金剛峯寺 | |
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根本大塔 | |
所在地 | 和歌山県伊都郡高野町高野山132 |
位置 | 北緯34度12分50.7秒 東経135度35分3秒 / 北緯34.214083度 東経135.58417度座標: 北緯34度12分50.7秒 東経135度35分3秒 / 北緯34.214083度 東経135.58417度 |
山号 | 高野山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 薬師如来(阿閦如来とも)[注釈 1] |
創建年 | 弘仁7年(816年) |
開基 | 空海 |
中興年 | 長和5年(1016年) |
中興 | 定誉、木食応其 |
正式名 | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 |
札所等 |
真言宗十八本山18番 西国三十三所特別札所 神仏霊場巡拝の道 第13番(和歌山第13番) |
文化財 |
不動堂、絹本著色仏涅槃図ほか(国宝) 大門、絹本著色大日如来像ほか(重要文化財) 世界遺産 |
公式サイト | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 |
法人番号 | 5170005004842 |
金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院。正式には高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)と号する。
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000メートル級の山々に囲まれた標高約800メートルの盆地状の平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部[1]。
「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。
空海は、最澄(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。空海は宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といった。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡航。長安・青龍寺の恵果に密教の奥義を学び、大同元年(806年)帰国している。
空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を、高い峰々を蓮の花に見立て八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)として、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。
弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海は高野山の地を賜った。若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている。なお、平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇し、壇上伽藍の御社(明神社)において現在でも祀られている。また丹生都比売神社でも、丹生明神と狩場明神が祀られ、金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。
空海が天長9年(835年)奥之院に入定後、86年経った延喜21年(921年)に東寺長者の観賢の上奏により醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った。観賢は、その報告のため高野山へ登り奥之院の廟窟に入ると、入定した空海(即身仏)は、髪を伸ばし、その姿は普段と変わりなく、まるで生きているかのように禅定している空海の姿があったと伝えている。このことから「弘法大師は今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰が生まれた[2][3]。
空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山を中心に東西、南北にそれぞれ七里の結界を張り、俗世と聖地高野山との境界としたことであった。高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所で、それを人々へ承知させ、結界内に不浄なものを入れないために、高野山を囲む山々の峰をつなぐ線として、密法の法により結界を張ったとされている。また高野山全域の結界の中に更に二重の結界が張られ、その二重の結界内部は、のちに信仰の中心となる伽藍を建立する壇上(壇場)とされた[4]。
結界内に開創以来、次の4つの禁が明治まで続いた[5]。
