鉄道員(ぽっぽや) | ||
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著者 | 浅田次郎 | |
発行日 | 1997年4月28日 | |
発行元 | 集英社 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 上製本 | |
ページ数 | 288 | |
コード | ISBN 978-4-08-774262-6 | |
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『鉄道員』(ぽっぽや)は、浅田次郎の短編小説。『小説すばる』平成7年(1995年)11月号に掲載され、後に同名の短編集にまとめられ、1997年4月に集英社から刊行された。
廃線寸前の鉄道の駅を実直に守る駅長。幼い娘、妻を亡くした孤独な彼の前に起こった優しい奇跡の物語。
本項では映画版やドラマ版、漫画版についても記述する。
廃線を間近にした、北海道の元運炭路線であるローカル線の駅長に訪れる幸福を描いた作品。第16回日本冒険小説協会大賞特別賞。短編集は第117回直木賞受賞作で、140万部を売り上げるベストセラーとなった。
また、1999年に降旗康男監督、高倉健主演により映画化され、第23回日本アカデミー賞(2000年3月)の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞など主要部門をほぼ独占した。
浅田次郎は、「散歩しているときに、あの(鉄道員の)ストーリー全部が一瞬にして頭の中に降って来た」と語っている。
主人公の佐藤乙松(さとうおとまつ)は、道央(十勝・空知と推測されるが、あくまで架空)にある廃止寸前のローカル線「幌舞線(ほろまいせん)」の終着駅・幌舞駅の駅長である。鉄道員一筋に生きてきた彼も定年退職の年を迎え、また同時に彼が働く幌舞駅も路線とともに廃止の時を迎えようとしていた。彼は生まれたばかりの一人娘を病気で失い、また妻にも先立たれ、孤独な生活を送っていた。
雪の正月、彼のもとに真っ赤なランドセルをしょった少女が現れ、人形を忘れて帰る。それは、彼に訪れた奇蹟の始まりだった。
鉄道員(ぽっぽや) | |
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監督 | 降旗康男 |
脚本 |
岩間芳樹 降旗康男 |
原作 | 浅田次郎 |
製作 | 「鉄道員」製作委員会 |
出演者 |
高倉健 大竹しのぶ 広末涼子 吉岡秀隆 安藤政信 志村けん 奈良岡朋子 田中好子 小林稔侍 |
音楽 | 国吉良一 |
主題歌 | 坂本美雨「鉄道員」 |
撮影 | 木村大作 |
編集 | 西東清明 |
製作会社 | 東映東京撮影所 |
配給 | 東映 |
公開 | 1999年6月5日 |
上映時間 | 112分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
製作費 | 6億円[3][4] |
配給収入 | 20億5000万円[5] |
平成11年(1999年)6月5日公開。高倉健が『動乱』以来19年ぶりに東映映画に出演した作品である[6][7]。90年代を象徴するアイドルとして人気絶頂期だった広末涼子との共演や[6]、映画への出演が初めてであった志村けんの起用[6]、高倉とは初共演となる大竹しのぶ[6]、坂本龍一による主題歌なども話題を集めた[6]。
公開時期に放送されていた北海道の駅を舞台とした連続テレビ小説『すずらん』と併せて、JR北海道・JR東日本によるオレンジカードなどの販売、両作の撮影協力を発端にSLすずらん号運転開始という形で北海道で蒸気機関車が復活するといったタイアップも実現した。
