荊冠旗(部落解放同盟の旗) | |
部落解放同盟中央本部 | |
略称 | 解放同盟 |
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前身 | 全国水平社 |
設立 | 1946年(部落解放全国委員会設立) |
設立者 | 松本治一郎 |
種類 | 同和団体 |
目的 | 部落差別撤廃及び被差別部落の解放、人権確立社会の実現[1][2] |
本部 | 日本 東京都中央区入船1-7-1 |
座標 | 北緯35度40分23.6秒 東経139度46分40.4秒 / 北緯35.673222度 東経139.777889度座標: 北緯35度40分23.6秒 東経139度46分40.4秒 / 北緯35.673222度 東経139.777889度 |
中央執行委員長 | 西島藤彦 |
ウェブサイト | 公式サイト |
部落解放同盟(ぶらくかいほうどうめい、英: Buraku Liberation League[注釈 1])は、部落民とすべての人々を部落差別から完全に解放し、もって人権確立社会の実現を目的[2]とする同和団体(「大衆運動団体[2]」を自称する)である。
関係者の間では単に「同盟」と呼ばれることもある。解同の略称は部落解放同盟の大賀正行も第6回部落解放夏期講座で使ったことがあるほか[4]、部落解放同盟福岡県川崎町連絡協議会も『『あいうえお』からの解放運動』p.165やp.256で使っている。また裁判所でも使われており、特に日本共産党はカギカッコつきで「解同」と表記する。
また、裁判所によって部解同と略されたこともあり[5]、朝日新聞が解放同と略したこともある[6]。
規約では「部落民でない者についても、都府県連合会で審査決定し、中央本部の承認により同盟員とすることができる」と定めるが[7]、事実上は「学識経験者以外は役員、たとえば中央執行委員などには(部落民以外を─引用者注)あまり入れない」ことになっており[8]、過去には部落外の協働者から「部落外の人間からの批判の拒否」を指摘されたこともある[9]。
1922年3月、部落解放同盟の前身である全国水平社が京都市の岡崎公会堂で結成された[10][11]。戦前の運動は、1940年の大会で国歌斉唱・宮城遥拝・英霊に対する黙祷で幕を下ろすまで続けられた。
戦後の部落解放運動は、戦前の水平運動、融和運動双方の活動家が大同団結した部落解放全国委員会の結成によって始まった[12]。
部落解放全国委員会は1955年、大衆的運動団体であることを明確にするため部落解放同盟に改称する[13]。1960年5月10日には自民党系の全日本同和会が結成[14]。1970年 共産党系の「部落解放同盟正常化全国連絡会議」(略称:正常化連)が結成される。
狭山事件については、控訴審が始まった翌年の1965年5月29日、東京高裁第2回現場検証に埼玉や東京の部落解放同盟代表が参加[15]。同年10月5日、第20回全国大会で、狭山事件の公正裁判要求の決議が採択される[15]。1968年10月6日に「狭山事件第1回現地調査」を行う[16]。1969年3月3日と3月4日、第24回全国大会で狭山事件支援の特別決議を採択。同年7月10日、中央本部に石川青年救援対策本部を設置し、パンフレット「狭山事件の真相」を発行[15]。1970年3月13日、第25回全国大会で「狭山差別裁判糾弾」の方針を決定[15]。同年5月18日、部落解放国民大行動に取り組み、狭山差別裁判反対を訴えて、6月17日まで日本全国を行進した[15]。しかし、1974年10月31日東京高等裁判所は、弁護団の無罪主張を斥け原判決を破棄して「無期懲役」の判決を下した[17]。1977年には最高裁で無期懲役刑が確定した[18]。現在、第3次再審請求が審理されていて、部落解放同盟は支援を続けている。
1965年8月11日に内閣「同和対策審議会」が佐藤栄作首相に答申[19]してから57年が経過した。当時共産党系の派閥は、「答申」を「毒まんじゅう」であり自民党との妥協の産物であると批判した。一方、社会党系の派閥は「答申」を運動の武器になるとして評価した。佐々木隆爾によると、この部落解放同盟の分裂劇の裏側には、部落解放運動の主流から共産党勢力を排除し、部落解放同盟内の利権派に主導権を握らせ、部落解放運動を体制の中に取り込もうとする旧内務省系の自民党右派議員グループ「素心会」の思惑があったという[20]。以後、1970年代にかけて共産党系の勢力が社会党系の勢力に排除され、今日に至る。このような経緯から、共産党と部落解放同盟は反目を続けている。