女人禁制により女性が山内に入ることができず、高野参詣道の終着点の高野七口といわれる結界への入り口付近に女性たちの籠もり堂(参籠所)として女人堂ができ[6]、各女人堂をめぐる結界に沿ってできた参詣道が女人道である[7]。1872年(明治5年)明治政府が太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」を発布し[8]、女人禁制が廃止されたが、実質、高野山において公式に女人禁制が解かれたのは高野山開創1100年記念大法会にむけて、高野山の結界残部を残らず解除した1906年(明治39年)である[9]。
遊芸に関わる鳴り物をしない禁を破ったことに関する逸話として、豊臣秀吉が、母大政所の三回忌の際に高野山開創以来の禁令の笛太鼓や鼓などを用いた能狂言を催したところ、当日、雲がなかったが、能が始まると暗雲が広がり、天地が振動し凄まじい雷雨が襲った。大師の怒りと恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたと伝わる[10]。
鶏と猫は禁じているが、犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためである[5]。
平安時代以降、江戸時代まで存在した高野山の僧徒の三派の称で、学侶、行人、聖で構成され、明治になり廃止、統合された[11]。通称「高野十谷」といわれる谷ごとに学侶や行人の坊が造られ、多くの子院・塔頭があった[12]。学侶、行人、聖の順に階級的要素があり、聖が一番下層に見られる傾向があり、度々派閥的争いがあった。
高野山内は、壇上伽藍、奥之院と十谷とよばれる十の地区で構成されている。各谷には学侶や行人の塔頭・子院が立ち並び、各谷ごとに共用の堂宇や湯屋などの施設があり、谷ごとに講などが行われていた。現在においても117か寺が存在する(後述)。この他に、念仏を唱える聖(念仏聖)が集まった十谷から離れた「別所」とよばれる場所もあった[16]。
奈良東大寺の大仏勧進で知られる重言が再興した別所は「真別処」(正式名称:高野山事相講伝所円通律寺)とよばれ、現在でも女人禁制の戒律を守り、年に1度、旧暦の花祭り(釈尊降誕会)のときだけ、一般に開放され女性も参拝できる[17]。
西院谷 | 往生院谷 |
南谷 | 蓮華谷 |
谷上院谷 | 千手院谷 |
谷中院谷 | 五之室谷 |
小田原院谷 | 一心院谷 |
弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海は、翌年から実恵、円明などの東寺にいた弟子達に命じ草堂を建てさせ、819年に空海が高野山に結界を張り伽藍の建立に取りかかったが、国の援助を得ずに人々からの勧進による私寺建立を目指したこと、交通不便な山中であること、また朝廷からの要請による821年の香川県の満濃池の修築や828年の京都の綜芸種智院の開設などにより、空海が多忙であったことで、工事ははかどらなかった[18]。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。承和2年(835年)には定額寺に列し官寺に准ずる寺格を得た(『続日本後紀』承和八年二月七日条)。空海の入定(835年)の後、弟子であり実の甥でもあった真然が887年頃に根本大塔などの伽藍を整備した[19]。
真然が空海が唐で恵果から教わった奥義や経典を書写した「三十帖策子(三十帖冊子)」を東寺から借り出したが、「三十帖策子」を所有することで真言宗の根本寺院を意味したので、その後の東寺からの返却要請に応じず、紛争の原因となった[20]。第2代座主無空は返還を拒否し「三十帖策子」を持って一山の者を連れ下山し、約20年にわたり高野山に人影が無い状態が続き、第一期の荒廃期を迎えた。この紛争を解決したのが東寺長者の観賢であった。「三十帖策子」は東寺に返却され、観賢が高野山座主を兼ねることで、高野山は東寺の配下となり、明治維新まで高野山は東寺の末寺となったが、先述したように、921年この観賢の上奏により空海に「弘法大師」の諡号が贈られ、入定信仰が生まれ次第に高野山の復興に繋がっていった[20]。
正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの伽藍を失い、また朝廷から復興の命を受けた国司による専横もあり、僧は皆、山を下り麓の天野(現、丹生都比売神社)に本拠を移し、第2の荒廃の時期を迎えた[21]。荒廃した高野山は、長和5年(1016年)頃から、奈良・興福寺の勧進聖だった定誉(祈親上人)が再興に着手し、定誉の働きかけで宗派を超えた様々な勧進僧(後の高野聖)が協力した。その中でも仁海が定誉に協力し京都で高野山の霊場信仰を説いたことで、治安3年(1023年)には藤原道長の登拝に結びついた[21]。また平安末期は、末法思想が広がっていた時代で、高野聖による勧進により浄土信仰、弘法大師信仰が、皇族などにも広がり、白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集め、寺領も増加し堂塔の再建や寺院の建立など高野山の復興に弾みがついた。この頃には高野三方とよばれる学侶、行人、聖の三派の原型が成立していたと考えられ、高野聖は各地で勧進活動を行い皇族、貴族、一般庶民への浄土信仰が広まっていった[11]。定誉(祈親上人)が高野山復興を志したのは、奈良県・長谷寺を参詣したおりに、本尊の十一面観音菩薩から高野山に登るようにとのお告げを受けたためという伝承があり、お告げに従い高野山奥の院で灯明を捧げるが、それが現在も奥の院で1000年以上も燃え続ける「持経灯(祈親灯)」である[22]。