映画版は原作のイメージを損なうことなく[6]、より幻想的に創りあげた[6]。本編上の時間軸は、幌舞線の廃止と乙松が退職を迎える寸前の現代の歳末から正月明けにかけてで、加えて乙松が回想する形式で、かつて炭坑の町だった幌舞に暮らしてきた人々にもスポットを当てている。
志村けんは2020年12月公開予定の映画『キネマの神様』に主演予定だったが[注 1]、クランクインを待たずに急逝した為、ドリフの映画やアニメ映画の吹き替え等を除くと本作が生涯唯一の実写映画出演作となった。
キャッチコピーは「男が守り抜いたのは、小さな駅と、娘への想い。」「1人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、男は駅に立ち続けた…」[6]。
「鉄道員(TETSUDOIN)」 | ||||
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坂本美雨 の シングル | ||||
リリース | ||||
規格 | 8cmシングルCD | |||
ジャンル | J-POP | |||
レーベル | FOR LIFE RECORDS/güt | |||
プロデュース | 坂本龍一 | |||
チャート最高順位 | ||||
坂本美雨 シングル 年表 | ||||
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東映配給の映画『鉄道員』(ぽっぽや) 主題歌。”坂本龍一 featuring Sister M” 名義でリリースされた「The Other Side of Love」に続いてリリースされた作品で、坂本美雨名義としては初のシングルとなる。作曲・編曲は坂本龍一。作詞は奥田民生が担当している。
全作詞: 奥田民生、全作曲・編曲: 坂本龍一。 | ||
# | タイトル | |
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1. | 「鉄道員」 | |
2. | 「鉄道員」(Chamber mix) | |
3. | 「鉄道員」(Instrument) |
原作の直木賞受賞により、映像化の動きに火が付き[10]、映画化には15社が手を挙げ[11]、獲得競争が激しかった[11]。特に松竹も映画化を決定していたといわれる[4]。高倉健と長く苦楽を共にした東映東京撮影所(以下、東映東京)の撮影技師が定年を迎え、「どうしてももう一度健さんと仕事をしたい」と訴え[11][12]、それは東映東京の多くのスタッフにとっても総意であり[11][12][13]、坂上順東映東京所長に申し出て1997年春企画が動き出した[10][14][15]。岡田裕介は企画を出したのは、撮影技師ではなく、東映東京の企画営業スタッフ次長・石川通生で[10]、石川が東映東京の映像開発室プロデューサー・山本八洲男の協力を得て企画書を提出した、企画の提出は通常業務で、健さんの東映復帰を要請するアプローチは社内に何人かからあったようだ、と述べている[10]。
坂上所長も59歳になり、自身も定年が近いことから、日本映画逆風の中、撮影所での映画作りを復活させたいと考え、これが最後の仕事という意気込みで製作に挑んだ[11][16]。1997年夏頃の企画会議では乙松役は高倉しかいないという意見が大勢ではあったが[10][17]、乙松/仙次コンビは『蒲田行進曲』の風間杜夫・平田満コンビを推す意見もあった[10]。1997年秋過ぎに監督・降旗康男、脚本・岩間芳樹が決まったことから[17]、高倉の出演が映画化の絶対条件という流れになり[17]、浅田次郎も映画になるなら主人公は高倉に演じて欲しかったとされたため[17]、高倉さえ承諾してくれれば、すんなり東映で映画化出来る状況にはあった[17]。オフィシャルな形での出演交渉はシナリオ脱稿後でないと出来ず[10]、岩間シナリオは9ヵ月改稿を重ね、1998年8月に完成[10]。しかし高倉はしょぼくれた駅員役に出演を渋ったといわれる[18][19][20]。