文穆王 銭元瓘 | |
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呉越 | |
第2代王 | |
呉越国王銭氏祖像軸(浙江省博物館蔵)より | |
王朝 | 呉越 |
在位期間 |
宝正7年4月7日 - 天福6年8月24日 (932年5月15日 - 941年9月17日) |
都城 | 銭塘(杭州) |
姓・諱 | 銭伝瓘→銭元瓘 |
字 | 明宝 |
諡号 | 文穆王 |
廟号 | 世宗 |
生年 |
光啓3年11月12日[1][2] (887年11月30日) |
没年 |
天福6年8月24日[1] (941年9月17日) |
父 | 武粛王 |
母 | 昭懿夫人 |
后妃 | 恭穆夫人 他 |
銭 元瓘(せん げんかん)は、十国呉越の第2代王。もとの名は伝瓘。武粛王銭鏐の七男。
天復2年(902年)、唐により鎮海節度使に任命された銭鏐は杭州を攻撃して来た宣州刺史の田頵から人質の提供を求められた。他の兄弟がことごとく敵陣に向かうことを拒否する中、伝瓘のみが人質となることを志願した。後に帰還した伝瓘は、成人後に呉越の軍勢を率いて各地を転戦するなどの武功を上げた。これらの活躍により、銭元璲・銭元懿(銭元璹)・銭元璙らの諸兄に譲られる形で武粛王の後継者となった。
宝正7年(932年)、武粛王の薨去に伴い後を継いだが、王を名乗らなかった。この時に元瓘と改名している。長興4年(933年)には後唐の明宗により呉王に、清泰元年(934年)には呉越王に封じられている。天福2年(937年)、後唐に取って代わった後晋の高祖により呉越王に封じられている。
天福6年(941年)に火災による負傷が元で薨去、享年55。天福7年(942年)2月、龍山(現在の浙江省杭州市西湖区玉皇山)の南に埋葬された[3]。