時の権力者の藤原道長の参詣を期に多くの権力者からの帰依を得ることができ、高野山の復興は進むが、空海が入定した地として真言宗最高の聖地でありながら東寺の末寺として扱われ、社会的地位は低いままであった。これは仏教の世俗化により勧進僧の聖(高野聖)など志の低い僧が増加していたことも一因であった[23]。高野山中興の祖といわれる興教大師覚鑁は[24]、鳥羽上皇の院宣を得て大伝法院座主に就任し、長承3年1(1134年)には金剛峯寺の座主を兼任し[24]、教学、行法上の改革を志した[14]。しかし保延6年(1140年)には高野山内で勢力を急拡大させた覚鑁は、聖方だったことや、また「密教では大日如来と阿弥陀如来は同体異名で、阿弥陀如来の極楽浄土と大日如来の密厳浄土は、名前は違うが同じ」と説いたことで、保守系の学侶方の多数の僧徒が反発し[14]、覚鑁がいた密厳院を襲うなどして覚鑁一派を高野山から下山させ(錐もみの乱)、覚鑁らはやがて根来寺へ移り新義真言宗を成立させてゆく。
平安時代末期からの源平の騒乱期には、高野山は都から離れた場所にあり、また中立を保っていたことで戦禍に見舞われることが無かったため、現世浄土として様々な僧が集まり、また敗者の平家の納骨も活発に行われた。また源氏方でも恩賞に不服があり出家する武士が目立つようになり、そして高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだり、堂宇を建てることで空海の功徳を得ようとした。彼らも、また高野聖となっていった。そのため平安中期以降の高野山は様々な僧侶や聖が集う「お山」となっていった[25]。武士政権になり皇族や貴族の権威は落ちるが、むしろ堂宇建立が以前より活発に行われた[26][27]。その一例として鳥羽上皇の皇后美福門院が菩提心院、六角経蔵の建立、荘園の寄進があげられる[28]。
高野山表参道の町石道に高野山開創の頃からあった道標で町数をしめす木製卒塔婆は、鎌倉時代には老朽化が激しく、皇族・貴族、僧侶、庶民にいたるあらゆる階層の人々の寄進により建て替えられていくが、その最大の支援を行ったのは鎌倉幕府で、幕府の有力御家人の安達泰盛や他の幕府要人の支援があり、文永2年(1265年)から20年の歳月をかけ、石製卒塔婆に置き換えられ、現在にも残る町石道として整備された[29]。また時の権力者、源頼朝の正室北条政子は、亡夫の源頼朝菩提のため禅定院(金剛三昧院の前身)を建立し、その後金剛三昧院を建立した。政子が鎌倉から離れた高野山へ帰依した理由として、高野山への敬意があったのは勿論のことだが、源頼朝の三男の貞暁の存在が大きい。貞暁は政子の子で無かったため、嫉妬深い政子の迫害から逃れるために承久2年(1220年)高野山に入山する。江戸時代の歴史書「高野春秋」によると、北条政子は実子の3代将軍源実朝を亡くすと、貞暁が4代将軍になる意志があるか確認するために高野山を訪れ、女人禁制があるため高野山山麓の天野社(現・丹生都比売神社)で貞暁と面会した。政子と面会した貞暁はすぐさま短刀を取り出し自身の左目をえぐり出し武士に戻る意思がないことを示した。この潔さに心打たれた政子は貞暁に強く帰依し、高野山へ多くの寄進を行うようになった。一説では、それは高野山への監視の目的もあったとされるが、鎌倉幕府からの強い庇護につながった[30][26]。また政子は、この面会が行われた天野社(丹生都比売神社)の社殿も寄進している[30]。
このように有力者による寺院建立もあり、永承3年(1048年)には僧坊16宇だったが、100年後の久安4年(1148年)には学侶方300人、行人方・聖方2000人を有する規模になったと伝わり、最盛期には2,000もの堂舎が立ち並んだという[31]。またこの頃には諸堂伽藍は主に学侶方が、奥之院は行人方が支配するようになっていた[31]。
鎌倉末期から南北朝が合一に至るまで日本全土に争乱が続く中、大勢力となっていた高野山に南北朝両勢力より協力要請などの働きかけがあったが、高野山は一貫して中立を保っていたため、南朝の後醍醐天皇が1334年に愛染堂を寄進、また南北朝統一後すぐに北朝方の足利尊氏は高野山の段銭や諸役の免除、寺領への守護不入の権利を与え手厚く庇護した[32]。その後、足利尊氏、義満が高野参詣し、室町幕府とも良好な関係が続く。
高野山の教学を二分する学侶方勢力の宝性院院主の宥快は「宝門」、無量寿院院主の長覚は「寿門」という学派を組織し、応永19年(1412年)頃に「応永の大成」とよばれる教学の組織改編を推し進め、その結果、真言密教教学の確立にともなって、高野山の主導権が学侶方にあるべきとの風潮が高まった[32][33]。この学侶の二大勢力は、その後も塔頭寺院筆頭格として江戸時代まで続き、明治時代に両院は合併し、宝寿院となった[34]。しだいに学侶と行人との対立は深まり、寛正5年(1464年)には学侶方と高野山の実務を行ってきた行人方と合戦が行われた[35]。また、この頃の高野聖は密教教学から離れて時宗化し、また禁止されていた鳴り物を使った踊り念仏、鉦叩きを別所(本拠地を離れた所に営まれた聖が集まって修行するための庵や仏堂を設けた場所)で行っていたため、それら行為を学侶方から禁止され、学侶、行人、聖の対立が表面化する[33]。またこの頃の聖の中には、利潤追求のためだけの宿坊経営や高野山を利用した商売を行う者、また諸国を遍歴していた者による他人の妻・娘をかどわかしたりする問題行為も絶えなかったと伝わる[33]。