部落解放運動の草創期から「言った・言わない」による暴力的な吊し上げが行われていた。その頂点が八鹿高校事件である[21]。1974年兵庫県立八鹿高等学校で共産党系の「部落問題研究会」に対し、部落解放同盟系の生徒が新たに「部落解放研究会」を学校に申請した。これを共産党系の教師が非公認としたことから、部落解放同盟が組織的に解放研の生徒の支援に乗り出し、教師を糾弾するに及んだ。このとき、共産党支持の教員のみならず社会党支持の教員や支持政党のない教員も暴力の被害を受けている[22]。当時は部落解放同盟の不祥事に関する報道がタブー視されていたことから、全国紙はこの事件を積極的に報道しようとしなかった。共産党はこれらの事件を国会で取り上げ、部落解放同盟を非難している。
また、糾弾の対象とした宗教団体・企業・マスコミなどを「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」(同宗連)、「同和問題に取り組む全国企業連絡会」(同企連)、「出版・人権差別問題懇談会」「人権マスコミ懇話会」などの組織に糾合し、参加費を徴収し、部落解放同盟の研究集会や糾弾会に糾弾側として動員している[23]。この間の事情について、部落解放同盟員は「将棋のコマや思ってくださったらええねん。将棋の場合は相手のコマを取ったらそれをまた今度は自分のコマで使うでしょう。そういうことなんですね。だからね、最近は企業の人、行政の人の発言の方が僕なんかよりも解放同盟寄りの発言だったりする。僕があべこべに『あんたはほんまに解放同盟ですか』と言うてやられるんだから(笑)」と説明する[23]。
日本共産党は「部落問題は既に解決している」として全解連を解散し、人権一般を扱う団体「全国地域人権運動総連合」(全国人権連)に衣替えした。部落解放同盟も部落のみならず、障害者解放など社会的少数者全般の権利を擁護するとのスタンスに変わりつつあるが、部落問題を最終的に解決するのは『行政の責任』だとする立場は堅持している。
部落解放同盟は、かねてから社会党・公明党・民社党・社会民主連合との関係を重視してきた。2000年代以降は、民主党・立憲民主党との関係が深い[24]が、小森龍邦・部落解放同盟元書記長は、新社会党委員長を務めていた。ただし本来の部落解放同盟は多種多様なイデオロギーの持ち主が集まった大衆団体であり[25]、「部落解放同盟という看板あげてるけども、外したらやってること言うてること自由同和会とそんなに変わらへん」[26]との声も内部にはある。
公式方針としては、反天皇制をスローガンに掲げており、1974年6月の部落解放同盟の「子ども会」では、
などを「6つの敵」と称し、これらをかたどったロボットをつくり、倒す競争をさせていた[27]。
しかし末端レベルには天皇崇拝者もおり、「家の中行ったら天皇陛下の写真と日の丸があって、それで支部長やってる」場合もあるという[28]。たとえば部落解放同盟鹿児島県連合会初代委員長の村岡仁三次も、自宅に天皇・皇后の写真を飾っていた[29]。なお村岡は大日本翼賛壮年団出身であった[29]。「南九州の被差別部落の解放運動の人にはときどきいるタイプなんです」と、有馬学は述べている[29]。このほか「日本塾」の右翼が、部落解放同盟に入り込んで幹部になった例も指摘されている[30]。
1995年当時、部落解放同盟には、
の3つの流れがあった[31]。
元々は「党員協」が主流で、松本治一郎も上杉佐一郎もこの派閥に属する[31]。しかし1995年までには「日本のこえ」が主流派閥となり、「日本のこえ」の上田卓三が書記長となる[31]。これに伴い、「日本のこえ」と対立関係にある新社会党の小森龍邦は書記長を解任されるに至った[31]。かつての岡山県連合会(「中国研究会」系)のように、同盟中央の方針に対立したために解体された例もあり、中核派系統の支部が同盟中央から機関解体されて部落解放同盟全国連合会(全国連)となった例もあり、部落解放同盟は一枚岩の組織ではない[32]。また、同盟中央から解体されてからも自らの正統性を主張し、行政から補助金を受け続けている組織もある[33]。
1999年4月30日、広島県教育委員会は、君が代の斉唱を推進する立場をとり、教員と対立した県立校長の自殺事件の背景に、解放同盟県連や日教組の「圧力」があったとする調査結果を発表した。