すんなりはいかなかったが、東映東京のスタッフたちの熱い思いから、1998年9月、降旗邸で降旗、坂上、高倉が顔を合わせ、高倉が正式に出演を承諾した[10][14][18][20]。高倉が出演を承諾してくれたことで、監督・降旗、脚本・岩間、撮影・木村大作と仕事人を集結させ、浅田に企画書を提出し[19]、浅田から映画化権を獲得した[11][19]。邦画メジャー三社は1990年代に入ると自社主導で製作する映画をめっきり減らし、メガヒットの製作母体は邦画メジャーの手を離れていた[4][21][22]。このため、映画化を画策しなかった東宝が、東映の自社製作の大作の動向に強い関心を持った[4]。本作にも出演する広末涼子は東宝製作の『秘密』に早くから出演が決まっていたが、東映の製作の根を刈ってはならないと配慮し、また東映の動向が東宝自体にも跳ね返ってくるという計算があり、広末のキャスト発表を遅らせた[4]。松竹も同じように狙っていた本作の映画化権を東映に取られたため[23]、本作と同じ短編集に収録されていた『ラブ・レター』を『鉄道員』より先に映画化してやれ、と慌てて『ラブ・レター』を製作している[23]。
降旗監督は「最初、東映とは別の会社から、原作権を取る段階で名前を貸してくれって電話をもらい、その後、東映が原作権を取って正式に話が来たんです。でも原作は短編ですし、映画化するには長さが足りるかとか、今時このような駅はどこにあるんだろうとか、全部セットを作ると大変な金がかかるなあとか考え、前途多難だなと思い、東映に『覚悟なさってるんですか』と聞いたら、『当然です』と言われたから「じゃあやりましょう」と返事した」と述べている[19]。
岡田茂東映会長は「降旗君が来てどうしてもやらせてくれ、成功すると言うので、高倉君は彼とは盟友だから、高倉君はノッってるのかと聞いたら、僕が口説きますというので製作させた」と述べている[24]。
高倉は「『鉄道員』の話をお受けすることになったのは、坂上君が動いたからです。動機ははっきり言って、それだけでしたね。それとまだぼくがやると決めていないころ、木村大作が駅を探して北海道中を車で駆けまわっていたこともあとで聞いたんです。それを記事で知ったんです。決して本人は言いませんから。えー、そんなことがあったのかと。それがボディに効いてくるんですよね」などと述べている[25]。
坂上は高倉主演・降旗監督のコンビには既に打診し[16]、承諾はまだもらっていない段階の1997年夏[16]、脚本の岩間芳樹に執筆を依頼[16]。岩間の北海道を舞台にした作品や定年を書いた幾つかのテレビドラマを観て、本作にマッチするものと判断しての依頼で岩間は快諾した[16]。岩間は東北の出身で若い頃から北海道を舞台にした作品を多数書いていた[16]。この際坂上から主人公に日本の戦後史を重ねたいと依頼があった[16]。岩間は主演が高倉とまだ聞いていなかったが、脚本段階で高倉をイメージしてホンを書いた[16]。降旗監督との最初の打ち合わせで、原作の短編を拡げる作業として岩間が戦後の北海道史にまで拡げたいと提案し[19]、降旗が日本の戦後史でもいいんじゃないかと返答した[19]。ところが岩間が書いた第一稿には、ある鉄道員の一代記のような面が強く感じられたため、降旗はこれでは回想シーンがこんがらがって困るので、二人の鉄道マンの2、3日の話にした方がいいと提案したため、全編回想シーンの連続のような構成になった[19]。シナリオ執筆は1997年11月から3ヶ月かけ、第一稿を書いたが[10]、高倉の出演がこのシナリオにかかっていることから、この後降旗と第6稿まで改稿を重ね1998年8月に完成[10]。高倉は第6稿まで全てに目を通した[10]。