永正18年(1521年)には大火により大塔、金堂以下伽藍300余宇、僧坊など3900余宇を焼失し、全山が壊滅状態となり高野山は著しく衰退する。高野聖は熱心な諸国遍歴で勧進を続け、弘法大師信仰は急速に庶民の間にも広がっていったが、戦国の世のため、なかなか伽藍復興には結びつかなかった。そこで高野山は有力大名との間で師壇関係や宿坊契約を結ぶことで、高野山への宝物寄進や奥之院への納骨・納髪、石塔建設が盛んとなった[36][35]。この頃は武士の間で高野山信仰が広まり、戦国大名が寄進した子院が数多く作られた。例えば子院で宿坊の高室院は鎌倉時代の創建であるが、小田原北条氏が壇越(スポンサー)となり、北条氏の菩提寺となった。同寺院は北条氏の領国である武蔵・相模・伊豆三国を布教地域としていた[37]。のち北条氏が滅ぶと、当主の北条氏直は高室院に隠棲して生涯を終えている。
戦国時代の高野山は寺領17万石、3万の僧兵を擁す巨大勢力であったため、織田信長の標的の一つであったが[38]、天正8年(1580年)に織田信長に謀反を起こした荒木村重が家臣数人とともに高野山へ逃げ込んだため、信長家臣三十数名が取り調べに高野山へ来たが、行人方山徒が足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたという理由で誅殺してしまう。激怒した信長は畿内を巡遊していた高野聖1383人を捉え惨殺し、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変で倒れたため、高野山は取り敢えずの難を免れた。しかし豊臣秀吉は、根来攻めに引き続き、高野山に使者を派遣し寺領の返還や武装解除を迫るなどの条件をだし降伏を勧めた。当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に武装解除などの服従を誓ったため、石高は減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに秀吉は応其を強く信頼し帰依するようになり、最終的に2万1000石の寺領が安堵され、秀吉は永正18年(1521年)に消失した伽藍の大塔、金堂など25棟の堂宇の再建に協力し、興山寺や母・大政所の菩提のために青巌寺(豊臣秀次が自刃した場所としても知られ、現在の総本山金剛峯寺の前身である)を建て高野山を庇護することとなった[39][40]。応其は、秀吉の高野山攻めを阻止しただけでなく、秀吉の信頼を得、庇護につなげたため、「高野は応其にしてならず」と言わしめたと伝わる[41]。
文禄3年(1594年)徳川家が子院の蓮華院に大徳院という院号を与え、菩提所・宿坊と定めたこともあり、諸大名もこれに見習い、また多くの有力者が高野山の子院と壇縁関係を結び、また奥之院に霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった[42]。その数は多く、徳川家、及び譜代大名は大徳院と師壇関係を、その他300程度の大名が山内の寺院と師壇関係を結んだとされる[43]。徳川幕府も高野山に寺領を2万1000石を安堵したが、その内訳は慶長6年(1601年)に得た朱印状の寺領安堵状によると、学侶方に9500石の寺領、行人方に11500石の寺領が分け与えられた。しかし聖方には寺領は与えられず、家光の時代に聖方の大徳院境内にあった徳川家霊台の祭祀料として支給された200石のみであった[44]。この朱印状により、高野山の寺領管理は、学侶方・行人方に分けて任されることとなった[44]。しかし、学侶方の宝性院、無量寿院の門主には十万石の大名の格式での江戸への参勤交代を義務づけ、高野山が幕藩体制に組み込まれることとなった。この頃、時宗化していた聖(時宗聖)は大徳院の院号の権威で勢いをまし、学侶、行人方と同じ屋形作りで破風に狐格子の院を構えたところ、行人方の反感をかい、慶長11年(1606年)に行人方は大徳院を襲撃し狐格子を壊したが、聖方が家康に訴えたところ、幕府からの裁定が下り、行人は時宗聖方の屋造りに干渉せぬこと、時宗聖方は時宗を改めて真言宗に帰入することが定められた[45]。この後、聖方は大徳院の聖方に留まる者と、行人方に転派するものに分かれ、事実上の高野聖の終焉となった[46]。また幕府により遊芸者や諸国を遍歴する勧進僧は厳しく取り締まられ、今までのような高野聖としての役目を全うすることが難しくなり、全国を遍歴していた聖は、日本全国各地の村落にある小堂・小庵に定着するようになった。そのことで全国各地に大師堂や弘法大使を信仰する寺が造られ、庶民も気軽に先祖供養が行なえるようになったと考えられている[46]。
正保3年(1646年)の「御公儀上一山図」によると山内院家数は最盛期の1600年代中頃で、学侶方210院、行人方1440院、聖方120院、客僧坊42院、その他53院の1865院と記録されている[47]。幕府の力は強大で、元禄高野騒動といわれる学侶方と行人方の権力闘争の結果、元禄5年(1692年)に幕府が裁定を下し、従わなかった行人627人を流刑にし、行人方の坊を280坊にまで減らし、以後増えることは無く、完全に幕藩体制に組み込まれていたことがうかがえる[42][48][47]。元禄年間(1688年 - 1704年)の頃から庶民の参詣が増加したのに伴い、高野山内に僧侶以外の職人や町人が多く常住するようになっていた[49]。
