すずき せいじゅん 鈴木 清順 | |||||||||||||||
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![]() 『キネマ旬報』1962年4月上旬春の特別号より | |||||||||||||||
本名 | 鈴木 清太郎[1] | ||||||||||||||
生年月日 | 1923年5月24日 | ||||||||||||||
没年月日 | 2017年2月13日(93歳没) | ||||||||||||||
出生地 |
![]() (現:東京都中央区日本橋) | ||||||||||||||
死没地 |
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職業 | 映画監督・俳優 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||||||
活動期間 | 1956年 - 2017年 | ||||||||||||||
配偶者 |
前妻( ‐ 1997年死別) 一般女性(2011年 ‐ 2017年) | ||||||||||||||
著名な家族 | 鈴木健二(弟) | ||||||||||||||
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鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月24日[1] - 2017年〈平成29年〉2月13日[2])は、日本の映画監督・俳優。本名:鈴木 清太郎(すずき せいたろう)[1]。弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二がいる[1]。
日活の専属監督として小林旭、高橋英樹、宍戸錠ら当時の日活の主力俳優の主演作品を多く手がけ、その「清順美学」と評される独特の映像表現で名を馳せた。特に宍戸錠主演の『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い[注 1]。一方でその実験的とも言える作風が当時の日活の経営陣の不興を買い会社を追われるなど、境遇は波乱に富んでおり、映画作家として約10年間の空白期間がある(「鈴木清順問題共闘会議」参照)。活動再開後に撮った『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』は「大正浪漫三部作」と呼ばれ、幽遠な映像美を見せた[4]。また晩年メガホンを取った『ピストルオペラ』『オペレッタ狸御殿』でのアバンギャルドな作風は、世界中の監督達に強い影響を与えている。
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1923年(大正12年)、東京日本橋の呉服屋の長男として生まれる。関東大震災に被災後、本所亀沢町(現:墨田区)に移る。1941年(昭和16年)東京府立第三商業学校卒業後、旧制弘前高等学校(現弘前大学)に進む。柔道部に入部した。そのときに寮の同室の学生に北一輝の『支那革命外史』[5] を読むように勧められた。1943年(昭和18年)学徒出陣で応召。陸軍二等兵として入隊。フィリピン、台湾を転戦し、陸軍少尉で終戦を迎える。1946年(昭和21年)復員して弘前高校に復学し、1948年(昭和23年)に卒業の後、東京大学経済学部を受験するが失敗する。同じく東大受験に失敗した仲間に誘われる形で、鎌倉アカデミアの映画科に入るが、同年友人の誘いで松竹大船撮影所の戦後第一回助監督試験を受け、合格を果たす。合格者は1500人中8人だったという[6]。鈴木の成績は23番目だった。その後、岩沢康徳、佐々木康、中村登らについたのを経て、1951年(昭和26年)からメロドラマを得意とした岩間鶴夫のもとで専属助監督を務めた。
1954年(昭和29年)西河克己の勧めで日活に移籍してからは[注 2]、主に野口博志に師事し、1956年(昭和31年)中川順夫・浦山桐郎共同脚本による「勝利をわが手に」を本名の鈴木清太郎名義で初監督。
1958年(昭和33年)の「暗黒街の美女」で鈴木清順と名を改め、以後、1959年(昭和34年)赤木圭一郎のデビュー作「素ッ裸の年令[8]」、1963年(昭和38年)小林旭主演の「関東無宿」、1964年(昭和39年)野川由美子主演の「肉体の門」、1966年(昭和41年)渡哲也主演の「東京流れ者」、高橋英樹主演の「けんかえれじい」などの作品を発表。モダンで新鮮な色彩感覚と映像リズムによる独自の世界観を作り出し、『清順美学』と称されるほど一部に熱狂的なファンを獲得。この間、映画製作の仲間の曽根中生、大和屋竺、木村威夫らと脚本家グループ「具流八郎」を結成。
