英語:railroad fan)とは、日本において、鉄道に関する趣味(鉄道趣味)を持っている人のことである。鉄道のファン。
(てつどうファン)、鉄道を「鉄」と略して、各人こだわりがある分野・活動によって「乗り鉄」「撮り鉄」「模型鉄」[1]と呼んだりすることもある(「鉄道趣味の分野」「鉄道ファンの概要」節で詳述)。
以下特記が無い限り日本国内の状況について説明する。
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以下は鉄道趣味とされる趣味の例である。それぞれの分野に熱中するファンは、カッコ内に示すような愛称・俗称で呼ばれることがある。
年代層は青少年から高齢者まで幅広い。父親または母親あるいは双方が鉄道ファンであり、子供が両親の影響を受けて鉄道ファンになるという例も多い。逆に、子供を授かるまで鉄道にそれほど興味を示さなかった人が、子供と一緒に鉄道趣味を楽しむことで鉄道ファンになる場合もある。母子で鉄道ファンである場合「ママ鉄」「親子鉄」と称されることがある。
学校のサークル活動・部活動の一つとして鉄道研究部・研究会などが存在する。全国的な学校・サークルの連合組織は日本には運動系以外は少ない。神奈川県には、神奈川県高等学校文化連盟の一組織として、神奈川県高等学校鉄道研究部連盟(神奈川県高鉄連)があり[5]、神奈川県内の高校の鉄道研究部等が加盟している。また、毎年行われる神奈川県高等学校総合文化祭において鉄道研究発表会を実施している。
大学生においては、「関西学生鉄道研究会連盟(関西学鉄連)」が存在している。この種の組織はかつて日本各地にあった。各サークル自体の人数が非常に少ないためにサークル自体が廃部になり、連盟も事実上解散している場合がある。2010年12月には、千葉県にある5大学が加盟する「ちば学生鉄道研究会連合」が新たに発足し、2013年には関東学生鉄道研究会連盟(関東学鉄連)が再起した[6]。
鉄道研究部の活動は各校異なるが、おおむね以下のようなものがある。
学校レベルでの部誌の中には、一般書店の鉄道コーナーで販売されるものもある。部誌は白黒の単色刷りのものが多いが、一部にカラー刷りのものもある。研究発表活動は、取材の成果(写真・データなど)や鉄道模型の展示などが基本である。
特に長い歴史と多大な活動実績を持つ鉄道研究部の中には、鉄道趣味雑誌から記事執筆の依頼を受けるものもある。
ある一つの学校の学生・生徒だけで構成される学校鉄道研究会だけではなく、一般に入会希望者を募り、活動している鉄道サークルもある。代表的なもので鉄道友の会や鉄道資料交換会(RSEC)、Rail-On(JR東日本公認のファンクラブ・2008年に解散)など。
これらは貸切列車を仕立てた大規模な懇親イベントや鉄道模型の運転会、あるいは貴重な歴史的鉄道車両の保存・維持管理など、個人では不可能な活動を実現することを活動の目的としていることが多い。
鉄道について学ぶ学校(鉄道学校)がある。東京都には昭和鉄道高等学校、岩倉高等学校など鉄道関係の学科を持つ高等学校が存在する。高校の授業として鉄道が学べることや、在学中にJR・私鉄駅での実習やアルバイト(私鉄のみ)までできること、鉄道関係各社局への就職率が高い等の理由で鉄道ファンの生徒も多い。東京近郊から遠く離れた地方から受験し入学する生徒もいる。ただし、これらの学校に入学できたからといって必ずしも鉄道事業者等へ就職するわけでなく(希望が叶わなかったり、もしくは逆に本人希望で)、卒業後に鉄道以外の分野の職業に就いたり、大学や短期大学、専門学校に進学したりする者も多い。
日本における「鉄道ファン」に対する呼称は一様ではなく、時代や文脈によって様々に分かれている。以下、呼称について各呼称ごとにその由来・時代変遷を述べる。
日本の鉄道ファンは、その対象を日本国内の鉄道のみとしている人が多く、日本国外の鉄道を趣味の対象としている人(いわゆる海外鉄)は多くない。
