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石井慧と戦う鈴木桂治(右) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラテン文字 | Keiji Suzuki | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
原語表記 | すずき けいじ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出生地 |
茨城県常総市 (旧:結城郡石下町) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1980年6月3日(44歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 184cm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 100kg | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
階級 | 男子100kg超級 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
段位 | 七段 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
引退 | 2012年 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2013年10月10日現在 |
鈴木 桂治(すずき けいじ、1980年6月3日 - )は、茨城県常総市(旧:結城郡石下町)出身の日本の柔道家、体育学者。学位は体育科学修士(国士舘大学大学院・2006年)、スポーツ科学修士(早稲田大学大学院・2018年)。国士舘大学体育学部・教授。
2004年アテネオリンピック柔道男子100kg超級金メダリスト。紫綬褒章受章(2004年)。身長184cm。体重100kg。得意技は足技、内股、大外刈[1]。
国士舘中学校、国士舘高等学校、国士舘大学体育学部体育学科卒業。国士舘大学大学院スポーツ・システム研究科修士課程修了(2006年3月)。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了(2018年3月)。
平成管財柔道部を経て、国士舘大体育学部専任講師 兼 男子柔道部監督に就任。2004年アテネオリンピックでは100kg超級で金メダル、世界柔道選手権大会は100kg級と無差別級で優勝しており、前人未到の3階級制覇となった。全日本柔道選手権大会4回優勝。2006年、モンゴルで「第1回チンギスハン・トロフィー世界スポーツ大賞」を受賞[2]。血液型はAB型。
柔道は3歳の時に兄の影響で始めた[1]。世界選手権で2度3位になった小野卓志とは石下町体育協会柔道部(現常総市体育協会石下柔道部) [3][4]で同期だった[5]。全国少年柔道大会で小野らと準優勝[6]。石下町立岡田小学校(現常総市立岡田小学校) 卒業[7][8][9]。
小学校でなれなかった日本一になりたいと[10]国士舘中学校に進学し親元を離れて寮生活を始める。中学・高校時代は川野一成(現国士舘中学校・高等学校長)が指導した。川野が使っていた剛毅木訥(ごうきぼくとつ)を鈴木の座右の銘にしていて[11]、尊敬する人物を川野としている[12]。
高校時代より国士舘のエースとして頭角を現し、世界ジュニア柔道選手権大会や講道館杯全日本柔道体重別選手権大会の100kg級で優勝した。しかし、当時同階級の絶対的エースとして活躍していた井上康生の陰に隠れる存在であった。2003年の全日本選手権は決勝で井上に豪快な内股で敗れたが、初出場となった世界選手権では無差別級で出場して優勝を果たした。しかし、自身はあくまで100kg級での五輪出場にこだわった。だが、2004年に100kg超級に転向し、全日本選手権では決勝で井上を破り初優勝、棟田康幸との熾烈な代表争いを制して2004年8月のアテネオリンピック100kg超級代表に選出される。アテネオリンピックでは金メダルを獲得。2005年の世界選手権では階級を100kg級に戻して優勝を飾り、前人未到の3階級制覇を成し遂げる。