2002年に同和立法が期限切れを迎え、一部地方自治体において同和予算を見直す動きが出る。これに危機感を持った部落解放同盟は同和立法の代替法として人権擁護法案の成立を強く推進。メディアでは関係の深い朝日新聞社に強く働きかけを行っており、2005年の通常国会時は専務取締役の坂東愛彦や社会部の本田雅和などが同調し、紙面の論調に反映された。これに対して、共産党は赤旗などを通じて反対姿勢を鮮明にした。
部落問題研究所は部落解放同盟を憲兵や特高刑事になぞらえている[34]。全解連もまた、
と述べている。戦前の特高が内務省警保護局保安課編『特高月報』を通じて国民の不敬発言とされたものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録していたように、部落解放同盟もまた「部落解放基本法」の永久立法の必要性を世に訴えるために「部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会」名義で小冊子『全国のあいつぐ差別事件』を毎年刊行し、国民の部落差別発言とされるものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録している。
「日本のこえ」派で上田卓三のブレーンであり、部落解放同盟の「影の書記長」「影の委員長」「最大の権力者」ともいわれた[36]大賀正行(部落解放・人権研究所名誉理事、元部落解放同盟中央本部顧問)は、部落解放同盟を「人権同盟」と改称し、部落問題だけではなく人権問題全般を扱うNGOに改組し、行政の補助により運営していく構想を持っている、とも伝えられる[37]。
1988年に、国連NGOの反差別国際運動(IMADR)を設立[38]。
最盛期約18万人が所属していた同盟員は、同和対策関連法の失効(2002年3月31日)を経て、2012年現在、約6万人である[39]。飛鳥会事件やハンナン事件、八尾市入札妨害恐喝事件、大阪府同和建設協会談合事件、芦原病院問題、京都市環境局不祥事、奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件などの相次ぐ不祥事を受けて、部落解放同盟大阪府連飛鳥支部の元幹部は「部落差別はほとんどなくなってるから、解放同盟はもう要らんと思う。別に解放同盟がなくても生活できるやん。結婚差別はまだあるで。でも、それも一部やろ。解放同盟はすでに役割を果たし終えた」と語っている[40]。長年にわたり部落解放同盟と共闘していた灘本昌久もまた「現在、部落解放同盟は野垂れ死に状態になりつつあるが、それは自然となったのではなく、古い運動と理念にしがみついたがための、自業自得の野垂れ死にである」と評している[41]。
2023年5月には、全日本同和会の山口県連と部落開放同盟の山口県連が共催する形で山口県水平社の創立100年を記念する集会を行ったと読売新聞で報じられている。集会では布引敏雄による講演も行われた[42]。
初代委員長の松本治一郎や長らく書記長を務めた田中織之進が社会党の国会議員であり、かつては社会党との友好関係が深く、松本英一や、上田卓三、谷畑孝などの組織内議員を擁していたが、現在では日本共産党を除く多くの政党と何らかの関係を持つに至っている。
55年体制崩壊後の政界再編の中で、軸足を新たに結成された民主党に移し、2004年に部落解放同盟中央書記長であった松岡徹が民主党公認で参院選比例代表区に立候補し、当選。民主党『次の内閣』ネクスト法務副大臣(2007年9月就任)となっており[43]、また部落解放同盟副委員長の松本龍なども民主党に所属していた。他にも、参院の比例区選挙では相原久美子、石井一、神本美恵子、金政玉、今野東、藤谷光信、草川昭三、大島九州男、又市征治、山城博治、江崎孝、那谷屋正義、石橋通宏、難波奨二、森屋隆、吉田忠智、福島瑞穂を支援してきた[44][45][46]。
立憲民主党の主な支持団体の一つであり、同党に組織内候補を輩出しているが、地域によっては自民党[47]・公明党・国民民主党・社民党・新社会党などを支持する場合もあり、関連政治団体のティグレフォーラムには都民ファーストの会[48]や日本維新の会[49]や大阪維新の会の議員[50][51]が所属するなど、幅広い政党[52]と関係を持っている。
全国大会では、立憲民主党の他、自民党、公明党、社民党などの政党からも来賓の出席や祝電の披露がされている。