その理由としては、(一般論として)次のようなものが挙げられる。
かつては「実際に訪問するか鉄道書籍以外に、日本国外の鉄道の情報を得る手段がない」という面も大きかったが、現在ではインターネットや機械翻訳の発達により、以前に比べ情報量や即時性などの面で劇的に改善されている。それにより、「情報の少なさ」という理由はかつてに比べ緩和されている。
(定量的なデータではなく、あくまで定性的なものであるが)日本の鉄道ファンが、日本国外の鉄道に興味を示さない傾向が強いのは、鉄道雑誌において「日本国外の鉄道を特集に取り上げると、売り上げが落ちる」「日本国外の記事はいつも人気がない」と言われていることからも窺い知れる。例えば、『鉄道ジャーナル』1997年3月号において、ヨーロッパの鉄道に関する特集を約50ページにわたって特集したが、当該月号の読者の人気投票では、日本国内の記事が軒並み上位に入り、日本国外の記事はいずれも不人気だった、という事例がある。
日本の鉄道ファンが日本国外の鉄道を趣味の対象とする場合でも、その対象はきわめて少数の国・地域に偏っている傾向がある。さらに、高速鉄道や観光鉄道など、日本の学生用社会科(地理など)の教科書やテレビや雑誌などでの注目・露出度が高い鉄道だけを趣味の対象としている場合も少なくない。
21世紀には、日本の鉄道の規格統一が進んで独特な車両が淘汰されていったことや、ローカル線や新線開業の縮小、かつて日本で運用された車両が国外の鉄道事業者に譲渡されるようになったことなどの理由で、新たに日本以外の鉄道に関心を抱く鉄道ファンがインターネットを中心として情報収集できるようになった。実際の訪問についても、格安航空会社(LCC)の増加で日本国外への旅行にハードルの高さを感じなくなったことにより、日本国外の鉄道を撮影・乗車するためのハードルは下がっている。長年鉄道ファンを続けてきたリタイア層が、金銭的な余裕も持ち合わせていることにより、日本の鉄道のみならず国外の鉄道を見聞するために旅行するといった現象も起きている。こういった層をターゲットとした旅行商品(パッケージツアー)も用意されるようになり、一般観光旅行より高額にも関わらず、多くの参加者を集めるという現象も起こるようになった。
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鉄道を趣味の対象とする行為の歴史は古く、鉄道の歴史とともに始まったといわれる。歌人の若山牧水のように、鉄道旅行を好みその体験を書き記した作家は少なくなかった。ただし明確な「鉄道趣味人」の登場までには少しばかり時間がかかったようだ。詩人・童話作家の宮沢賢治は鉄道に関心を持ち、自作の中に多くの鉄道を用いた描写があるが、現代的な意味での「マニア」とはいささか異なる。
明確に「鉄道を職業とは異なるレベルで探求する」という人物は1902年から1907年にかけて全国の鉄道写真を撮影して回った岩崎輝彌 (1887 - 1956) と渡邊四郎 (1880 - 1921) をもって嚆矢とするといわれる。この2人が写真家の小川一真に依頼して撮影した膨大な写真は、「岩崎・渡邊コレクション」として鉄道博物館に所蔵されている。
この両名のように広く名前が知られることはなかったものの、鉄道に関心を示し、個人的に探求を行った人物が他に存在する可能性も指摘されており、たとえば横浜で酒屋を経営していた田島貞次(1889 - 1957)は明治30年代以降に京浜間を走っていた蒸気機関車を詳細に観察して晩年にその証言を残したという[7]。
鉄道黎明期における「鉄道マニア」は経済的に裕福な層が中心となっている。岩崎輝彌は三菱財閥創始者の岩崎家の一員であり、渡邊四郎は渡邊銀行創立者の一族である。また、大正時代にすでに機関車や一等車を趣味で乗り比べていた内田百閒は陸海軍の学校や大学で語学を教える教授だった。
