すずおき ひろたか 鈴置 洋孝 | |
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プロフィール | |
本名 | 鈴置 洋孝[1][2][3] |
愛称 | 鈴置ちゃん[3][4] |
性別 | 男性 |
出身地 | 日本・愛知県名古屋市中区栄町(現:愛知県名古屋市中区栄)[5] |
死没地 | 日本・東京都[6] |
生年月日 | 1950年3月6日 |
没年月日 | 2006年8月6日(56歳没) |
血液型 | A型[7] |
職業 | 声優、俳優、ナレーター、劇団プロデューサー |
事務所 | 賢プロダクション(最終所属)[8] |
配偶者 | 秋野真理子[7] |
公称サイズ(時期不明)[8] | |
身長 / 体重 | 166 cm / 58 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1976年[5] - 2006年 |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え、ナレーション |
デビュー作 | 『熱狂のレーサー』[2][9] |
俳優活動 | |
活動期間 | 1973年[5][9][10] - 2006年 |
ジャンル | 舞台 |
デビュー作 | 『円卓の騎士』[5] |
鈴置 洋孝(すずおき ひろたか、1950年3月6日[3][7][9][11] - 2006年8月6日[4][6][12])は、日本の声優、俳優、ナレーター、劇団プロデューサー。愛知県名古屋市中区栄町(現:愛知県名古屋市中区栄)出身[5]。賢プロダクションに所属していた[8]。
愛知県名古屋市中区栄町(現:愛知県名古屋市中区栄)に生まれ育ち[5]、19年間暮らした。東京に父方の祖父母の家があり、生後間もない頃から年に1度東京に遊びに来ていた。東京に来た際は名古屋弁[8]と標準語を使い分けていたという。
小学校時代は、一言で言うと「変な子供」だったという[11]。家から学校まで歩いて5分位のところで道草しており、いつも30分くらいかけて行くため、必ず遅刻していた[11]。小学6年生の時の卒業文集のようなもので「将来何になりますか」という話題に対しては鈴置曰くわからず、何故か「灯台守」と書いていたという[11]。担任の教師が家庭訪問に来ると「とってもユニークなお子さんですね」と言っていたという[11]。一方、「何かやれ」と言われると真っ先にそれを行う子供だった[11]。小学6年生の時、クレージーキャッツが流行しており、茶話会のようなものがあった時、最初は誰もやりたがらず、教師が「鈴置、何かやれ」と言うと鈴置は「アソーレ、スイスイスーダラダッタ」とやっていたという[11]。
自称「かなり性根のすわったグウタラ」であり、愛知県立熱田高等学校に通っていた際には[5]「黙っていても食える仕事はないか?」と教師に相談していた[7]。教師から、税理士になることを薦められ、大学に進学するために東京に上京[7]。高校時代までは内向的だったが、大学に入ってフォークソングを始めてからは社交的になったという[13]。
昼間は働き、夜は東京経済大学夜間部[9]に通っていた[5]。大学時代はフォーク部を結成し、部長を務めた[9][13]。当時は女子学生が少なく、後に妻となる当時の恋人が「演劇部はないですか」と来て、本来はあったが「夜間はない」「フォークソングも演劇に近い」など適当にごまかして入部してもらったという[9]。その恋人に誘われて演劇を観るようになり、舞台の仕事に興味を持ち始める[13][9]。最初に観に行ったのが、佐藤オリエが出演していた劇団俳優座の田中千禾夫作『マリアの首』[13]。
ホテルオークラのルームボーイ、ゴルフ場のキャディをしながら大学に通っていたが、大学3年生の時に昼間に編入[5]。