明治の新時代の1868年(慶応4年/明治元年)に神仏判然令(神仏分離令)が発布されたことで、仏教界にとって未曾有の危機的状況となったが、高野山にとっても例外ではなかった。政府より高野山に神仏分離の通達が下り、また政府の命令により学侶、行人、聖の3派が廃止され、1869年(明治2年)に秀吉が建立した青巌寺と興山寺が合併し寺号が金剛峯寺と改められた。このことで、金剛峯寺という寺号は本来高野山全体を指す寺号であったが、この時より「金剛峯寺」は高野山真言宗の管長が住む総本山寺院を意味するようになった[50]。
1871年(明治4年)に版籍奉還によって寺領2万1000石は新政府に返還させられ、また高野山が行っていた自治制を失い、山内に役場の設置、警察の派遣が行われた[51]。1872年(明治5年)明治政府から太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」が発布され[8]、近代化政策を進める新政府によって女人禁制が解かれた。1873年(明治6年)には高野山所有の山林3000ヘクタールも返上し、完全に経済的基盤を失うこととなった[52]。このため還俗し山を去る僧侶も増え廃寺となる寺院が増えていったが、追い打ちをかけるように1879年(明治12年)の火災で70の堂舎が焼失[53]、次いで1884年(明治17年)50ヶ寺焼失、130戸に類焼[54]、さらに1888年(明治21年)3月23日、24日にも大火災があり多くの寺院、町家を焼失することとなった。高野山の危機的状況に1891年(明治24年)高野山の維持と自立存続を図るために一山が協議し、明治初期に680余ヶ寺もあった寺院を、130ヶ寺まで統廃合することを決定し[55]、現在に近い状態へとなった。
明治中期に国内情勢が安定してくると、高野山に残る膨大な宝物の保護活動が始まった。1891年(明治24年)・1893年(明治26年)に宮内省臨時全国宝物取調局より重要宝物の鑑査状が交付された[54]。1894年(明治27年)世間に高野山の宝物の価値を認知してもらうために金剛峯寺で宝物展を開催。1898年(明治31年)帝室博物館による高野山宝物調査と修復が行われた[50]。1906年(明治39年)開創1100年記念大法会に向け、金剛峯寺が高野山全域に残る結界を解除したことで、全ての禁制が解かれ実質的に女人禁制も完全解除され、金剛峯寺が公式に女性の入居住を認めたこととなった[54]。1899年金剛三昧院多宝塔、金剛峯寺不動堂などが、また1908年(明治41年)には66点もの多くの美術工芸品が旧国宝に指定されたことで[54]、宝物館建設の声が高まった[50]。1913年(大正2年)2年後を迎える高野山開創1100年大法会記念事業として宝物館建設を目標とする「高野山興隆会」が発足し、建設費を募る勧進運動が全国展開された[50]。1916年(大正5年)宝物館建設趣旨徹底のための二度目の「宝物展覧会」が金剛峯寺にて開催された[56]。第一次世界大戦が勃発してから日本からの輸出が活発になったことで、物価や人件費が高騰し建設費も高騰したため、当初計画よりも規模を縮小し、1918年(大正7年)高野山初の宝物館「霊宝館」の建設が始まる。1921年(大正10年)霊宝館開館[57]。1918年(大正7年)に公布された大学令に基づいて、1926年(大正15年)高野山大学が開設された。同年12月26日[注釈 2]、金堂が創建当初のものと云わる本尊像などとともに焼失(#壇上伽藍 金堂で後述)。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により倒木多数。御廟所前の灯篭堂は二丈あまりの老木が倒れ掛かり倒壊した[58]。
第二次世界大戦後の混乱期には日本各地の文化財が海外へ流出したことで、高野山でも文化財保護の機運が高まり、1957年(昭和32年)財団法人(現・公益財団法人)高野山文化財保存会が設立され、高野山の文化財を一括管理するようになり、また文化財防災専用水管が山内の1万メートルに張り巡らされた[57]。2004年(平成16年)ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として高野山が登録された。2015年(平成27年)高野山開創1200年記念大法会が執り行なわれた。
平安期、摂関政治が盛んであった頃、「入定信仰」や「高野浄土信仰」が起こり、その信仰が高まりを見せると、上皇・天皇・皇族や貴族による、高野山参詣が相次ぎ、また帰依したことで、高野山の復興・発展することに繋がった。
主な権力者 | 備考 | |
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900年 | 宇多法皇参詣 | 905年に、二度目の参詣 |
1023年 | 藤原道長参詣 | |
1048年 | 藤原頼通参詣 | |
1088年 | 白河上皇参詣 | 他に1091年、1103年、1127年の計4度の参詣 |
1124年 | 鳥羽上皇参詣 | 他に1132年、1127年の計3度の参詣 |
1156年 | 平清盛を奉行として大塔落慶 | |
1169年 | 後白河法皇参詣 | |
1207年 | 後鳥羽上皇参詣 | |
1223年 | 北条政子が金剛三昧院建立 | |
1258年 | 後嵯峨上皇参詣 | |