当時の一般庶民の生活水準を考えると、鉄道趣味を含めた、今日的な趣味を行うだけの余裕はなかった。一般庶民のなかに鉄道趣味が浸透するのは、さらに時代が下ってから(一般的には1970年代以降)になる。
昭和初期には「鉄道」(1929年)「鉄道趣味」(1933年)「カメラと機関車」(1938年)といった鉄道趣味を専門とした雑誌や書籍も発行されるようになった。もっとも、これらは流通機構に乗って発売されていたわけではなく、発行部数も読者数もきわめて僅少であった。この頃から活躍していた鉄道趣味人としては西尾克三郎、高松吉太郎、亀井一男、本島三良、宮松金次郎、杵屋栄二らが挙げられる。彼らは鉄道写真の大家としても成し、膨大な写真コレクションの数々は今でも十分活用されている。
しかし、昭和10年代になり、国内が次第に軍国主義に傾いていくと、鉄道の軍事的側面が重視されるようになり、軍事機密保護上の理由で高所からの撮影が禁止となるなど、鉄道趣味に対する制約が厳しくなっていった。また戦時体制により用紙の統制が進んだこともあって、「鉄道」「鉄道趣味」は1937年-1938年に相次いで廃刊に追い込まれた。その後、関東・関西で趣味者の同人会が立ち上げられ、1940年に関東では「つばめ」、関西では「古典ロコ」という会員制の同人誌が発行されたが、これらも翌1941年に終刊となり、以後は太平洋戦争の終結まで鉄道趣味活動は事実上、不可能となったのである。
だが、一部の鉄道趣味者は、厳しい看視の目をかいくぐり、涙ぐましい努力と危険を冒しながら趣味活動を続行していた。公共機関の輸送力は軍事機密であったため、駅構内などで鉄道車両に直接カメラを向けたり、車両番号をノートに書き留めたりする行為は完全に禁止(不可能)となった[8]。もし見つかれば、スパイ容疑による厳しい取調べが待ち受けていた。当局の許可を得てようやく撮影した写真も、検閲により容赦なく葬り去られるなど、鉄道趣味の暗黒時代であったが、周囲の目をごまかすため、数学の教科書の行間に車両番号を書き留めたというエピソードはよく知られている。
また、戦争による影響はこうした趣味活動の面のみにとどまらず、戦前に趣味者が蓄積・収集した写真などの記録や各種資料が空襲により焼失したり[注釈 6]、終戦直後の外地からの引き揚げの際にやむなく放棄されたりして多数失われている。
終戦後は国内情勢が混乱していたとはいえ、鉄道撮影に関する制約が少なくなったため、戦後間もない頃でも多くの鉄道写真が一部の趣味者により撮影されている。また、進駐軍が持ち込んだカラーフィルムの一部が日本人向け市場に流れ、鉄道趣味者の手に渡ってカラー写真による鉄道の記録が残されるようになるのもこの頃である。当時のカラーフィルムは高価で品質や性能も良くなく、感度が低く光線漏れが起こりやすい上に経年により退色しやすかったため良質のカラー写真は数が少ないが、近年ではコンピュータによる画像補正技術の進歩と普及により、劣悪であった当時の写真が貴重な記録として日の目を見るケースも多くなっている。
1946年頃からは関東・関西を中心に趣味者の同人会が立ち上げられ、同人誌が発行されるようになった。
1947年には戦後初の鉄道趣味雑誌として「鉄道模型趣味」が創刊されている。これは本来は鉄道模型の専門誌であるが、実物の鉄道車両に関する記事も掲載されていた。1951年、はじめて一般流通機構に乗った鉄道趣味雑誌「鉄道ピクトリアル」が創刊された。また、内田百閒が1950年から発表した『阿房列車』シリーズは、鉄道紀行文学の先駆といわれる。
1953年には日本初の全国規模の鉄道愛好団体である鉄道友の会が設立された。また、旧華族で昭和天皇の皇女・孝宮と結婚した鷹司平通(乗り物通として知られていた)が交通博物館の館長になった。交通博物館が秋葉原に近い神田にできたことで鉄道マニアが集結する場所は秋葉原が拠点となり、他の全くジャンルの違うマニアにも秋葉原の集結の影響を少なからず与えた。現在でも鉄道趣味の情報発信基地は秋葉原と言われることも少なくない。