東京経済大学経済学部経済科卒業[1][2]。その頃、進路を決めかねているところもあり、三鷹市役所などの地方公務員の試験、小金井市役所を受けていたが、落選[2][7]。受かっていたら市役所の職員になっていたと語る[2]。
その恋人は高校時代から演劇をしていたが、鈴置は23歳まで演劇の経験がなかったことから「基礎訓練をしたほうがいいんじゃないか」ということで東京アナウンスアカデミーに2人で半年くらい通っていた[9][13]。
1973年4月、野沢那智が代表を務めた「劇団薔薇座」にて8期生として役者デビューを果たす[2][5][9][10]。薔薇座入団のきっかけは、大学在学中に通っていた同アナウンスアカデミーの講師に紹介されたこと[2]、その恋人が入団オーディションを受ける際、「思い切って飛び込んでみよう」という気持ちでオーディションを受けたことによる[13]。その時恋人と一緒に暮らしていたが、履歴書で恋人と住所が一緒だったことから、「この鈴置って奴だけ落としたらかわいそうだ」となり、結果的に「おまけ」で合格になったという[9][13]。
劇団薔薇座に入団した年はちょうどミュージカル路線に切り替わったためか、それまで所属していた劇団員達が大量に退団しており、正規の劇団員は4、5人くらい少なくなっており、あとは鈴置ら研究生だった[9][13]。
公演は打てないことから毎日朝10時から夕方6時まで演劇史、日本舞踊、発声、週3回ジャズダンス、2回はクラシックバレエ、週3回声楽と毎日レッスンに明け暮れていた[9][13]。高校卒業したばかりのピチピチした若い仲間たちからは「おっちゃん」と呼ばれて慕われていた[5]。しかし当時は「毎日が穴に入りたいくらい恥ずかしかった」とのこと[5]。まずタイツ姿になるのが恥ずかしく、尻がスースーするようであった[5]。前はモコモコしており、モダンダンスを踊れば体はコチコチ、奴だこの糸が切れて飛んでいくような動きしかできず、自分自身が哀れになったこともあったという[5]。それだけでは生活はできないため、夜終わってから恋人と2人でアルバイトし、自宅に帰ったらすぐに寝るという生活が2年続いていた[9][13]。
研究生2年の時に親に同棲が発覚して、結婚したという[13]。妻は女優、声優の秋野真理子で、同じく劇団薔薇座に所属していた[2][7]。
公演がない時はレストランのウェイター、スナックで弾き語りのアルバイトをしていた[5]。初舞台は1976年、ジャン・コクトー作の『円卓の騎士』[5]。
声優としての仕事を始めたのは、劇団時代にさまざまなアルバイトをこなしているときに「同じバイトなら声の仕事をしてみては?」と誘われたのがきっかけだという[10]。その時、偶々研究生しており、東北新社から劇団に、「事務所から研究生がほしいから」ということで、「鈴置行け」ということで[11]、同年、東北新社でアテレコの研修会に参加していたのがきっかけで声優としての活動を始めたという[2][5][9]。声優デビューは『熱狂のレーサー』[2][9]で、その時はテレビの洋画吹き替えの「男1」などのその他大勢[13][10]。また番組レギュラー、ガヤや脇役として初めて出演したアニメは『超電磁マシーンボルテスV』のその他大勢である[13]。1978年に『無敵鋼人ダイターン3』の主人公・破嵐万丈役で初主演を果たし、1979年に後番組の『機動戦士ガンダム』のブライト・ノア役をオーディションなしでもらう[9][13]。その後1981年4月から東京俳優生活協同組合[5][8]、1998年からは賢プロダクション[8]に所属[10]。その期間にも、海外のテレビアニメ、トランスフォーマーのスタースクリーム役やトム・クルーズ、ジョン・トラボルタらの吹き替えなどで幅広く活動した。
