) 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 法学士(東京帝国大学・1925年) |
配偶者 | 迫水万亀 |
親族 |
大久保利敬(高祖父) 岡田啓介(岳父) 末松茂治(伯父) 大久保利隆(叔父) 松尾文夫(甥) |
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内閣 | 第2次池田第1次改造内閣 |
在任期間 | 1961年7月18日 - 1962年7月18日 |
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内閣 |
第1次池田内閣 第2次池田内閣 |
在任期間 | 1960年7月19日 - 1961年7月18日 |
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内閣 | 鈴木貫太郎内閣 |
在任期間 | 1945年4月7日 - 1945年8月17日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1956年7月8日 - 1977年7月25日 |
選挙区 | 旧鹿児島第1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1952年 - 1955年 |
その他の職歴 | |
![]() (1945年8月15日 - 1945年8月29日) |
迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年〈明治35年〉8月5日 - 1977年〈昭和52年〉7月25日)は、日本の大蔵官僚、弁護士[1]、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。終戦詔書(いわゆる玉音放送)を起草した人物の一人として知られる。
大蔵官僚(大蔵省銀行保険局長)を経て内閣書記官長(第51代)、総合計画局長官、貴族院議員、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)、経済企画庁長官(第9・10代)、郵政大臣(第17代)、鹿児島工業短期大学学長(初代)などを歴任した。また、渋谷再開発協会の前身である渋谷再開発促進協議会(理事長は五島昇)の設立時に会長も務めた。
東京府立第一中学校、第一高等学校、東京帝国大学法学部を経て大蔵省入省[2][3]。「知性の迫水」とも云われ当時を代表する高級官僚であった。また、企画院への出向を通して統制経済への策定にも関わった、当時の革新官僚を代表する人物である。企画院時代には、毛里英於菟、美濃部洋次と共に「企画院三羽烏」と呼ばれた[4]。
1933年、青木一男国庫課長の下、甲府税務署長から引き抜かれ外国為替管理法案策定に携わり、同法は1933年5月1日に施行された[注釈 2]。
1936年、岳父である岡田内閣内閣総理大臣秘書官在任中に二・二六事件に遭遇し、義弟松尾伝蔵の身代わりで難を逃れ首相官邸の女中部屋に隠れていた岡田首相の救出に同じく秘書官だった福田耕や憲兵の小坂慶助とともに奔走し岡田は無事に救出された。また、終戦時の鈴木貫太郎内閣では早期和平を目指す岡田の強い意向で内閣書記官長に就任し御前会議での聖断に至る事務手続きの責任者などとして終戦工作の一翼を担い、更に終戦詔書の起草にも携わった。
戦後は右翼の三浦義一と共に「日本金銀運営会」の利権を握る。公職追放期間中は実業家や弁護士として生計を立て[1]、その後衆議院議員、参議院議員を務め、郵政大臣、経済企画庁長官、自由民主党参議院幹事長などを歴任。1971年(昭和46年)、鍋島直紹・新谷寅三郎らとともに反重宗雄三グループ「桜会」のメンバーとして、河野謙三参議院議長の実現に動く。また、財団法人日本盲導犬協会の初代理事長を始め多くの団体の会長を務めるなど自民党参議院議員の大物として長く活動した。
終戦当時の回想は、二・二六事件当時の話と合わせて1964年に著書『機関銃下の首相官邸』に発表したほか、内外のドキュメンタリー番組や、公開講演でたびたびおこなった。国立国会図書館東京本館に二・二六事件、終戦当時を証言した迫水のインタビューの録音テープが保存・公開されている(インタビュー当時は、二・二六事件や宮城事件の関係者が存命していたので、関係者の迷惑にならないように、30年後に公開することを条件にインタビューと、その録音に応じた)。二・二六事件の当日の状況、様子を鮮明に伝えた貴重な資料となっている。娘によると、迫水は晩年に『機関銃下の首相官邸』を新たな内容を加えて改稿する構想を抱いており、そのために準備も進めて75歳で政界を退く予定でいたが、実現を見ずに74歳で病没した[1]。墓所は多磨霊園(9-1-8)[5]。
戦後に国会議員になった迫水は天皇主催の園遊会で毎年決まった場所から終戦時苦難を共にした昭和天皇を遠く拝していた。迫水が亡くなった翌年の園遊会で昭和天皇は「いつもあそこに迫水がおったね。もう今年はいないんだね」と入江相政侍従長に語ったという。
迫水氏は薩摩藩島津氏の庶家。戦国時代の武将である島津安久の長男が“迫水”と名を改めたことにはじまり[12]、江戸時代は薩摩藩の重職を代々務めた家系である(家格は小番)。
母・迫水歌子の父親は大久保利貞で陸軍中将、霧島神宮宮司を務めた。大久保利貞は維新の三傑の一人大久保利通の従兄弟にあたる。歌子の妹・丹生広子の長男は二・二六事件の決起将校でのちに刑死した丹生誠忠陸軍中尉。ハンガリー公使を務め終戦工作にも関わった外交官の大久保利隆は歌子の弟。
妻の万亀(1910年(明治43年) - 2008年(平成20年)1月5日)は岡田啓介元首相の次女。岡田の先妻で万亀の母・岡田英(旧姓:川住)は夏目漱石の妻・夏目鏡子の従姉妹[13]。
父親の迫水久成陸軍大尉の妹・迫水郁は岡田啓介の後妻なので、岡田とは義理の叔父の関係でもある。さらに岡田の三女・喜美子は鈴木孝雄陸軍大将の次男鈴木英海軍大佐に嫁いでいるので孝雄の兄である鈴木貫太郎とも姻戚関係にある。久成の姉の配偶者には末松茂治陸軍中将、古川弘海軍少将、田所廣海海軍中将。田所中将の長男で思想運動家の田所廣泰は従弟。
長男の迫水久正は父親と同じく大蔵官僚(南九州財務局長、鹿児島新報会長、1932年-2004年10月10日)。
共同通信社元常務でジャーナリストの松尾文夫と弟の東京大学名誉教授で東洋大学元学長の松尾友矩(工学博士)は甥。伊藤忠商事元会長の瀬島龍三(元陸軍中佐・参謀)も縁戚関係にある(妻同士が従姉妹)[14]。
終戦をテーマにした映画・歴史ドラマでは、敗戦に揺れる日本人としての涙を抑えながら実務家として詔勅草案に筆を走らす場面が見せ場のひとつとなっている。
公職 | ||
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先代 小金義照 |
![]() 第17代:1961年 - 1962年 |
次代 手島栄 |
先代 菅野和太郎 |
![]() 第9・10代:1960年 - 1961年 |
次代 藤山愛一郎 |
先代 石渡荘太郎 |
![]() 第51代:1945年 |
次代 緒方竹虎 |
学職 | ||
先代 新設 |
鹿児島工業短期大学学長 初代:1966年 - 1973年 |
次代 廃止 |