1960年代に入り、高度経済成長の中、東海道新幹線の開業や、鉄道車両・設備の更新が急速に進められ、秀逸な車両が次々と投入される。だがそれは同時に古い車両の淘汰が進められることと表裏一体であった。またこの時代、道路網の整備とバス路線の拡充により、全国各地の地方私鉄が廃業に追い込まれていった。このような時代背景の中、鉄道趣味といえば鉄道車両・列車とそれに伴う鉄道撮影が主体であった。切符収集などもあったが、少数派であった。
鉄道趣味雑誌としては「鉄道ピクトリアル」に続き、1961年には「鉄道ファン」、1967年には「鉄道ジャーナル」が創刊された。これらも記事の中心は鉄道車両や列車であった。1962年からは「鉄道ピクトリアル」誌上に廃線に関する記事も掲載され、廃線跡趣味の嚆矢ともなった。
1970年、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが始まった。1970年代に入ると蒸気機関車の減少が社会的関心事となり、多くの人々が蒸気機関車の見物や撮影を行うようになった。いわゆる「SLブーム」である。これに乗じた形で1972年に新たな鉄道趣味雑誌「SLダイヤ情報」(1976年に「鉄道ダイヤ情報」に改題)が創刊された。同年には、日本の鉄道開業100周年を記念して、日本初の蒸気機関車動態保存施設「梅小路蒸気機関車館」が、京都市の梅小路機関区の扇形庫を利用して開設され、日本の近代型蒸気機関車16形式17両が同館に収められた。その頃には様々な鉄道雑誌が創刊されるが、数年で終刊になった雑誌も多い。
1976年に蒸気機関車が全廃されると、客車寝台特急列車(ブルートレイン)を撮影する人々が増えた。いわゆる「ブルートレインブーム」であった。このSLブームとブルートレインブームにより低年齢層を中心に鉄道ファンが急増したが、反面、鉄道ファンの質的低下を問題視する声も出るようになった。もっとも団塊世代が趣味の中心だったSLブームと違って、ブルートレインブームは趣味人の中心が小学生・中学生であったためか、休日や休日前日の深夜の駅での撮影など風紀上の問題はあったが、マナーの問題はさほど出なかった。さらに1978年10月のダイヤ改正で国鉄の特急電車に絵入りヘッドマークが採用されると、そちらも人気を集め、多数の特急が発着する上野駅のホームでは休日となると、撮影に訪れたたくさんの少年ファンで賑うようになった。
1978年に宮脇俊三が国鉄全線完乗を達成し、その過程を綴った『時刻表2万キロ』を発表した。さらに国鉄が「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーンを実施したことや、宮脇のほかに種村直樹の執筆活動もあって、鉄道旅行が鉄道趣味の一分野として定着してきた。鉄道事業者も1984年頃から車両基地の公開や貨物線走行のイベント列車など、鉄道ファンをターゲットにした企画を催すようになる。
また当時は国鉄分割民営化という、当時としては世界にも類を見ない巨大事業が進められていたことや、川島令三などの執筆活動の影響により、独自の理論を構築する鉄道ファンも増加した。
鉄道に関する書籍も様々な視野からのものが発行されるようになったことや、情報技術(IT)が普及し、パソコン通信(ニフティサーブの鉄道フォーラムなど)やネットニュースのfj.rec.railなどによって情報発信・閲覧が容易になったことなどから、次々と新しいタイプの趣味が生まれ、鉄道趣味の多様化が進んだ。1995年頃からWindows 95の発売などもあって個人で鉄道趣味に関するウェブサイトや電子掲示板を開設する愛好者も増加していった。