1997年の解放同盟第54回大会では山崎拓(自民党政調会長=当時)が来賓として出席し、「『部落解放基本法』案の基本的な考え方は、私ども自由民主党といたしましても、全く同意見」と持ち上げた[53]。これ以降、自民党は解放同盟を泳がせる政策から自民党政治の枠組みに抱え込む政策に転じたと、全解連側から指摘されている[54]。
被差別部落から多数のヤクザが誕生してきた歴史的経緯から、同和団体もまた暴力団と深い関係があり、部落解放同盟もその例外ではない[55]。たとえば部落解放同盟大阪府連合会では、荒本支部副支部長が山口組系暴力団組員、飛鳥支部長が山口組系金田組幹部、寝屋川支部長が伊藤組組頭、執行委員が元土井組系津田組組員といった具合である。部落解放同盟傘下の土建会社の団体である同和建設協会(同建協)の加盟業者も暴力団と関係が深く、同建協初代専務理事(部落解放同盟羽曳野支部員)は小三組最高幹部、同建協会長(部落解放同盟浪速支部副支部長)は小三組組長の三男、大新土木建設社長は酒梅組組長、東大阪清水建設社長は山口組系川崎組幹部、南方建設社長は山口組系一(はじめ)会内都会会長代行、麻建設社長は砂子川系麻組組長である[55]。1971年3月には、部落解放同盟員が大阪府八尾市役所でピストルを発射して助役を脅迫した事件もあった[56]。
部落解放同盟の支部役員のポストをめぐる争いに暴力団が介入したこともある[55]。1974年11月から12月にかけて、部落解放同盟大阪府連合会浪速支部で、同支部書記長とその弟の部落解放浪速生協専務理事長らを中心とするH派が、浪速地区の同和地区施設からあがる利権に目をつけ、同和促進協議会(同促協)浪速地区会長Nを病気と偽り、勝手に作った辞任届を大阪市同促協に提出した[55]。これに怒ったN派がH派の私腹を肥やす乱脈ぶりを暴露し、山口組系暴力団白神組を使って実力行使に出た[55]。
この抗争事件は国際的なスキャンダルとなり、『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙(1975年1月20日付)に「日本の部落解放同盟は暴力が利権をもたらすと考えているようだ」という見出しのもと、「浪速区内での2つの建設業者の利権争いから、解放会館が町のギャングに襲撃されるところまで事態はきた。これらの襲撃を防ぐために、部落解放同盟事務所のまわりにたくさんの防衛員を配置している」と報じられた[55]。
1985年5月には、覚醒剤取締法違反、賭博、銃砲等不法所持、火薬類不法所持などの前科を持つ部落解放同盟宮崎県連合会延岡支部長(暴力団石井組系山崎組系岸本組組長)が愛人をピストルで射殺し、殺人と死体遺棄で指名手配を受け、1987年に逮捕される事件も起きている[57]。
部落解放同盟の資金源の一つに、税金の同和減免措置を利用した脱税の請負料がある[58]。
部落解放同盟傘下の企業の組織に「部落解放大阪府企業連合会」(略称は大企連または企業連)というものがある[59]。この大企連に入っている企業は、税務申告の際に大企連を窓口にすれば1,000万円の所得が300万円から400万円に、2,000万円の所得が500万円から600万円に圧縮され、所得の3分の2が「減免」される[59](七項目の確認事項)。このとき、減免された金の一部が「税対策カンパ」という名目で部落解放同盟のものになる仕組みである[58]。
部落解放同盟亀岡市野条支部の1980年度会計決算書によると、収入総額2,405万円のうち、90パーセントにあたる2,165万円が「税対策カンパ」で占められていた[58]。ついで支出の項目を見ると、そのうち62パーセントすなわち1,355万円が「大企連上納金」として部落解放同盟大阪府連合会に納められている[58]。一方、支部員会費収入は67万円で、収入総額の3パーセントにも満たなかった[58]。
1985年3月には、部落解放同盟亀岡市馬路支部長が京都市右京区の主婦に「解放同盟のワシに任せてくれたら税金を安くする方法がある。税務署には話がついている」「700万円の税金が270万円になる」と持ちかけたことがある[58]。不審に思った主婦が右京税務署に確認したところ、総務課長が税金の同和減免措置を背景に「あなたの件は支部長さんから聞いてます」と返答[58]。安心した主婦は支部長に270万円を渡し、その全額が部落解放京都府企業連合会(京企連)のものとなった[58]。