最初は協賛出資者は、東映とテレビ朝日、高倉プロモーションの3社だったが[17]、そこへ朝日新聞が飛び込み、東北新社、住友商事、FM東京、日販、集英社も出資するとなり、結局9社の出資になった[17]。出資額はテレビ朝日・住友商事(各7,000万円)、集英社(5,000万円)、日販(3,000万円)、朝日新聞・高倉プロ・FM東京・東北新社(各2,000万円)[10]。東映が残り半分の3億円を出資した[10]。総製作費5億5,000万円[10]。宣伝展開を含むと実質15億円規模の物量投入[10]。高岩淡東映社長は「直接製作費が5億円で間接費は東映が出します。なぜ出資してもらうかというと、出資者はみんな必死になって宣伝してくれるからです。前売り券を各社に負担してもらいますが、東映社内だけでこれまで最多の70万枚を受け持っています。岡田会長からは目標30億と号令を掛けられています」等と述べている[17]。大高宏雄は「直接製作費6億円を東映一社で全額出資は出来ず、製作委員会という形はとってはいないが、製作委員として名を連ねる企業が各2000万~7000万を出資した。特に朝日新聞社とテレビ朝日、新聞やテレビで全面的にバックアップし大きな援護射撃となった」等と述べている[4]。
1998年10月末、「高倉健主演で『鉄道員(ぽっぽや)』が映画化」とマスメディアが一斉に報じた[10]。1998年12月18日に東京帝国ホテルで製作発表会見があり[25]、高岩淡東映社長、浅田次郎、降旗康男監督、高倉健、大竹しのぶ、小林稔侍、広末涼子らが出席[10][15][14]。高倉は「すばらしい原作、すばらしいスタッフ、キャスト、故郷の東映東京撮影所……。先日、20年ぶりに衣装合わせに行って感慨無量になったのですが………。えーすいません……一生懸命…燃焼しようと思っています」と途中で言葉を詰まらせながら話した[14][15][25]。途切れ途切れの高倉の言葉に会場いっぱいに詰めかけた報道陣・関係者は、高倉の言葉の行間の思いを馳せながら次の言葉を待った[14]。高倉は本作まで201本の映画に出演し、うち138本が東映作品[15]。1980年の『動乱』以来の東映出演となった[15]。高岩東映社長は「命を賭けてこの映画をヒットさせる」、降旗監督は「イメージキャストがそのまま実現できました。私も健さんも主人公の佐藤乙松と同じ世代。人生の黄昏どきに差し掛かった世代です。それだけに人生にけじめを付ける…。自然と胸に湧き上がって来ます」、小林稔侍は「僕も東映育ちなものですから、当時、東映では色んなスターさんの派閥がありまして、僕は高倉一家に所属していましたから、いつも高倉さんの前では青春の、青年の気持ちでいるわけです。高倉さんに長年お世話になってきた。その思いだけで、この役に邁進したいと思っています」、大竹しのぶは「高倉さんと夫婦役で共演できるなんて夢のよう」、広末涼子は「この作品に出会えたことをすごく感謝しています」などと話した[10][14][15][17]。高倉は映画も5年ぶりで、最後に「映画俳優というのは映画を撮っていなければ、何を言っても虚しいんだなと感じた。持っているエネルギーを映像に燃焼したい」と話した[15]。夫婦の回想場面で使われる「テネシーワルツ」は高倉からの提案[4]。正式に採用が決まると高倉は「ええっ、困っちゃったなあ、言わなきゃよかった」と言ったが、押し切った[4]。
木村は『おもちゃ』の撮影が盆休みの間[18]、1998年夏に北海道をロケハン[18][26]。高倉はまだ出演を迷っていた頃だったが[26]、高倉の返事を待ってからでは手遅れになると判断し[26]、イメージに合う駅を探し歩いた[18][26]。『駅 STATION』で使った上砂川駅など、いい駅はあっても廃線で線路がなく、行ってみたら工事中だったり、駅舎からホームから線路から全部のセットを作ると製作費が莫大になってしまうため、もう企画は潰れるのではないかと諦めかけたとき、根室本線幾寅駅を見つけた[18][26]。これが1998年8月[26]。当地は背後にスキー場が迫り、周りの建物も多く、カメラを向けられる方向は限定されるが[27]、雪に覆われた墓地の情感などがよく当地に決めたという[27]。