この時代の特徴として、新幹線が鉄道趣味としてメジャーになったことがあげられる。これは新規路線の開業が相次いだこと、国鉄からJRへの分割民営化により各社が用途に応じた新型車両や改造車を次々に開発・導入したことにより車両のバリエーションが一気に豊かになったことが理由である。
インターネットのさらなる普及や、ブロードバンド化の促進、レンタルサーバーサービスの普及により、1990年代後半以降に見られた趣味者による個人ホームページ・電子掲示板の開設がますます進んだ。規模を拡大化した鉄道趣味専門のポータルサイトを運営する者も増加する。
2000年代前半は、回線速度が遅く、またウェブサイト開設にも多くの知識が必要であったが、文字主体で多くの情報を網羅したウェブサイトが次々と立ち上げられた。この時期はWeb1.0と呼ばれる片方向発信かつ静的なWebサイトが多かったが、電子掲示板を通じて盛んな交流が行われた。
2000年代中盤には回線速度の向上にともない、録画した鉄道映像や録音した鉄道音声、発車メロディの公開などが徐々に始まる。また、CMSやYahoo!ブログなど各種ブログサービスの普及により、手軽なブログサービスを利用する人が増加する。
2000年代後半、YouTubeやニコニコ動画などの動画投稿サイトが台頭し、撮影動画や鉄道解説動画の投稿がブームとなる。
2007年には、ドラマ『特急田中3号』、アニメ『鉄子の旅』、鉄道趣味を取り上げたテレビ番組が放送された。また団塊の世代の定年退職後の取り込みも期待された。
この時期、映像や音声のデジタル化技術における進歩の恩恵を受け、デジタルカメラ・デジタル一眼レフカメラ・ミラーレス一眼カメラの普及や、携帯電話・スマートフォンのカメラの高画質化を追い風に、鉄道写真をデジタル記録する層は飛躍的に増加した。1990年代ではフィルム一眼レフの完全な代替まではいかなかったが、この時代になると画質面においてフィルムを凌駕するようになった。また、映像撮影も手軽になり、デジタル高画質ビデオカメラが安価になっていった。
Twitterを中心としたSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の普及により、ファン同士での画像を交えた情報が即時に交換・共有できる環境が整い、より早く鉄道情報が入手・拡散できるようになった一方で、特定の列車(特に機関車牽引の寝台列車や国鉄型車両)の写真撮影や引退による「さよなら運転」時にファンが大量に集まるなどで、危険行為が大幅に露呈・顕著化するようになったのもこの頃からである。
また、特に人気のある103系、113系、485系、24系等の「国鉄型車両」、寝台特急、夜行急行・快速等の「寝台夜行列車」などの引退・廃止が2015年前後に相次いで発生したことにより、これらのファンの活動も目立った。
2020年代初頭の新型コロナウイルス感染症は鉄道趣味界にも大きな影響を及ぼした。感染防止と鉄道事業者の収益悪化に伴い鉄道事業者が主催するイベントやセレモニーが軒並み中止となり、感染が減り始めた2021年より徐々にイベントを開催するようになるものの、三密防止と鉄道ファンの迷惑行為を避ける意味から、イベント自体の有料化や人数を絞った上で高額な参加料を伴うイベントが目立つようになった[9]。
また、デジタル化の進行で紙媒体の鉄道雑誌の売り上げが落ち「レイルマガジン」が2022年3月号限りで定期刊行を終了することとなった。
JR・私鉄・3セク各社での新型車両導入による国鉄型車両の引退や廃車もより加速しており、運行頻度の少ない臨時列車用の車両や地方交通線に残存していた国鉄型車両も徐々に淘汰が進んでいることでファンからの注目度が増していることから、各地で事業者によるファン向けのイベントや撮影会などが多く開催されている。
鉄道ファンにとって時刻表とは、単に時刻を調べるための道具にとどまらず、様々な使用法がなされる。主なものは以下のとおり。