その後、1986年4月、主婦は相続した土地に対する税務署の抵当権の抹消を確認したところ、そのままになっていることを発見[58]。右京税務署に問い合わせると、総務課長は「例の件は無理です」と通告した[58]。主婦が支部長に270万円の返金を求めると、支部長はこれを拒否し、「文句をいえば命がないものと思え」と脅してきた[58]。最終的に主婦は共産党の事務所に相談し、1986年11月、全額を支部長から取り戻した[58]。
なお、部落解放同盟に加盟すると上述の減税・免税措置のような恩恵が受けられる反面、部落解放同盟の支部の規約には「支部を脱退する場合、部落解放運動の中で得た全ての条件はこれを返却するものとする」と定められている[60][61]。具体的には、「部落解放運動の中で得た条件とは、同和住宅入居者は住宅を明け渡さなければならないし、運動の中の資金融資はこれを返さなければならない」ということである[61]。
この他、部落解放同盟京都府連合会は、解放センター建設資金のカンパを、みずから糾弾した企業から徴収して問題となり、部落解放同盟東京都連合会の幹部数人は、「地名総鑑」糾弾闘争を通じて「地名総鑑」購入企業の顧問や相談役に就任し、やはり問題となっている[62][63]。部落解放同盟から糾弾を受けた企業は年間16万円から23万円の会費を徴収されて「同和・人権問題企業連絡会」(同企連)への加入を要求され、部落解放同盟の研究集会や糾弾会(糾弾側)への参加、「人権擁護法」制定運動への協力、部落解放同盟員の講師による有料の「人権啓発講演」の開催、同和研修の教材の購入を求められる[64]。大阪同企連の場合、企業144社から年間2,800万円程度を集めている[64]。高知では、事業の設計単価を部落解放同盟が行政から事前に聞いておき、特定の事業者にその情報を漏らし、その業者が落札すると落札した単価の3パーセントが部落解放同盟に入るという問題が起きていた[65]。
このことから、人権連の側では部落解放同盟そのものを「えせ同和行為の本家」と批判している[66]。徳島県川島町では、町議の日出和男(無所属)が「解同はえせ同和行為」と議会で批判し、一度は差別発言として議会から1998年に除名処分を受けたが、1999年に徳島地裁で除名取り消しの判決を勝ち取ったこともある[67][68][注釈 3]。
東京都など同和地区指定をおこなっていない都県にも解放同盟は存在するが、その理由は同和対策事業を口実にした税の減免であり、「被差別部落ではないところに『部落』の看板を掲げた運動団体支部ができるのである。いかに税金などの行政対策とはいえ、それに抵抗を感じる人もいたであろう」、「部落を名乗ることに施策的メリットがある」、「税務対策のためなら『部落』出身ではない人も支部員になる」と指摘されている[70]。
評論家である呉智英の知り合いの高名な評論家によると、部落解放同盟の幹部であれば人権啓発の講演1回で50~100万円ほどの講演料を得ることができるという[71]。なお、知り合いの高名な評論家の「人権は真理」系の人権啓発の講演料は30万円で、呉智英がアムネスティや水俣病キャンペーン展示会で行った「人権思想は真理にあらず」という講演では講演料は諸経費込みで1万円であった[71]。
八鹿高校事件で被害者側の弁護士をつとめた山内康雄は4つの根拠を挙げて「部落解放同盟こそ『差別性』の塊である」と批判している[72]。
上記の批判とは別に、大阪精神障害者連絡会(大精連)から障害者差別について抗議を受けたことが複数回ある。大精連の主張は以下の通りである。
これらの抗議に対して、2007年、部落解放同盟中央本部は謝罪に追い込まれた[82]。このとき、委員長の組坂繁之は「部落差別の問題に対する敏感さと比して、他の差別問題に対しては同様の敏感さを共有し切れていない」と認めている[82]。
部落解放同盟は、同和行政執行に関わる不法行為に、明らかになった事例だけでも多数関与している。補助金の不正受給などの犯罪行為を行っているとの指摘があったが、2006年あたりから一気にその実態が暴かれるようになっている。同和立法の期限が切れた後、以前より指摘されていた関係者の不祥事が相次いで発覚[85][86]。2006年には奈良市役所および京都市役所での不祥事が発覚し、部落解放同盟が声明を発表するに至った[87]。
部落解放同盟の視点から編纂された部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[解説編]』(部落解放研究所、1995年)では、以下の事件の多くが、国家権力による部落解放同盟への「弾圧」と位置付けられている。