しんどう えいたろう 進藤 英太郎 | |||||||||
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本名 | 真藤 辰五郎 | ||||||||
生年月日 | 1899年11月10日 | ||||||||
没年月日 | 1977年12月18日(78歳没) | ||||||||
出生地 | 日本・福岡県福岡市大名町(現在の福岡市中央区大名) | ||||||||
死没地 | 日本・東京都大田区 | ||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||||||
活動期間 | 1926年 - 1976年 | ||||||||
主な作品 | |||||||||
映画 『浪華悲歌』 / 『祇園の姉妹』 『西鶴一代女』 / 『山椒大夫』 『近松物語』 / 『赤線地帯』 テレビドラマ 『おやじ太鼓』 / 『あしたからの恋』 『大久保彦左衛門』 / 『フライパンの唄』 | |||||||||
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進藤 英太郎(しんどう えいたろう、1899年11月10日 - 1977年12月18日)は、日本の俳優。本名:真藤 辰五郎。
舞台俳優を経て映画界に入り、幅広い演技で620本にもおよぶ作品に出演した。『山椒大夫』『近松物語』『赤線地帯』など溝口健二監督作品の常連として脇役を好演し、東映時代劇では悪役として活躍した。後年はテレビドラマに活躍の場を移し、『おやじ太鼓』などのホームドラマに出演して人気を得た。
1899年(明治32年)11月10日、福岡県福岡市大名町(現在の福岡市中央区大名)に生まれる。生家はカムチャツカ漁業を経営しており[1]、進藤の叔父は北洋漁業の開発者でカムチャッカ漁業の権威である眞藤愼太郎である[2]。
幼い頃から夏祭りの子ども仁輪加に座頭格で出るほど芝居好きだったが、1912年(明治45年)に大名尋常小学校から福岡市立商業高校(現在の福岡市立福翔高等学校)に進学してからは柔道に励む[1]。1917年(大正6年)、卒業を間近に中退し、生家のカムチャッカ漁業に従事する。1918年(大正7年)、折からの労働争議に触発されて家出、一時は大戦景気に乗って株屋で大儲けするが、1920年(大正9年)の戦後恐慌で窮地に立ち、軍御用達の雑貨商に転じて樺太、シベリアを回り、同年12月に帰国する[1]。その後は北海道小樽市で海産物商を営んで成功、上京して芝琴平町(現在の港区虎ノ門1丁目)に北海道の海産物を取り扱う松前屋を開店して大いに繁昌する[1]。
しかし、生活が安定するに従い芝居に興味を持つようになり、1925年(大正14年)に劇芸術研究会に入って河内繁俊に発声法を教わる[1]。1926年(大正15年)、劇団同志座に入り進藤英太郎の芸名で初舞台を踏む。この頃東亜キネマの映画数本にも端役で出演する[1]。同年末、松竹大阪の専属俳優となり、以後、松本泰輔の新人座、山口俊雄らの新潮座、小織桂一郎一座、新興成美団、関西新派と劇団の移籍を繰り返す[1]。豪快にして堅実な演技を見せ、ことに敵役で定評を受けた[1]。1930年(昭和5年)には京都・南座での公演に林長二郎(後の長谷川一夫)と共演する。
1936年(昭和11年)、関西新派を離れて映画俳優に転じ、第一映画社で溝口健二監督の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』に出演する。前者では山田五十鈴演じる主人公に脅迫されるが逆に美人局で警察に訴える株屋、後者では山田演じる芸者に籠絡される呉服屋の主人を演じ、ともに生活歴のあるリアルで柔軟な演技でバイプレーヤーとしての成果を決定づける[1]。第一映画社が解散すると、太秦発声映画を経て翌1937年(昭和12年)にJ.O.スタヂオに入り、ついで東宝映画の専属となる[1]。時代劇映画に連続出演する一方、渡辺邦男監督の『熱砂の誓ひ』、島津保次郎監督の『緑の大地』、さらに『ハワイ・マレー沖海戦』『阿片戦争』などの戦争映画にも出演する。
戦後も東宝の作品に出演するが、1949年(昭和24年)にフリーとなり、1951年(昭和26年)公開の『お遊さま』以降は溝口健二監督作品の常連として、『武蔵野夫人』『西鶴一代女』『祇園囃子』『山椒大夫』『噂の女』『近松物語』『楊貴妃』『新・平家物語』、そして遺作の『赤線地帯』に出演する。
1956年(昭和31年)からは、それまでも数多く出演していた東映の専属となり、『旗本退屈男』『いれずみ判官』『右門捕物帖』『一心太助』などのシリーズや、『鳳城の花嫁』『忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻』『反逆児』など、東映時代劇には欠かせないバイプレイヤーとして活躍し[3]、悪大名や悪家老、悪徳商人などの悪の権化を演じた[3]。岡田茂が『ジョーズ』を観て「あの鮫は進藤みたいやな」と評した[3]。1964年(昭和39年)には再びフリーとなり、東宝のクレージー映画にも頻繁に出演してコミカルな演技も見せる。1967年(昭和42年)、『喜劇 競馬必勝法』を最後にテレビに転じ、木下恵介アワーの『おやじ太鼓』では映画の悪役とはうって変わり、頑固者ながら心配性で憎めない父親役をコミカルに演じた。ほか『大久保彦左衛門』『フライパンの唄』などに主演した。
1976年(昭和51年)、NETの『五街道まっしぐら!』に出演中、心臓病のため入院加療していたが、1977年(昭和52年)12月18日に心筋梗塞のため田園調布中央病院で死去[4]。78歳没。