1313年 | 後宇多法皇参詣 | |
1334年 | 後醍醐天皇御願による愛染堂建立 | |
1338年 | 後醍醐天皇参詣 | 吉野行宮より潜幸 |
1344年 | 足利尊氏参詣 | |
1378年 | 長慶天皇参詣 | |
1389年 | 足利義満参詣 | |
1581年 | 織田信長の高野攻め開始 | 翌年:信長没、後に豊臣秀吉が高野山と和議し、庇護することに繋がる |
1585年 | 豊臣秀吉と和議 | |
1594年 | 豊臣秀吉参詣 | |
1594年 | 徳川家康参詣 | |
1599年 | 石田三成が経蔵建立 | |
1848年 | 紀伊徳川家が御影堂を再建 |
高野山は「一山境内地」といわれ、かつて結界が張られていた内部全域が境内地とされ、境内の中に開かれた宗教都市である。山内を大きく分別すると、壇上伽藍(伽藍地区)、総本山金剛峯寺(本坊)、奥之院(墓域)、高野十谷(子院・塔頭地区(既述))で構成されている。これらの地区全体の西端には高野山の正門にあたる大門(重要文化財)がある。信仰の中心となるのは山内の西寄りに位置し、かつて空海により二重の結界(既述)が張られた壇上伽藍と呼ばれる聖域である。ここには総本山金剛峯寺の総本堂にあたる金堂や真言密教の根本道場となる根本大塔を中心とする主要な堂塔が立ち並び、伽藍地区となっている。その東北方に本坊である主殿が建つ総本山金剛峯寺がある(広義における金剛峯寺は高野山全体と同義だが、狭義における金剛峯寺はこの本坊のある総本山金剛峯寺を指す)。壇上伽藍の周辺地区には高野十谷があり、「子院(塔頭)」と呼ばれる多くの寺院が立ち並び、また高野山大学、霊宝館(各寺院の文化財を収蔵展示する)などもある。地区東端には墓域である奥之院への入口である一の橋があり、ここから2キロほどの墓域が続き、最奥に弘法大師信仰の中心地である奥之院がある。
空海が高野山を開創したさいに、二重の結界を張り密教思想に基づく堂宇の建立をめざした場所である[64]。曼荼羅の道場の意[65] の壇場と、梵語のサンガ・アーラーマの音訳で僧侶が集い修行をする閑静清浄な所の意の伽藍の壇場伽藍であるが、一段高い土地にあるため、今日では「壇上伽藍」と表記されることが多い[注釈 3]。空海が高野山を開創し、真っ先に整備に着手した場所が壇上伽藍で、最初に計画した伽藍配置は、空海独自の密教理論に基づく伽藍配置であり、壇上伽藍の南北の中心線上に南から中門、講堂(現、金堂)、僧房が配置され、また真言密教の根本経典の「大日経」、「金剛頂経」の世界を象徴する塔を、僧房を挟み、東に大塔(胎蔵界)、西に西塔(金剛界)を相対させて建立し、伽藍配置によって密教空間を創り出そうとしたものである[66]。実際に空海が計画した伽藍がすべて完成したのは、経済的、地理的要因などにより空海が入定してから52年後の887年(仁和3年)となった[67]。
壇上伽藍は、高野山内の西寄りに位置し、金堂・根本大塔・西塔・御影堂などの立ち並び、境内地の核にあたる場所で、奥之院(後述)とともに信仰の中心となる高野山の2大聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、現在も真言密教の道場として高野山の中核となっている。なお、壇上伽藍には両壇遶堂次第(りょうだんにょうどうしだい)にのっとり[68]、右遶(うにょう)という正式な参拝方法[注釈 4]があり、それにならって概ね以下の順番で堂宇を紹介する[69]。
以下、高野山真言宗 総本山金剛峯寺が推奨する参拝順に記載する。
八供養菩薩 | 内四供養菩薩 | 金剛嬉菩薩 |
金剛鬘菩薩 | ||
金剛歌菩薩 | ||
金剛舞菩薩 | ||
外四供養菩薩 | 金剛焼香菩薩 | |
金剛華菩薩 | ||
金剛燈菩薩 | ||
金剛塗香菩薩 |
中尊 | 胎蔵界 | 大日如来 | |
中尊を囲む四仏 | 金剛界 | 阿閦如来 | |
宝生如来 | |||
阿弥陀如来 | |||
不空成就如来 | |||
堂内の柱に描かれた菩薩 | 十六大菩薩 | 東方四菩薩 | 金剛薩埵菩薩 |
金剛王菩薩 | |||
金剛愛菩薩 | |||
金剛喜菩薩 | |||
南方四菩薩 | 金剛宝菩薩 | ||
金剛光菩薩 | |||
金剛幢菩薩 | |||
金剛笑菩薩 | |||
西方四菩薩 | 金剛法菩薩 | ||
金剛利菩薩 | |||
金剛因菩薩 | |||
金剛語菩薩 | |||
北方四菩薩 | 金剛業菩薩 | ||
金剛護菩薩 | |||
金剛牙菩薩 | |||
金剛拳菩薩 | |||
壁面に描かれた真言八祖 | 伝持の八祖 | 龍猛 | |
龍智 | |||
金剛智 | |||
不空 | |||
善無畏 | |||
一行 | |||
恵果 | |||
空海 |
