のま せいじ 野間 清治 | |
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野間 清治 | |
生誕 |
1878年12月17日 群馬県山田郡新宿村 |
死没 |
1938年10月16日(59歳没) 東京市小石川区関口台町(自邸) |
死因 | 急性狭心症 |
墓地 | 護国寺(東京都文京区) |
記念碑 |
野間清治生誕地(桐生市立南小学校) 野間清治顕彰碑(桐生市立図書館) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学文科大学臨時教員養成所 |
職業 | 教員、実業家 |
著名な実績 | 大日本雄辯會及び講談社創業 |
配偶者 | 野間左衛(講談社第3代社長) |
子供 | 野間恒(長男・講談社第2代社長) |
親 | 野間好雄、文 |
野間 清治(のま せいじ、1878年〈明治11年〉12月17日 - 1938年〈昭和13年〉10月16日)は、明治から昭和時代前期の日本の実業家、剣道家。講談社創業者、元報知新聞社社長。「雑誌王」と呼ばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した[1]。
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
父の野間好雄は北辰一刀流の剣豪森要蔵の高弟で、母の文は森要蔵の長女である[2][3]。清治も剣道に励んだが、1912年(明治45年)、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂し、修行を断念。その後は剣道家のパトロンとして活動する。屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二や中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。
息子の野間恒には尋常小学校卒業後は進学させず、帝王学ともいえる独自の教育を施した。恒は1934年(昭和9年)開催の剣道天覧試合で優勝し、「昭和の大剣士」と謳われた。ただし、恒を勝たせるため、東京予選決勝の対戦相手である甥の森寅雄に養育した恩をたてに詰め寄り、わざと負けさせたと当時から噂があった。現在でも、森寅雄の伝記ではそのように描かれている。
ビジネスにおける倫理の大切さを主張。ビジネスに奔走した自らの経験を踏まえ、「成功への近道とは道徳的な道に他ならない」とし、「修養」(精神をみがき人格を高めること)を積むことの大切さを説いた。
没年となった1938年(昭和13年)公表の長者番付では、東京市で一位の納税額となる11万5000円を納めていた[4]。
公共心旺盛で、社会貢献に積極的であった。奉仕的理想を抱くことが大切であるとして数々の社会貢献活動を行った。その遺志は現在の講談社にも受け継がれ、講談社野間記念館では、横山大観や鏑木清方の日本画や過去に講談社の雑誌で用いた漫画の原画などを収蔵している。
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