旅行の際、大判の時刻表を持っていくのはかさばるからと携帯版の時刻表を持っていく、あるいは電子版や乗換案内アプリを利用するケースが増えているが、それでも大型時刻表を持っていく者も存在する。その理由として、複雑な旅行計画を組む鉄道ファンにとって、旅行中に万が一ダイヤが乱れた際行程を立て直すためにはどうしても情報量の多い大型時刻表が要ること、また、列車の中や待ち合わせ時間などの暇な際に情報量の多い大型時刻表を見るなどして時間つぶしをすることなどが挙げられる[注釈 8]。人によっては、大判時刻表の必要な部分だけをちぎったり、コピーする者もいる。
大型時刻表の発行元は現在では交通新聞社とJTBパブリッシングの2社に集約されたため、好みが大きく別れる。前者による『JR時刻表』は1963年5月に創刊され、JR化以後の公式時刻表であることや、優等列車が赤色表示の2色刷りなので分かりやすいこと、入線時刻や発車番線などの情報量が多いこと。後者による『JTB時刻表』は1925年4月に創刊され、国鉄時代の公式時刻表『国鉄監修 交通公社の時刻表』としての長い歴史があり、ページ割りも国鉄時代とほとんど同じであること、大都市近辺詳細図のページが会社別色別で見やすいこと、「グッたいむ」といった読者投稿のコラムが載っていることなどを、それぞれ利点として挙げている。
紀行作家の宮脇俊三は自著『時刻表2万キロ』において、自分の国鉄全線完乗を『「列車に乗る」のではなく「時刻表に乗る」』と評している。
2021年の『日本経済新聞』によると、鉄道貨物協会発行の『貨物時刻表』が交通・物流関係者だけでなく、貨物列車の撮影などを目的に鉄道ファンによる購入が増えている[10]。
鉄道趣味、特に鉄道写真においてはカメラは欠かすことのできない道具である。望遠から広角まで様々な種類のレンズが必要になるため、一眼レフが好んで用いられる。特に一本限りの臨時列車など、一発勝負でミスできない撮影のために、プロ並みに複数のカメラを同時に準備する例もある。通勤中などに不意に変わった車両や変わった運用を目撃したときのため、小型軽量で携行の容易なコンパクトカメラを欠かさず携帯する鉄道ファンもいる。ただしカメラ付き携帯電話やタブレットコンピュータの普及で、これで代用するケースも増えており、近年ではスマートフォンのカメラ高性能化もあり、スマホで本格的な写真撮影を行う人も存在する。
そのほかに脚立と三脚も使うと便利である場合があり、有名な撮影ポイントやプラットホームの先端部分では三脚を立てたファンが集い、熾烈な場所取り合戦を展開することもある。ただし、混雑したり幅が狭いプラットホームにおいて三脚を立てるのはマナーの悪い行為とされ、持ち込み禁止の駅も存在する。このため、鉄道事業者側でも駅での三脚・脚立の使用自粛を求める動きが強まっている。駅でなくても、線路沿いの交通量の多い道路などで脚立を使うのは、迷惑行為であると同時に危険行為でもある。
鉄道写真を趣味とするファンはカメラメーカーのよい「お得意様」である。そのため、カメラメーカーが鉄道ファンを支援することもある。例えば富士写真フイルムは、「いい旅チャレンジ2万キロ」を後援していた時期もあり、キヤノンは、1977年から雑誌『鉄道ファン』でのコンテストを協賛している。鉄道趣味誌にカメラメーカーが広告を掲載することは現在でも多い。
鉄道ファン向けの雑誌も多数刊行されている。日本国外でも鉄道雑誌は発行されている。国によっては数多くの雑誌が発行されており、また、「都市鉄道」「路面電車」「庭園鉄道」など、特定の分野に特化した雑誌が多いことが日本国外誌の特徴である。
鉄道趣味に関する活動の中で、法律やマナーをわきまえず迷惑行為を繰り返す者もいる。
車内や駅構内で無謀な撮影・収録を試みるなどの他の利用者に迷惑となる行為や、それに伴う駅員・警備員との対立のほか、鉄道会社の所有物を盗むという犯罪行為すら発生している。これら悪質なファンの行動を原因とする一般の乗客や鉄道沿線の近隣住民とのトラブルも少なくない。また、一部の鉄道会社ではこれらの迷惑行為を考慮して、ファンサービスの企画(動態保存車両の特別運転や車両基地の一般公開など)を縮小、もしくは一切行わない方針とする傾向も見られる。