2006年7月初旬に体調を崩し検査を受けた結果、肺癌と診断され東京都内の病院に入院・療養に当たっていた。しかし同年8月6日の朝に容態が急変し、死去[6][12]。56歳没。妻との間に子供はいなかった。
声種はローバリトンからハイバリトン[14]。方言は名古屋弁[8]。
低音質を生かした理知的な役を多く演じており[15]、ニヒルな二枚目役が多かった[10]。
声優活動のみならず、舞台活動も盛んに行なっていた。また、1984年からは声優バンド「スラップスティック」に、三ツ矢雄二の後釜として加入[16][17][18]。解散するまで音楽活動も行なっていた[16][17][18]。
1997年には演劇ユニットの「鈴置洋孝プロデュース」を旗揚げし[9]、自身でも演劇のプロデュースを開始し、オリジナル作品を中心に発表している。いくつかの戯曲作品は書籍化されている。なかでも『煙が目にしみる』[注 1]は斎場の待合室が舞台の、荼毘に付される直前の二人の霊魂が主人公という異色の人気作で、各地の数々のプロ+アマチュア劇団が取り上げ、演目としてスタンダードとなりつつあり公演されている[19]。
薔薇座に入った頃は、指導の厳しさから「劇団なのか収容所なのかよくわからない凄いところだった」、「(野沢那智の名前にかけて)ナチ収容所」と語っており、当時は野沢本人に「あまりにも厳しすぎる」と直接発言していたという。しかし同時に「あそこを経験していたから自分は本当に精神的に鍛えられた。その後現場で辛いと思ったこともなかった」とも語っている[13]。
23、4歳の頃に演劇のかたわら『ゴレンジャー』ショーのアルバイトをしており、当時は体重が50kgに満たないほど痩せていたのでモモレンジャー(女性)のスーツアクターを担当していた。また喫茶店でもアルバイトとして働いていたが、「同期の連中が就職する中、肩身が狭かった」と語っている[13]。
アフレコのリハーサル中には、メモを取ったりマーカーでチェックすることもせず、台本はいつも真っ白だったという。これについて林原めぐみは、「手ぶらでディレクターの指示を聞いているのを見かねてペンを貸そうとしたところ、『一度聞けば覚えるだろう』と言って断られた。しかも、そのあとの本番ではまったくNGがなかった」と語っている。一方で不可解なNGを出すこともあり、古谷徹によるとOVA『聖闘士星矢 冥王ハーデス十二宮編』では「白羊宮」と上手く言うことができず、「白洋舍なら言えるのに」と真剣に悩んでいたという。
『聖闘士星矢』の冥王ハーデス十二宮編OVAシリーズは、テレビアニメから長期間経過していたこともあってオリジナルキャストの面々は声質が変化しており、原作者の車田正美は星矢役の古谷徹以外のキャスト総入れ替えを要求した。鈴置はこれに憤慨していたが、劇場版・ゲームの新録に際して古谷が「もう一度みんなで星矢を」と呼びかけたところ、「正直、あの役はもう降りるつもりだったが、お前のためならプライドを捨ててやってやる」と潔く応じたという。古谷は「このときは感動した」と語っている。
トム・クルーズの吹き替えは1989年の『7月4日に生まれて』のVHS収録用の日本語吹き替え版におけるクルーズの吹替声優を決めるオーディションを受けた際に鈴置のデモテープを聴いたクルーズ本人の推薦で決まったことが始まりのきっかけとされている[20][21]。
ブライト・ノア(『機動戦士ガンダム』)では、19歳の若さでリーダーシップを取らなくてはならなかったブライト・ノアと、劇団時代の自分の境遇を重ねて演じることがあったという[13]。
ボーイズラブ(BL)CDの収録前には、相手役の声優に必ず「今日はたっぷり可愛がってやる」と話し、役作りをしてから演じたという。
インタビュー記事の中で『ダイターン3』の頃を振り返り、「スタジオでの収録が終わったらすぐに移動してキャバレーの呼び込みのアルバイトをしていたが、そっちの方が収入がよかった」と語ったことがある。
