長子領(ポーランド語:Dzielnica senioralna)またはクラクフ公国は、ボレスワフ3世の遺言状によって1138年に成立したポーランド国家を構成する5つの地域の中で最も上位に位置づけられた地域。ピャスト家の諸公が輪番で支配する地域となり、クラクフ公国を領する公がポーランドの最高権威者(大公)となった。
遺言状では年長者相続の原則が採用され、王家の最長老「長子」(首位の公、プリンケプス、大公などと呼ばれた)が諸公たちの最高権威者(Dux)であり、ポーランドの真ん中を南北に走るように広がり、クラクフを主都とする「長子領」(ヴィエルコポルスカ東部、マウォポルスカ、クヤヴィ西部、ウェンチツァ地方及びシェラツ地方からなる)の支配者だった(「長子領」は分割を禁じられていた)。また長子はポモジェを封土として、その宗主権をもつ特権をも与えられた。長子は国境を防衛し、他の諸公の領地から軍隊を招集し、外交を担当し、聖職者を監督し、貨幣を鋳造する権限をもつポーランド国家の主権者だった。
歴代の大公は多くの場合、ピャスト家の一員である自らの出身家系から相続した分領公国を所有しており、彼が死ぬと世襲の分領公国は彼自身の息子が相続したが、クラクフ公国は王家中で生存する中での最長老者に譲られた。「長子」、つまりクラクフ公の地位は、その地位にあるものに相当な権限と利益をもたらすものであり、その職にある人物は自らをポーランドの諸公たちより高い身分におこうとした。
しかし「長子」体制は、その最初の「長子」であったヴワディスワフ2世(亡命公)の治世には早くも崩壊した。彼は他地域への支配権をおよぼそうとして失敗し神聖ローマ帝国へ亡命、ポーランドの長い分裂時代を引き起こすことになった。
クラクフ公国は、王家の伝統的な拠点であるクラクフの南に長く広がる地域から、ポーランドにおける教会の中心部であるグニェズノを意味していた。公国は本来、分領となった4地域(マゾフシェ、サンドミェシュ、シロンスク、ヴィエルコポルスカ)が直に接することのないように設定されていたが、その多くが細かく分裂した結果、多くの公国が領域を接するようになった。
この一覧では称号のみを帯びていたものは数えず、クラクフを実際に統治していた者だけを数えている。