日本でこのような迷惑行為が増加したのは、1970年代の蒸気機関車全廃に伴う「SLブーム」でファンが著しく広がり、それに続く「ブルートレインブーム」で当時の若年層がより流入したことが原因であると考えられている。この時代、列車撮影が盛んになるとともに、撮影名所での場所取り、不法侵入や危険な区域への立ち入り、窃盗、破壊行為、列車妨害等々の無法行為や、過熱した鉄道ファンが沿線で夜行列車撮影のために深夜徘徊することが問題になった[注釈 9]。
鉄道ファンは自動車ファンなどと異なり、趣味対象を直接所有することは極めて難しい。鉄道関係のイベントで解体された車両の備品などを販売している事例はあるが、車両そのものの譲渡や寄贈を受ける(斎藤茂太など)場合には相応の資金力やコネクションが要求される[注釈 10]。そうした背景もあってか、保存車両や鉄道敷地内の備品が盗難されることもある[注釈 11]。イベント列車などの運転、廃車回送、路線の開業あるいは廃止などでファンが集まる際、上記の如くマナーに欠ける者の迷惑行為により、鉄道ファンに対する世間の評価を低下させているのが現状である。
以下は迷惑行為の例である。
野村総合研究所オタク市場予測チーム による『オタク市場の研究』(2005年、東洋経済新報社)によると、鉄道ファンは約3 - 5万人、市場規模は40億円と推定された。趣味の分野によってつぎ込む金額は異なるが、模型、コレクションの分野では支出額が大きくなると分析されていた。
2005年時点では、同研究所の報告では、鉄道趣味は「販売数・利用者数の減少による商品供給の鈍化」「新規利用者が減少」により、「安定・衰退期」にある趣味と分析しており、市場規模は今後は縮小、良くて横這いになると分析していた[27]。
しかし2010年代には「鉄道ファン500万人、市場規模1000億円」[28]という報道もあるなど市場の拡大が進んだ。
欧米では保存鉄道や保存車両の運営、維持にボランティア活動や資金カンパなどを行っている鉄道ファンが存在する。保存鉄道は、イギリスやフランスなどで特に盛んである。アメリカでは廃車になった車両を修繕し展示や運転を行うグループが存在する。また、国や地域によって、ファンの活動にも温度差があり、下記の旧共産圏に含まれる東欧方面では、法律によって鉄道施設の撮影などが制限されている国もある。
冷戦時代、東側共産圏や西側開発独裁国においては、鉄道およびその関連施設の多くが軍事施設の扱いとされることから、「国家防衛上の理由」により鉄道趣味への制約[注釈 12]が存在した国も多々見られ、鉄道撮影に対する制約が強かった。現在も一部その名残が見られる。
欧米にも「鉄道オタク」「鉄道マニア」を意味する言葉が存在する。英語圏では、一般的にRailfanが鉄道ファンを指す言葉であるが、「マニア」を意味するGeek、Nerd、アメリカで用いられるFoamer、イギリスで用いられるTrainspotter、Anorak、Crank、Grizzer、Gricer、オーストラリアで用いられるGunzelなどスラング的な言葉も存在する。これらの中には侮蔑的な意味を含む言葉が幾つも存在し、いずれも鉄道に対して過度に熱中し、見境なく暴走、はては迷惑行為を行い、社会的適応力に欠けてしまっている鉄道ファンを揶揄する言葉である(日本でいう「迷惑鉄」ないしは「でんちゃっちゃオタク」「屑鉄」などに相当)。
また、ミャンマー国鉄、タイ国鉄、インドネシア(KRLジャボタベック)、フィリピン国鉄では日本の事業者より譲渡された鉄道車両が運用されているため、日本国内では既に引退した車両を乗車・撮影する目的でそれらの国へ渡航する日本の鉄道ファンも存在する。