話にアルファリゾート・トマムが絡んでいるのは、幾寅には国民宿舎などはあるが、高倉を長期に泊めさせられないと、高倉をアルファリゾート・トマムに宿泊させて製作に入れたら、「タダにしてもらえないか」と交渉したら、「半額にします」と言われたため[18]。
撮影に使用されたキハ40形は、北海道苗穂工場で、画面でのイメージに合わせ塗装を施した[28]。乙松が駅長を務める「幌舞駅」は、根室本線幾寅駅を改造して撮影された[14]。駅前の床屋とだるま食堂などを建設し[18]、駅の周りのコンクリートの電柱を全部木製に変え[28]、模擬の腕木式信号機や車止めを設置するなどの細工が施されていた[28]。オープンセットの製作費は1億円[29]。1999年1月11日、当地でクランクイン[10][14][19]。文献により滝川駅で1月15日にクランクイン、幾寅駅の撮影はその後と書かれた文献もある[29]。当日はマイナス20度[14]。日中は10分から20分おきに列車が入るため[18]、お昼12時から2時までの最も運転間隔の長い2時間に全てをかける撮影で、他の時間はリハーサル[18]。また当駅は終着駅ではなく、根室本線の途中駅であるため、列車が駅を出たら線路わきにスタンバイする20人以上のスタッフが一気に線路に雪を積み上げ、撮影用の車止めを設置し、終着駅のように見せた[18]。幾寅ロケが行われたのは1999年1月30日まで[29]。
本線と幌舞線が分岐するターミナル駅として登場する美寄駅は滝川駅で撮影された。滝川駅での撮影は1999年1月15日から[29]。15日夜に佐藤乙松(高倉)が生まれた子供のために人形を買うシーンの撮影があり、滝川市の繁華街にあるお茶屋をおもちゃ屋に改装して撮影が行われた[29]。周囲は高倉を一目見ようともの凄い数の人が集まった[29]。この撮影で泊懋東映アニメーション社長が現場に訪れ、「43年前の初仕事が高倉さんの映画でカチンコを打った、また打たせて欲しい」と助監督からカチンコを受け取り、緊張した面持ちでカチンコを打った[29]。また晴れ舞台の如く地元のツッパリがどんどん現場に参集し[29]、スタッフが前面道路の通行止めをしていたが、ツッパリグループの兄貴分と称する特攻服を着た仲間が車で駆け付け、止まらずスタッフを轢いて救急車で運ばれた[29]。この不手際で撮影終了後、助監督の一人が店の前で木村大作に凄い剣幕で「オマエ、明日、東京に帰れ!」などと怒鳴り散らされ、残っていたギャラリーもビックリしていたが、翌日も現場に現れ、後に人気監督になった[29]。
佐々部清は東映の社員ではないが、フジテレビの『北の国から』の現場に長く就いていたという理由で本作にチーフ助監督として参加したが、雪の中に体を半分埋められる撮影の吹き替えをさせられた[29]。体の下に段ボールを敷いたり、寒さ対策を行った上での撮影だったが、ロングや寄りの撮影等で1時間以上かかり、足跡も付けられないので途中様子を見に行くことも出来ない。時々「大丈夫か?」と大声で声をかけるだけで、次第に返事の声が小さくなり、しまいに応答しなくなった[29]。急いで救出に向かうが呼吸困難を起こし、震えが止まらず死亡する寸前だった[29]。
1日のみ赤平市でもロケがあった[29]。北海道での撮影は3週間だが、この間雪が降ったのは3日間だけ[19]。
1999年2月10日より東映東京でスタジオ撮影[10][14]。待合室や事務室、居間や寝室などを含んだ幌舞駅の駅舎セットを同所に建設[14]。東映東京で撮影を続け[14]、1999年3月20日、クランクアップ[14]。
高倉健の久しぶりの東映出演と、この時点では最後の東映映画出演になるかも知れなかったことから[29]、撮影中にロケ現場や撮影所に奈村協京都撮影所所長、沢木耕太郎、真田広之、檀ふみ、澤井信一郎、佐藤純彌ら、高倉や東映に縁のある人たちが大勢陣中見舞いに訪れた[29]。