声優業だけで食べていけるようになったのは『機動戦士ガンダム』でブライト役を演じた頃からだったと語っている。しかしながら、その『ガンダム』出演時も、収録後に飲みに行く際、出演料の高い永井一郎や池田秀一がタクシーで移動する一方、鈴置だけが自転車で必死に追いかけていたという。
『ガンダム』のヒットによる劇場版製作に当たっては、永井らとともに声優陣の中心となって一致団結してギャランティの値上げを交渉、その結果当時としては破格の出演料が支払われた。「それだけの仕事をしたと思うし、それに値する作品だと自負もあったから」と鈴置は語っている。また同時に、鈴置を中心としたメインキャストが一丸となって、「主演の古谷徹を断固としてトップクレジットに掲載する」ようにも交渉したという[13][注 2]。
仲の良い声優の中に古谷徹と池田秀一がいた。特に池田とは呑み仲間で、共演する機会がなくとも酒の付き合いは長く続くほど、個人での付き合いが深く、池田からは「鈴置ちゃん」と呼ばれていた。麻生美代子とは仕事でもプライベートでも仲が良く、一緒に旅行に行くこともあったという。天津飯役として『ドラゴンボール』に出演が決まった際に、原作を読んでいた共演者の古谷に役柄についてレクチャーしてもらったと話している[22]。
同じく二枚目を演じることの多かった塩沢兼人とも飲み友達で仲が良かった。ともに「フッ」と鼻で笑う役柄が多かったが、鈴置は「俺の『フッ』は正統派な二枚目だけど、あいつは怪しい変態チックな『フッ』」だと語っている。また日常生活では恥ずかしくて「フッ」とは笑えなかったという[10]。
1990年には新幹線の中で急病で倒れ、『ドラゴンボールZ』の天津飯役および『ショウビズトゥデイ』のナレーションを山寺宏一、『らんま1/2 熱闘編』の九能帯刀役を辻谷耕史、『THE八犬伝』の網干左母二郎役を池田秀一、『アルスラーン戦記』カセットブック版のダリューン役を田中秀幸が一時的に代演となったこともある。入院した際、『ドラゴンボールZ』で共演していた堀川亮(現:堀川りょう)と古谷徹が心配してそれぞれ見舞いに来た。
「タイムボカンシリーズ」の音楽担当であり声優としての出演もしていた山本正之は、自身の役を振り返って「これで鈴置くんぐらいの二枚目にはなれただろう」と語っている。なお、山本は鈴置の死を悼み『逆転イッパツマン』の主題歌の三番を新たに作詞、『逆転イッパツマン!3C』を作曲している。間奏に鈴置と富山敬の当時の台詞が挿入されている。
艶福家であり、薔薇座時代のメンバーによる印象は、「とにかくもてる奴」で一致している。『らんま1/2』で帯刀の妹・九能小太刀役として共演した島津冴子も鈴置のことが好きだったと語っている[要出典]。仕事に遅れると「ゴメンゴメン、彼女がしつこくてさ」が口癖だったという。野島昭生や古谷徹ら、スラップスティックのメンバーは「一度でいいから、言ってみたいよね」と口をそろえており、軟派なキャラクターで知られていたことがうかがえる。野沢那智は「あんな軟派でいい加減な男が絶対プロの役者になどなれるわけがないと思っていたのに、今や座長か…」と苦笑したという。野沢とは同じプロダクションに所属していたこともあり晩年まで親交も深かった。
声優業界でも酒好き[23]として知られていたが、酒の飲み過ぎに加え、恒例の夜通しカラオケで体調を崩すことも多かった。またタバコも大好きで、「酒かタバコ、どちらかを止めるとしたら酒を止める」と語っていた。自身がプロデュースした作品では、たいてい劇中に喫煙や飲酒のシーンがある。鈴置プロデュースの上演脚本は毎度毎度遅々として届かず、稽古ぎりぎりにFAXを受け取りながら進めていったという。その間、鈴置は酒を飲んで待ちながら稽古をしていたため、原稿が届く頃には泥酔状態で呂律が回らず、稽古が遅れることが度々あった。
