太祖 郭威 | |
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後周 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 後周 |
在位期間 |
広順元年1月5日 - 顕徳元年1月17日 (951年2月13日 - 954年2月22日) |
都城 | 開封 |
姓・諱 | 郭威 |
字 | 文仲 |
諡号 | 聖神恭粛文武孝皇帝 |
廟号 | 太祖 |
生年 |
天祐元年7月28日 (904年9月10日) |
没年 |
顕徳元年1月17日 (954年2月22日) |
父 | 郭簡 |
母 | 王氏(贈皇后) |
后妃 | 柴氏(贈皇后) |
陵墓 | 嵩陵 |
年号 |
広順 : 951年 - 953年 顕徳 : 954年 |
※柴氏は郭威が即位する前に死去し、皇后を追贈された。 |
邢州堯山県(現在の河北省邢台市隆堯県)の出身。郭簡と王氏のあいだの子。父は晋王李克用の時代に刺史に任じられたが、郭威が3歳の頃に戦乱に巻き込まれて戦死したために家門は没落し、養母の韓氏に養育された。
成長した郭威は、一兵卒から立身して、劉知遠にその才能を見出され重臣となった。劉知遠が後漢を建国するに際し大功を挙げ、枢密副使にまで昇進している。
948年、劉知遠が没して劉承祐(隠帝)が即位すると枢密使に昇進する。さらに契丹を撃退するなど多大な軍功があり、人望を集めたという。そのため、その実力を劉承祐に恐れられるようになり、一族を皆殺しにされた上、自身も命を狙われるようになる。このため、軍と共に逆に反乱を起こして劉承祐を殺害し、劉知遠の甥(劉崇の子)の劉贇(順帝湘陰公)を皇帝に立てたが、間もなく殺害して自ら皇帝として即位し、後周を立てた。
即位してからの郭威は、農村復興や節度使の統制、軍事力の強化など、内治に力を注いだという。
家族は皆殺しにされていたため、郭威とともに行動していて難を逃れた義理の甥(妻柴氏の兄柴守礼の子)である柴栄(世宗)が後継者となった。
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