壇上伽藍の東北にあり、本坊である主殿が建つ。1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である学侶方の巌寺と興行人方の山寺 (廃寺)を合併し、高野山真言宗総本山金剛峯寺と改称した。寺紋は桐紋と巴紋だが桐は豊臣家の家紋で、巴は地主神として祀られている天野社の紋である[38]。青巌寺は、文禄2年(1593年)秀吉が亡母の菩提のために木食応其に命じて建立し、母の大政所の剃髪を納めたことから当初「剃髪寺」とよばれ、のちに「青巌寺」と改称する[108]。「金剛峯寺」の寺号は空海が経典「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜経」から名付けたもので[109]、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ、高野山開創1200年記念大法会(2015年4月2日 - 5月21日)で16年ぶりに開帳された。境内の広さは48295坪あり、主殿(1863年再建)、主殿から長い渡り廊下を渡ると、奥殿(1934年建立)、別殿(1934年建立)、新別殿(1984年建立)、阿字観道場(1967年建立)、蟠龍庭(石庭)などがある。重要文化財となっているのは、大主殿一棟、奥書院一棟、経蔵一棟、鐘楼一棟、真然堂(廟)一棟、護摩堂一棟、山門一棟、会下門一棟の9棟と、それを取り巻くかご塀である。
表記は「奥の院」「奥院」などとされる場合もある[注釈 10]。寺院群の東端にある奥之院入り口の一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロメートルにわたる参道と墓域が続く。日本には古来から川を、この世とあの世の境とする習わしがあり、橋を渡ることであの世へ渡るとされ、また川を渡る事で穢れを落とすと考えられていた。奥之院では3本の川を渡る三重構成となっており、これら川と橋を渡ることで仏の浄土(聖地)へ至ることができるとされている[121][122]。中世以降、高野聖による勧進や納骨の勧めにより参道沿いには約20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並ぶ[123]。御廟橋を渡ると空海入定の地とされる聖地となる。一番奥に空海が今も瞑想しているとされる御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥之院で生きていると信じられている入定信仰があり「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである。
毎年8月13日に奥之院で萬燈供養会が開催され、一の橋から奥之院までの約2キロメートルの参道を一般参拝者によって約10万本のローソクに灯をともし、先祖や奥之院に眠る御霊を供養する高野山ろうそく祭りが催されている[124]。
奥之院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立した。日本古来の山岳信仰では、山中は「他界」であり、死後の魂の行くところであった。高野山周辺には、人が死ぬと、火葬の場合は「お骨」の一部を、土葬の場合は死者の左右の耳ぎわの「頭髪」の一部を奥之院に納める「骨のぼり」または「骨上せ」(こつのぼせ)という風習がある。高野山への納骨(または納髪)が歴史上の文献での初見は平安時代末期に著された「中右記」で、天任元年(1108年)堀河院が奥之院に法華経とともに納髪したとある[135]。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わり、石塔群が形成されていくことになる。戦国時代になり高野山が所有する全国各地の荘園が略奪などにより消失したことで経済的困窮になり、高野山各寺院は有力な戦国大名に庇護を求め繋がりをもち、そのため奥之院に供養墓を持つものが増えた。また徳川家が高野山の子院を菩提寺に定めたことから、各大名も高野山の子院と関係を持ち奥之院に供養墓石塔群が造られるようになった[136]。全国の大名家の42パーセント以上、110藩の大名家の墓所があり、大名の石墓だけでも約2000基程度作られている[137]。高野山には石塔や石墓となる石がなく下界から運び込まれた。巨石は麓までは船で運ばれたが、動力がない時代に、船の舳先に綱を結び男たちが船を引く情景を描いた絵図が高野山持明院に残っている[138]。また山中は巨石の真ん中に穴を開け大きな丸太を挿し入れ、その丸太に直行するように棒を結びつけ何十人もの男たちが棒を担いでいる模様が、紀伊国名所図会に描かれている[138]。
奥之院は、様々な人々を供養する霊場であり、戦国時代の大名が建立した五輪塔も多くあるが敵・味方関係なく建立され、また宗派も関係なく、法然や親鸞のような墓碑もある。また佐竹義重霊屋、松平秀康および同母霊屋、上杉謙信・景勝霊屋(たまや)の建造物として重要文化財に指定されているものをはじめ、平敦盛、熊谷蓮生房、織田信長、明智光秀、曾我兄弟、赤穂四十七士、初代 市川團十郎などがある。奥之院は江戸時代までは身分のあるものにしか五輪塔の墓碑の建立が許されておらず[139]、庶民は20センチメートル程度の長方形の石を五輪塔の形状に彫った一石五輪塔とよばれる墓石を建てた。明治以降は自由となり、俳優の鶴田浩二など古今の様々な人物の墓碑や、関東大震災・阪神淡路大震災・東日本大震災などの大規模な自然災害の犠牲者、太平洋戦争の戦没者らを慰霊するための慰霊碑・供養碑や、様々な企業による慰霊碑・供養碑もある。また芭蕉や高浜虚子の句碑もある。
五之室谷に所在。徳川家霊台は重要文化財で、徳川家康と秀忠を祀る二棟の廟堂が建つ。寛永20年(1643年)、徳川家光の建立。かつては高野聖方の代表寺院であり徳川家の菩提寺・宿坊でもあった大徳院の境内に建つが[140]、大徳院は明治時代に他寺院と合併し廃寺となったため、現在、金剛峯寺管理となっている。