清統治時代の1891年(光緒17年)、初代台湾巡撫劉銘伝の任期中に清朝台湾鉄路の基隆駅 - 大稲埕駅(初代台北駅)間が開業後、日本統治時代の路線網拡充を経て大衆交通手段として定着した。
その後、中山高速公路の全通(1978年)を機にモータリゼーションの発達とともに台湾鉄路管理局(台鉄)や台湾糖業鉄道は廃線が相次いだが、台湾高速鉄道や各都市の捷運の開業とともに台鉄も競争力向上を目指して、次世代車の導入や観光列車の運行、日本国鉄の「愛国駅と幸福駅」から影響を受けたとされる縁起もの切符(永康駅と保安駅の「永保安康」が最も有名。永から時計回りに4文字を読むと「安らかな生活と健康な体を永遠に保つ」という縁起のよい文になる)の発売(詳細は「zh:吉祥語車票」を参照)、リバイバル列車の運行など、単に移動手段としての鉄道ではなく趣味分野を含めて付加価値を意識した事例が増えてきている。
既述のとおり1987年までは戒厳令により、撮影や出版には制限が多かった。1988年6月9日(鐵路節:台湾における鉄道の日)には国立交通大学でサークル「交大鉄道研究会」が発足。翌年には、交通大学鉄研会報として『鐵道情報』(後に定期雑誌化)が創刊された。1990年には国立台湾大学でも洪致文がサークル「臺大鐵道暨火車研習社」を設立、1992年には民間書籍としては台湾で初の鉄道趣味書籍「台湾鉄道伝奇(台灣鐵道傳奇)」を刊行した。こうした一連の動きにより民間人若年層における鉄道趣味が一般化する契機となった。台湾大学と交通大学を中心とした学生、卒業生たちが1995年に中華民国鉄道文化協会を発足させ、変革を迎えつつあった台湾鉄道業界で記録、保存、出版を行うことで趣味の枠組みを超えた鉄道文化の保存、継承のための活動が社会的意義を帯びることになった。鉄道趣味の勃興期とインターネットの普及時期が重なったことで、鉄道ファン界で重鎮とされる人物の年齢層も現在の日本より若年であり、それらの多くが公式個人サイトや公式ブログを開設している。台湾鉄道網(TRC、現在はサービス終了)に代表されるファンフォーラム、PTT(批踢踢)やKomicaなどの大手電子掲示板でも鉄道専用のスペースがあるなど、人口に比してオンライン活動は活発であり、近年はSNS、特にFacebookに比重が移行している。
鉄道模型も当初は富裕層を中心に日米欧の輸入製品を嗜む高嶺の花であったが、2003年に創業した鐵支路模型により近年は国内列車型式の製品化、量産化が相次いでいる。
地理的・歴史的経緯から、国外だけでなく台湾国内の鉄道分野の中でも日本の比重は高い。また哈日族に代表されるオタク文化(御宅族文化)の影響で、鉄道ファンは通常「鐵路迷(英語はRail fan)」と呼ばれるが、近年はファンのジャンルが多様化しているため、代表的鉄道研究家の1人で学者の蘇昭旭は「"關懷鐵道的人士" (英語:Rail devotee)」(それぞれ「鉄道を気遣う人」、「鉄道熱愛者」を意味)という呼称を提唱している[47]。
日本からのサブカルチャーの消化も早く、高捷少女や台湾鉄道少女に代表される鉄道擬人化などで独自の進化を遂げている。また井上雄彦の漫画作品SLAM DUNKの影響で、台東県南廻線太麻里駅付近の太麻里踏切周辺の光景が作中に出てくる鎌倉高校前1号踏切のものに似ていると話題になり、鉄道ファン以外も来訪する聖地巡礼スポットと化している[48]。
一方で、日本における迷惑行為も伝播しており、撮影時の線路内立ち入りや私有地立ち入りが問題化している[49][50]。
かつてオーストリア帝国の中のチェコ王領、モラヴァ辺境伯領、上・下スレスコ公領であったチェコでは、19世紀以降全土に鉄道網が張り巡らされ、20世紀初めには現在につながる主要路線がほぼ開通していた。19世紀には既に鉄道趣味が見られ、19世紀後半に活躍した作曲家アントニン・ドヴォルザークも熱心な鉄道ファンであったといわれている。