野村謙 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
生年月日 | 1965年5月19日(59歳) |
出身地 | 日本・福岡県福岡市 |
過去参加シリーズ | |
2001-2018 | D1グランプリ |
野村 謙 | |
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YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2020年- |
ジャンル | モータースポーツ |
登録者数 | 3.27万人 |
総再生回数 | 3,079,720回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2023年6月11日時点。 |
野村 謙(のむら けん、1965年5月19日 - )は、福岡県出身の元レーシングドライバー、実業家、ユーチューバー。愛称は「のむけん」。血液型A型。
日本初のワークスドリフトドライバーとして知られる[1]。D1グランプリにはシリーズ設立当初から2018年まで参戦しており、初代D1選手会長を務めた。独特な口調の博多弁の明るいキャラクターに、白煙番長(詳細は後述)と呼ばれる派手な走行スタイルで、D1ドライバーの中でも人気の高い選手であった[2]。
福岡県福岡市出身、九州産業大学付属九州産業高等学校卒業。運転免許を取得後、走り屋として峠を走り込むようになり、ドリフトに熱中する。1992年にスポーツランドやまなしで開催された第13回いかす走り屋チーム天国(以下「いか天」)で優勝し[3]、後に開催された全国大会でも準優勝を果たす[2]。その後は一時期いか天のレポーターとして活動したり、1996年には大野城市でチューニングショップの「URAS」(ユーラス。由来はあだ名の「猿」のローマ字表記を逆さにしたもの)を開業したりするなどしてドリフト走行からは離れるも、全日本プロドリフト選手権(後のD1グランプリ)の第1回大会にビデオオプション(以下「V-OPT」)のスタッフから頼み込まれる形で参加が決まり、ドリフトドライバーとしてのキャリアを歩み始める[2]。
シリーズ名称が「全日本プロドリフト選手権」から「D1グランプリ」となった2001年以降、自動車アフターパーツメーカーのBLITZと共にシリーズへの参戦を続けてきた。車両は当時BLITZ社員でチーフメカニックだった阿部成人のチョイスによりR34スカイラインの4ドア車(ER34型スカイライン)を長らく使用しており、GT-R(BNR34型)やクーペモデルに比べると、4ドアモデルの走行性能面の評価は高くはなかったが、野村のD1グランプリにおける活躍も相まって、中古市場における価格が高騰したとも言われる[4]。エアロパーツは野村が経営するURAS製のものを装着。リアウイングは当初装着していなかったものの、後に高速化への対応のために装着された。
2001年から2003年までは準優勝が何回かあるものの、優勝にはなかなか届かなかった。しかし、2004年第2戦SUGOにて投入された04年仕様車では、主に追走での強さを発揮し、第3戦エビスにて、日比野哲也をサドンデスの末に下して初優勝を果たした。
2006年は、シーケンシャルミッションを投入するなどの効果が表れ、シーズン最多タイの2勝を上げ、熊久保信重や風間靖幸とタイトルを争う。しかし、タイトル争いの最中に行われたビデオオプション(以下、V-OPT)の企画、「自動車サッカー」の収録中に右手首の靱帯を負傷する不運に見舞われる(ちなみに、この自動車サッカーには熊久保と風間も参加し、風間も負傷していた)。それでも最終戦まで熊久保と僅差の争いを繰り広げたが、僅か1ポイント差で破れランキング2位となった。
2008年までに、D1グランプリでは4勝を上げている(2004年第3戦、2006年第2戦・第4戦、2007年第5戦)。これに加え、エキシビジョンで2度優勝経験がある(2004年お台場オールスター、2006年ワールドオールスター)。
2012年のD1グランプリ第4戦より、長年使用していたスカイラインから2JZ-GTEエンジンを換装したトヨタ・86に乗り換えてD1GPに参戦。2014年よりラブライブ!の痛車仕様となり、2015年に再びスカイラインに乗り換えた後も同様の痛車仕様を継続した。ラブライブ!痛車では、フロントガラスを塞ぎ、前を見えなくした状態で実際のD1コースでドリフトする「目隠しドリフト」を披露している。
2017年はガールズ&パンツァーの痛車仕様のスカイラインで参戦した。
2018年は昨年に引き続きスカイラインを使用し、カラーリングはイエローとブラックのダンロップカラーとなった。同年をもってD1グランプリから引退[5]。選手引退後は、息子の野村圭市がD1ライツに参戦する際に監督としてチームを率いている他、審査員やレポーターとしてD1に関わり続けている。
2020年6月20日、YouTubeチャンネル「ユニバー猿スタヂオ博多 byのむけん」を開設、動画投稿を開始した[6]。
2022年のD1グランプリ第6・7戦オートポリスでは、息子の野村圭市と共に親子でデモランを行った[7]。
大量にタイヤスモークを発生させ、ドリフトアングルを大きく傾ける走行で「白煙番長」の異名を持つ。ハンドルを全て回しきる進行方向調整は、非常に高度なテクニックである。ドリフトに対する姿勢は真摯で、自己流のテクニック上達法を雑誌やビデオを通し後世に伝えている。