長谷川 好道 | |
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生誕 |
1850年10月1日 日本、周防国玖珂郡岩国 ( 長州藩岩国領) |
死没 | 1924年1月27日(73歳没) |
所属組織 |
精義隊 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1871年 - 1924年 |
最終階級 | 元帥陸軍大将 |
墓所 | 青山霊園 |
長谷川 好道(はせがわ よしみち、1850年10月1日(嘉永3年8月26日) - 1924年(大正13年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。韓国駐剳軍司令官、参謀総長、朝鮮総督を歴任。官位は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。
1850年(嘉永3年)10月1日、長州藩支藩岩国藩士・長谷川藤次郎の子として生まれる。剣術師範であった父について剣術を修める。戊辰戦争には精義隊小隊長として参戦する。
明治後は大阪兵学寮学生となり、1871年(明治4年)8月に陸軍少尉心得、同年12月には陸軍大尉・5番大隊長。1872年(明治5年)4月、陸軍少佐、翌年5月歩兵第1連隊長心得、同6月中佐として西南戦争に従軍する。戦後、広島鎮台歩兵第11連隊長、同鎮台参謀、大阪鎮台参謀長、中部監軍部参謀を経て陸軍大佐に昇進する。1885年(明治18年)フランス差遣を命ぜられ、翌年の1886年(明治19年)12月、陸軍少将・歩兵第12旅団長に昇進する。歩兵第12旅団長時代に、日清戦争に出征して旅順攻撃で戦功を立てる。
1895年(明治28年)、軍功により男爵を授爵して華族に列せられる。1896年(明治29年)6月、陸軍中将に進んで第3師団長、1898年(明治31年)には近衛師団長。日露戦争では鴨緑江会戦・遼陽会戦などに善戦した。1904年(明治37年)6月、陸軍大将に進級し、同年9月には韓国駐剳軍司令官に就任。
1906年(明治39年)4月、功一級金鵄勲章を受章し、翌年9月、子爵に陞爵。1908年(明治41年)の軍事参議官を経、1912年(明治45年)1月20日、参謀総長。1915年(大正4年)、元帥府に列せられる。
この間、伯爵に陞爵した長谷川は1916年(大正5年)10月16日、寺内正毅の後任として朝鮮総督に就任する[1]。総督在任中の朝鮮で起こった三・一独立運動に対し、軍を動員して鎮圧したことなどが武断政治として批判を浴び、土地調査事業を完了させたものの、わずか3年で斎藤実に交替する。
1924年(大正13年)1月28日薨去。墓所は東京都港区南青山・青山霊園(1ロ4-6乙7,8)。
軍職 | ||
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先代 桂太郎 |
第3師団長 第3代:1896年6月6日 - 1898年1月14日 |
次代 児玉源太郎 |
先代 奥保鞏 |
近衛師団長 第7代:1898年1月14日 - 1904年9月8日 |
次代 浅田信興 |
先代 原口兼済 |
韓国駐箚軍司令官 第2代:1904年9月8日 - 1908年12月21日 |
次代 大久保春野 |
先代 奥保鞏 |
参謀総長 第9代:1912年1月20日 - 1915年12月17日 |
次代 上原勇作 |
公職 | ||
先代 寺内正毅 |
朝鮮総督 第2代:1916年10月16日 - 1919年8月12日 |
次代 斎藤実 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
伯爵 長谷川(好道)家初代 1916年 - 1924年 |
次代 長谷川猪三郎 |
先代 陞爵 |
子爵 長谷川(好道)家初代 1907年 - 1916年 |
次代 陞爵 |
先代 叙爵 |
男爵 長谷川(好道)家初代 1895年 - 1907年 |
次代 陞爵 |