1967年(昭和42年)には宍戸錠主演の「殺しの烙印」を発表するが、日活社長・堀久作の逆鱗に触れ、翌年同社を追われた。これに抗議したファンや映画関係者は「鈴木清順問題共闘会議」を結成、デモを行うなど、一時は社会問題に発展した。
1968年、シネクラブが企画していた「鈴木清順作品三十七本連続上映会」へのフィルム貸出を日活が拒否したことに端を発し、鈴木は日活から解雇された[9]。これが当時の日活社長堀久作の「わからない映画ばかり作られては困る」の発言による鈴木清順解雇事件である[10]。裁判事件となり、川喜多和子などが「鈴木清順問題共闘会議」を結成して鈴木を支援し[9]、1971年12月に和解した[11]。この間鈴木は映画を製作しなかった[1]。
ジャーナリストの竹中労が1974年に映画が撮れるよう鈴木を東映に橋渡ししたが[12]、東映の幹部が岡田茂東映社長に企画を上げるまでに全部潰し[12]、唯一通った武田鉄矢映画初出演を予定していた『母に捧げるバラード』は鈴木監督の映画復帰作として公表されたが[13][14][15]、東映での初主演をオファーされていた岡田裕介が脚本を読み[14]、父の岡田茂東映社長と揉め、企画が潰れた[13][14][注 3]。
1975年1月にはTBSの林美雄の企画による、渡哲也、菅原文太、原田芳雄ら映画俳優のコンサート「歌う銀幕スター夢の狂演」に出演し、「麦と兵隊」を歌った[16]。
1977年(昭和52年)松竹で「悲愁物語」でカムバックを果たす[1]。同年から放送されたテレビアニメ「ルパン三世」第2シリーズには監修として携わった[17]。
1980年(昭和55年)には内田百閒の「サラサーテの盤」を原作とした「ツィゴイネルワイゼン」を完成させ、プロデューサー荒戸源次郎の試みで巨大なテントを会場とした上映方式で興行した。十年間の鬱屈を全て晴らすように、一切妥協しないという創作態度で挑んだこの作品は、第54回キネマ旬報ベストワン(これが初のベストテン入賞でもある)、芸術選奨文部大臣賞、第4回日本アカデミー賞最優秀賞作品賞及び最優秀監督賞を獲得。ベルリン国際映画祭に出品されるや、国外の映画関係者に激賞され、スペシャル・メンションを受賞する快挙を成し遂げ、国内外で高く評価された。またこの受賞を機に清順が世界的に知られるきっかけとなった。続く翌年の「陽炎座」もキネマ旬報ベストテン3位に入賞するが、以降、作品発表間隔が大きく開くようになり、この両年に大きく盛り上がった再評価ブームは維持できなかった[注 4]。
1984年(昭和59年)、「カポネ大いに泣く」で一般劇場映画に復帰。また、1985年(昭和60年)に公開された[18] ルパンシリーズの劇場映画第3作『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』では監督を務めた[17]。1986年(昭和61年)「鈴木清順全映画」が刊行され、今まで清順を知らなかった人にまで話題を呼ぶ。1990年(平成2年)「夢二」で「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」と続く大正三部作が完成。同年紫綬褒章受章。この間1997年に47年間連れ添った妻と死別[19]。その後、しばらく監督業から遠ざかるが、2001年(平成13年)に十数年ぶりに再びメガホンを取った「ピストルオペラ」は第58回ヴェネツィア国際映画祭で「偉大なる巨匠に捧げるオマージュの盾」受賞を始め、スペイン/ヒホン国際映画祭等世界各国の映画賞を受賞し、過去の清順作品もリバイバル上映されるなど話題を呼んだ。この時期以降十数年間、ピストルオペラ/プロデューサー小椋悟が代表を務める小椋事務所が清順のエージェントを務めた。2004年ごろ、48歳年下の女性と再婚[19]。
2005年(平成17年)には構想20年、再びプロデューサー小椋悟と組み、中国の女優チャン・ツィイー主演の大作「オペレッタ狸御殿」を監督、カンヌ国際映画祭で栄誉上映特別招待作品として招待された。また山羊ひげの洒脱な風貌で、俳優としても「ムー一族」「美少女仮面ポワトリン」「みちしるべ」「ひまわり」などのテレビドラマや、「ヒポクラテスたち」「不夜城」などの映画にも出演している。2006年(平成18年)に第24回川喜多賞受賞[20]。2010年、山路ふみ子文化財団特別賞を受賞。
2017年(平成29年)2月13日午後7時32分、慢性閉塞性肺疾患のため都内の病院で死去[2][21][22]。93歳没。2005年の『オペレッタ狸御殿』が遺作となった。次作として室生犀星の小説『蜜のあわれ』の映画化の準備が水面下で進んでいたが、叶わなかった[23]。
『キネマ旬報』2017年4月下旬号(No.1744)で追悼特集が組まれた[24]。他に『ユリイカ 詩と批評 特集 追悼・鈴木清順』(青土社、2017年5月号)がある。
墓は台東区根岸の西蔵院にある。戒名は龍泉院櫻雲清順居士。
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