CG処理等時間がかかるため、1999年4月いっぱいで完成予定[17]。
高倉は劇中で「3月で廃線にする」と聞かされた後、土足でバアッと走り回るとか、帽子を叩きつけるとかにしたいと頼んだが、監督に却下されたと話している[25]。「それまでやった200本のうちの100本以上は、最後は本性を出して、刺青出して、刀を振り回す役で、それが自分には慣れているから、今回の感情を表に出せない役は何か気持ち悪かった」とも述べている[25]。
大竹しのぶは高倉について「高・倉・健!っていう感じ。それしか言いようがない(笑)。男の人が憧れる気持ちも分かります。ふだん現場では、冗談ばかり言っているんですよ。お茶目で、かわいらしい人。でも画面に映るとピリッと変わって、存在の大きさをとても感じます」などと述べた[31]。
広末の出演シーンは東映東京でのラスト4日間のみで、北海道での撮影はなかったが[29]、自分が赤ちゃんだった時のシーンを見るため、幾寅駅を訪れて撮影を見学した[29]。
広末が北海道に来た1999年1月24日に南富良野町のロケ現場で記者会見が行われ、全国から100人以上の取材陣が集まった[10][29]。小林稔侍は「38年前に第10期東映ニューフェイスで東映に入社して、高倉さんにずっと面倒を見てもらった。(ポスターで大トリを務める)こんな日が来るとは思わなかった」などと話した[29]。
志村けんは「映画はザ・ドリフターズ時代には出たことはあるけど、一人で活動するようになってから、シリアスな映画に出るのは初めて。お笑いしかやらないと決めていたけど、大好きな高倉さんの指名と聞いて出演を引き受けた」と話した[29]。
志村演じる炭鉱夫・吉田の炭鉱事故のエピソードは原作にはなく、予算的にロケに行くのは無理だったため、木村のアイデアで東映東京の裏の駐車場に炭鉱のセットを作った[27]。縦坑のみ赤平で実景を撮り組み合わせた[27]。
デジタルとは無関係の内容の映画だが[32]、当時の日本映画としては画期的な本編の38%、42分に及ぶデジタル処理を行っている[32]。回想シーンは色を落としてモノクロに近く、袢纏などを範囲指定で赤を残す『シンドラーのリスト』で赤いコートを着た女の子に使った技術を用い[32]、電化区間で撮影したショットは架線を消去した[32]。
撮影から前売り券販売まで、JR北海道、JR東日本、朝日新聞社[33]、集英社などの一流企業の協力が得られた[33]。特に朝日新聞は公開に合わせて号外を出した[33]。首藤昇悟東映映画宣伝次長がJRの全面協力を取り付け[10]、JRグループ全7社と提携し、全国主要駅にポスターの駅貼りを実施[10]、一部の私鉄と自衛隊からも提携プロモートを得られた[10]。JR東日本ではみどりの窓口やびゅうプラザで前売りを販売した[34]。またテレビ朝日、FM東京では特番が放映され[10]、降旗監督の母校・松本深志高校での生徒との懇談会は1998年5月27日にNHK朝の情報番組『おはよう日本』で全国放送されるなど、多彩な宣伝プロモーションが行われた[10]。この方式は次の『金融腐蝕列島–呪縛』でも踏襲されたが[33]、これらの多くを指揮したのが1988年に東映入りした岡田裕介で[33]、入社時は製作を担当していたが[33]、岡田茂東映会長の決断で1999年4月付で、映画営業部門担当取締役(EP兼企画開発部長)に移動していた[10][33]。映画界は、製作事大主義で、営業が疎かになりがちのための判断であった[33]。岡田裕介はこの後、東映が遅れていたシネマコンプレックス事業を推進した[33]。北海道初のシネコン・札幌シネマフロンティアは、本作の製作過程での坂本眞一JR北海道社長から、岡田へ同所へのシネコン誘致要請が切っ掛けで生まれたもの[35]。