スポーツも趣味であり[23]、野球は中日ドラゴンズの大ファンで、幼少期から優勝するのを楽しみにしており、亡くなった翌年の2007年に中日は優勝こそ叶わなかったものの、クライマックスシリーズで日本シリーズ進出を経て53年ぶりに日本一となった。
芸能人では小泉今日子のファンで、ファンクラブに入会していたことがある。
料理や洗濯などの家事は比較的得意で、とくに料理は三食自分で作っても苦にならないという。
免許は第一種普通免許[8]。特技はテニス[8]。中学時代は柔道部、高校時代はテニス部に所属していた[2]。
大学に進学後、ギターを始めて、東京都千代田区神田のスナックで弾き語りのアルバイトをしていた[2]。
死去する2か月前に、賢プロダクションにおけるスクールデュオのWEBラジオにゲスト出演していた他、ラジオドラマ『星界の断章 『原罪』』のドゥビュース役のパートを収録していた[注 3]。
東京MXテレビによる調査では、訃報前後の一週間にインターネット上の掲示板やブログで上がった話題で「鈴置洋孝」が2位にランクインしている。また、死後一年ほど経過した『メガミマガジン』の2008年2月号では「メガマガ読者が選ぶ!2007年アニメ10大ニュース!」において「鈴置洋孝さん逝去」が第10位に選ばれた。
また富野由悠季、池田秀一、古谷徹ら『ガンダム』の制作関係者・共演者が、同作関連の雑誌に弔辞を寄せ、他にも古川登志夫、神谷明など複数の声優が自身のHPで哀悼の意を示した。師にあたる野沢那智は「芝居は教えたが、命を失ってまで芝居を守れとは教えたくなかった。本当にかわいい弟子だった」とのコメントを残したが、その野沢も鈴置の死から4年後に同じ病で逝去している。
遺影は生前鈴置が自ら選んだもので、「もし何かあったらこの写真を使って欲しい」と伝えていたという。
死後、追悼公演として『煙が目にしみる』が再演された。観客席の最前列中央は空席になっており、亡き鈴置も見に来ていたのではないかと思わせた。終わりの挨拶に内海賢二は、「鈴置もこのステージのどこかの場面にビールを飲みながら出ていたかも。皆さんの目撃情報を求む」とコメントした。見学に来ていた後輩声優の吉田小南美は、どこかから鈴置に「いい芝居だったろ。拍手してくれよ」との声をかけられた気がして、泣きながら拍手を贈ったと語っている。
2007年9月11日 - 16日には、鈴置の遺作をもとにした『この素晴らしき世界』を鈴置プロデュースの最終公演として上演した。舞台のチラシの裏では追悼公演の「お客さんからの目撃情報」に触れ、「しかも何故か見ず知らずの女性の肩を抱いて…納得です。案の定です。さすがです」と書かれている。この最終公演をもって「鈴置洋孝プロデュース」としての活動は終了したが、麻生美代子を始めとする劇団員の意向により、新しい劇団として再出発することが発表された。劇団の名前は最終公演の際に公募し「鈴舟」と決定。旗揚げ公演は2008年6月4日 - 8日に新宿シアターサンモールで上演された。その後も第二回の舞台を発表、活動している。
ガンダム関係の各種ゲームにおけるブライト・ノアの声は、生前の鈴置が録音したものが使用されることが多く、「スーパーロボット大戦シリーズ」におけるブライト、『無敵鋼人ダイターン3』の破嵐万丈、『戦国魔神ゴーショーグン』の北条真吾も同様の措置が取られている。ただし、2010年のOVA『機動戦士ガンダムUC』で鈴置に比較的近い声を持っていた成田剣がブライトの声を担当して以降は、『第3次スーパーロボット大戦Z 時獄篇』など一部のゲーム作品において、成田が新規に収録した台詞が使用される機会が増えている。
鈴置の病気療養および死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
太字はメインキャラクター。
2007年以降の出演作品は全て生前の収録音声を使用したライブラリ出演。
鈴置洋孝プロデュース[82]
雷電