2008年北京オリンピックでは日本選手団(全スポーツ)の主将を務めた。オリンピック2階級制覇を目指し100kg級に出場したが、初戦でナイダン・ツブシンバヤル( モンゴル)が繰り出した双手刈に1分26秒で一本負け(ナイダンは金メダルを獲得)。敗者復活戦でも初戦でベンヤミン・ベールラ( ドイツ)に僅か34秒で一本負けと、北京オリンピックでは二試合続けて短時間で一本負けで終わった。
その後、100kg超級に階級を上げて現役続行を表明。所属する平成(旧平成管財)の柔道部の廃部にともない、2009年4月から母校の国士舘大体育学部武道学科専任講師に就任。
2010年4月の選抜体重別選手権では優勝を果たすも、全日本選手権では準々決勝で後輩の高橋和彦に敗れて5位に終わった。再起を期した2010年9月の世界選手権では、初戦でヤヌシュ・ウォイナロビッチ(ポーランド)に一本負けを喫した。試合後に「自分でも信じられない。今でも夢じゃないかと思う。相手の技とか体調の問題じゃない、今まで何をやってきたんだろう。」と述べた。直訴して出場した無差別級では準決勝で同じ日本の上川大樹に一本負けするも3位決定戦でR.サイドフ(ウズベキスタン)に大外刈りで一本勝ちし、銅メダルを獲得した。
2011年4月の選抜体重別選手権は決勝で上川に一本負けして2位だったが、全日本選手権では決勝で穴井隆将に大外返で一本勝ちして自身4度目となる全日本選手権優勝を果たした[13]。しかし、8月の世界選手権では3回戦で敗れてメダルを獲得できなかった[14]。
10月にロシアのチュメニで開催された世界柔道選手権大会無差別では、準決勝でハンガリーのバルナ・ボルに一本負けを喫するが、3位決定戦では大学の後輩である立山広喜を破って3位となった[15]。
2012年4月の全日本選手権では準々決勝で新鋭の東海大学の羽賀龍之介を2-1の判定で破るも、準決勝でJRAの石井竜太に内股で技ありと指導3を取られたことで総合負けとなり、大会連覇はならなかった。また、内股で投げられた際に右肩を脱臼する大ケガを負った[16]。
5月の体重別では右肩のケガをおしての強行出場となったものの、初戦で世界ジュニアチャンピオンである東海大学の王子谷剛志に1-2の判定で敗れて、ロンドンオリンピック代表には選出されなかった[17]。
2012年7月3日、国士舘大学柔道部監督への就任並びに第一線柔道選手(主要国際大会強化対象選手)からの引退を発表した[18]。また、鈴木自身は『出場できる大会には出たい』として国体等、日本国内での大会については出場を続けるとしている[18]。
11月には全日本男子100kg級、100kg超級の強化コーチに就任することになった[19]。
2013年8月には選手の意見を組織運営に反映させる目的で全柔連が新設した、アスリート委員会の委員に選出された[20]。
2015年4月に国士舘大学体育学部准教授に昇格。同年10月に第一子(長女)が誕生。
2019年6月には実業団体3部に国士舘大学柔道クラブの一員として、2012年10月の国体以来約7年ぶりとなる公式戦に出場した。準々決勝まで全て一本勝ちすると、準決勝と決勝は引き分けたものの、チームの優勝に貢献して優秀選手に選ばれた。試合後には次のようにコメントした。「今の精一杯はやったので100点。今、これが僕のできる全て。いい経験をさせていただきました」。なお、今まで正式な引退表明はしてこなかったが、今回の試合を以て正式に引退を宣言することになった[21][22]。
2020年9月いっぱいで国士館大学柔道部の監督を退任し、同年10月からは総監督に就任した[23]。
2021年4月に、国士舘大学体育学部武道学科教授に昇格。9月には全日本代表チームの監督に就任した[24]。
2024年10月には全日本代表チームの監督を再任することになった[25]。
本来右利きであるが左組手である(親が試合で有利となるように矯正させた)。柔道以外は右利きである。小外刈、小内刈、内股、大外刈りなどの足技を得意技としている。通常は小外刈り、小内刈りなどの足技は崩しや第2の技として使われることが多い中、鈴木は一本を取れる決め技として使えるほど足技が冴えている。柔道選手の多くは足先を「逆ハの字」に向けて構えるが、鈴木はほぼ平行に構える。小外刈りなどの足技をかける際は、足先を「かま」のような形状にして相手の足を刈るのが基本であるが、鈴木はこの基本に忠実であり、足の長さも相俟って足技のキレを生む一因となっている。
鈴木は奥襟を取らず、相手を前に引き出して崩し内股をかける。担ぎ技はやらない、とのこと。
(出典[1]、JudoInside.com)。