ブロックブッキングの拡大により[10]、全国東映系253館で公開され[34]、同時期に放送された同じ北海道のローカル線を舞台にしたNHKの朝ドラ『すずらん』との相乗効果もあり[10][32][36]、公開8週間で配収20億5,000万円[5][32]、興収では38億円の大ヒット[11][34]。8週間の後も一部の劇場で夜1回などのロングラン上映が行われた[34]。観客は40代から60代で全体の80%以上で[4]、1997年の『失楽園』よりも更に年配の客層だった[34]。当時シネコンはまだ黎明期であったが[34]、日本映画として初めて全国のシネコンで上映された[34]。シネコンはシニア層向きでないと分析されていたが、やや地方でその傾向は出た[34]。普段映画を観ない客層が映画館を訪れたため、パンフレットやポップコーンなどの売店の売上げが伸びない現象が起こった[34]。
ゴシップ誌『噂の眞相』での映画会社社員による覆面座談会形式の取材を基にするとした記事[37] では、本作のヒットにより、1997年の東映作品『北京原人 Who are you?』の損失をカバーできたという記述がある。
当時はテレビ局や出版社主導の映画製作が日本映画の中心になっていたため[22]、映画会社主導の作品が大ヒットしたのは久しぶりだった[22]。『映画時報』はヒットの勝因は、高倉健を古巣東映に呼び戻し、広末涼子の本格的映画初出演など、いろいろな要素が一つに結集した、これからの日本映画をどう作り、どう興行すべきかという一つの指標を示した、また東映がまだちゃんと映画を作る能力を持っていることを証明した等と評した[36]。大ヒットが確実になったのを見て[38]、長い低迷で苦虫を噛み潰していた岡田茂東映会長も「天の利や!」と溜飲を下げた[13][33][38]。この後、東映としても1999年は、本作や『金融腐蝕列島–呪縛』など、久しぶりにヒット作が続き[33]、2000年3月期の連結決算で、前期28億6,700万円の赤字から最終損益が7億3,100万円の黒字に転換した[33]。
麻生千晶は『産経新聞』1999年6月7日付で「高倉健は立ち姿も美しく孤高の人を演じているが、物語自体のどうしようもなく古めかしさに昭和30年代の映画かとみまがうほどだ。テレビドラマの方がまだまだましと言いたいほどの退屈作」などと貶した[4]。
公開半年後の1999年12月10日、東映ビデオよりレンタル開始[32]。112分2秒[32]。価格不明。
2014年10月10日、DVDが東映ビデオより発売[39]。114分。価格3080円。
2017年10月25日、Blu-rayが東映ビデオより発売[40]。112分。価格3850円。
映画版における幌舞駅の舞台となった幾寅駅は、2016年の台風被災により同駅を含む根室本線東鹿越駅 - 新得駅間が不通となった。その後も復旧されることなく、2024年3月31日をもって根室本線富良野駅 - 新得駅間は廃止され、幾寅駅も廃駅となった[41]。
2002年1月1日、テレビ朝日系列の新春スペシャルドラマとして「鉄道員/青春編」が放送された。内容は1964年、炭鉱が斜陽期に差し掛かっていた時代の幌舞を舞台としており、仙次と初代の結婚式に始まって、乙松が映画館窓口係を務めていた静枝と知り合い結ばれる所から、原作と同じ結末を迎えるまでを描いている。ドラマでは、原作のラストにあたる部分に独自の脚色も加えられた。
映画公開後に講談社『月刊アフタヌーン』1999年9月号にてながやす巧による長編コミカライズとして掲載され、同年に単行本化された。
「ながやす巧 作品集」巻末エッセイでのながやすの弁によれば、原作の単行本刊行時から取材・制作を行っていたものの、全ての原稿が完成してからの掲載となり、時期が映画化後になったとされている。このため、キャラクターデザインは映画版を踏襲しておらず、オリジナルのものである。シナリオは原作に忠実であるが、原作や映画版では端役だった現代の幌舞線の若手運転士である早川の役回りが多くなっている。漫画は原作本来のキハ12形をモデルとして描かれている。