高野山内の寺院数は総本山金剛峯寺と大本山宝寿院を除いて117か寺とされている。ただし、この中には独立した堂宇としては現存せず、寺名だけが引き継がれているものも含まれる[141]。山内寺院のうち52か寺は「宿坊寺院」となっており、塔頭寺院と参拝者の宿泊施設を兼ねている。これらの寺院はもともとは単なる僧の住居である草庵に過ぎなかったが、宿坊の起源は古くは平安時代にさかのぼり、諸国の大名の帰依、壇縁関係を結ぶことで、経済的な支援も受けた。やがて現在のような一般参詣者も宿泊できる宿坊となり、伝統の精進料理を味わったり、お勤め(朝勤行)、写経、写仏、阿字観(瞑想)などを体験できるようになっている[142]。国宝の多宝塔を有する金剛三昧院も宿坊の一つである。
高野山内の寺院は117か寺とされるが、その中の主なものを下記にあげる。寺院名の後の名は、関わりの深かった権力者・武将の名である。
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1921年(大正10年)に有志者の寄付と金剛峯寺により開設され、公益財団法人・高野山文化財保存会が運営する宝物館で、一般にも開放されていて、宝物を拝観(有料)することができる。今なお117ヶ寺に伝わる寺宝は膨大にあり、こうした高野山内の貴重な文化遺産を保存し展示する施設として運営されている。1961年(昭和36年)に大宝蔵(収蔵庫)が増設され、高野山内の国指定文化財の美術工芸品の大半を所蔵している。その後も指定物件が増え1984年(昭和59年)に新館の増築、2003年(平成15年)に平成大宝蔵(収蔵庫)を増設している[152]。開館当初に建てられた本館は、1998年(平成10年)に現存する日本最古の木造博物館として高野山霊宝館紫雲殿、玄関・北廊・中廊、放光閣、南廊及西廊、宝蔵が登録有形文化財に登録されている[153][154][155][156][157]。
現在では、国宝21件、重要文化財148件、和歌山県指定文化財17件、重要美術品2件(計約2万8000点)を含め、5万点以上を収蔵している[158]。
大講堂は高野山開創1100年記念事業として1925年(大正14年)に建立され、本尊には弘法大師、脇仏に愛染明王と不動明王が祀られている。高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が催され[159]、一般参詣者でも授戒、写経などが体験できる。
真言密教の聖地「高野山」と、外界(俗世)を結ぶ参詣道(古道)である。(詳細は高野参詣道参照)
外界(俗世)から聖地「高野山」へ通じる入り口が7つあり[160]、それら入口に繋がる参詣道は峠を進み、中には険しい道もある。空海が切り開き、かつて最もよく使われた表参詣道とよばれる「町石道」等、参詣者の出発地点に応じた7つの主要な参詣道が、7つの入口へと繋がる。それら入り口と、それに繋がる参詣道は、総称して「高野七口」とよばれる[161][162]。また、主要参詣道の高野七口以外に、高野七口へ繋がる、その他参詣道がある[161]。
「高野七口」の、外界(俗世)から聖地「高野山」への入り口7つと、それに繋がる各参詣道を「入口名 - 参詣道名」として、次にあげる[160]。
現在では、車や電車、バスなどで手軽に参詣できるが、かつて高野参詣道は多くの参詣者で賑わった。
国の史跡に「高野参詣道」として指定されている[163]。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する資産として「高野参詣道」が登録されている[164]。
かつて高野山は、1872年(明治5年)までは女人禁制であったため、女性は高野山内へは入れず、高野七口とよばれる高野山の結界入り口7つそれぞれに、女性のための籠もり堂(参籠所)として女人堂が置かれた[165][7]。女人堂は、宿泊に利用したり、堂内の大日如来に祈願したり[166]、また空海御廟や壇上伽藍を遥拝するために利用された[167]。京大坂道の到着地点の不動坂口に、唯一現存する女人堂(高野参詣道#女人堂)がある。
空海に関連した伝説を中心に、7つの伝説が伝わる[168][139]。
以上のほか、金剛峯寺9棟(御影堂、西塔、山王院拝殿、山王院鐘楼、准胝堂、宝蔵、大会堂、愛染堂、三昧堂)、金剛峯寺金堂及び根本大塔の国の重要文化財への指定が答申されている(官報告示を経て正式指定となる)。
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
(昭和37年出土)
(昭和37年出土)
(昭和37年出土)
(昭和38年出土)
本中院谷
谷上院谷
西院谷
南谷
小田原谷
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往生院谷
蓮華谷
千手院谷
五室院谷(一心院谷)
墓原 |
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
本中院谷
谷上院谷 西院谷
南谷
小田原谷
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往生院谷
千手院谷
五室院谷(一心院谷)
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ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)は以下13件の文化財を含む[205]。