ながと ひろゆき 長門 裕之 | |||||||||||
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『映画情報』1960年3月号より | |||||||||||
本名 | 加藤 晃夫(かとう あきお) | ||||||||||
別名義 | 沢村 アキヲ | ||||||||||
生年月日 | 1934年1月10日 | ||||||||||
没年月日 | 2011年5月21日(77歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・京都府京都市中京区 | ||||||||||
死没地 | 日本・東京都文京区 | ||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台 | ||||||||||
活動期間 | 1940年 - 2011年 | ||||||||||
配偶者 | 南田洋子(1961年 - 2009年) | ||||||||||
著名な家族 |
祖父(竹芝傳蔵) 父(沢村国太郎) 母(マキノ智子) 弟(津川雅彦) 叔父(加東大介) 叔母(沢村貞子) 外祖父(牧野省三) 母方の外叔父(マキノ雅弘) 母方の外叔母(轟夕起子) 母方の外従弟(マキノ正幸) 義妹(朝丘雪路) 姪(真由子) 遠縁(宮川大輔) | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『赤い衝撃』 『おていちゃん』 『特捜最前線』 『池中玄太80キロ』シリーズ 『スチュワーデス物語』 『私鉄沿線97分署』 『スケバン刑事』シリーズ 『八百八町夢日記』シリーズ 『八代将軍吉宗』 『相棒』シリーズ 『どんど晴れ』 映画 『太陽の季節』 『にあんちゃん』 『豚と軍艦』 『秋津温泉』 『古都』 『拝啓天皇陛下様』 『日本侠客伝シリーズ』 『ハチ公物語』 『将軍家光の乱心 激突』 『寝ずの番』 バラエティー番組など 『ミュージックフェア』 | |||||||||||
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長門 裕之(ながと ひろゆき、1934年〈昭和9年〉1月10日 - 2011年〈平成23年〉5月21日)は、日本の俳優。昭和時代の日活映画の「青春スター」[1]。(今村昌平監督と組んだ)『にあんちゃん』で1959年(昭和34年)のブルーリボン男優主演賞受賞[1]。『豚と軍艦』『秋津温泉』などで主演[1]。テレビドラマなどでも活躍[1][注釈 1]。俳優の津川雅彦は実弟[1]。
歌舞伎俳優の沢村国太郎を父に、女優のマキノ智子を母に、本名 加藤 晃夫(かとう あきお)として、京都府京都市中京区で誕生。両親もそうだが、祖父は「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三、狂言作者の竹芝伝蔵、叔父に加東大介、叔母に沢村貞子がいるという演劇・映画などを本業とする芸能一家の一員として誕生。加藤家では6年後に弟の津川雅彦が誕生[注釈 2]。
映画初出演は、6歳ころの、1940年の『続清水港』。戦前(つまり太平洋戦争前)から子役として活躍し、当時は「名子役」として知られていた。
花園高等学校卒業し、立命館大学文学部へ進学。同大学を中退。学生時代は俳優を一時休業。
芸名のうち「裕之」は、同じ大学の先輩で日頃から尊敬していた俳優の杉裕之に由来し、「長門」は易者に診てもらった結果「8画の文字が縁起が良い」と言われて、いずれも8画の漢字を選んだ[3]。
太陽族映画の第1作となる、芥川賞受賞で話題となった石原慎太郎の小説が原作の『太陽の季節』に、「日活の看板スター」という位置づけで主演し、奔放で破滅的な生きざまの青年を好演[注釈 3]。
1961年に、共演した南田と結婚。当時、美男・美女のカップル、理想のカップル、などとして話題となり、ブロマイドなどもよく売れた。
翌1962年に日活を退社してフリーとなる。吉田史子事務所に所属した後、1964年に妻・南田洋子と「人間プロダクション」を設立し[4]、1968年にMBSでテレビドラマ「カツドウ屋一代」を製作・主演したが、凝りに凝った作りだったため2億円近い赤字になった。映画スター達が独立の映画製作プロダクションを設立する流れの一端だった。夫婦そろってCM出演や『ミュージックフェア』の司会などの仕事をこなし、赤字は無事完済している。
1982年からはKBS京都が主催する交通遺児支援のチャリティー番組『かたつむり大作戦』のキャンペーンパーソナリティー(南田は1984年から参加)として2005年の同キャンペーン終了まで出演を続けたことでも知られる。
1985年11月に『洋子へ』(データハウス)を出版。南田への告白という形で、自身の奔放な女性関係などを実名で赤裸々に記し、いわゆる暴露本として世を騒がせた。これに対し、実名を書かれた池内淳子は記者会見を開き、「なぜ私が下着を洗わなければいけないんですか!」と怒りをあらわにして否定した。また、松田聖子を「社会人としての態度がなっていない」「歌は聴くに耐えない」と酷評。長門の事務所をやめて独立した紺野美沙子にいたっては「才女みたいに言われてるけど、パーティーなんかあるとすぐ男と消えちゃう。男のことになると、てんでだらしがないんだ」と断言。紺野は急遽記者会見を開き、激怒のあまり涙を流しながら「嫁入り前の娘がこんなことを書かれて、黙ってられません」と本を叩きつけた。そのほかにも、扇千景、石原真理子などの有名女優についても赤裸々な表現で記述された。長門の後日談によれば酒を飲みながら話していた無駄話が原稿にされたと言い、いずれも真偽不明である。
集中砲火を浴びた長門(データハウス)側は初版を回収し、問題箇所を書き直した改訂版を出したうえ、池内に対しては新聞に謝罪広告を掲載した。長門は「ゴーストライターによる口述筆記だったため真意が伝わらなかった」などと弁明したが、理想的なおしどり夫婦のイメージが崩れたため、南田とともにすべての出演番組とCMの降板を余儀なくされるなど、この騒動が以後の芸能活動に大きなダメージを与えた。ワイドショーの多数の取材を受け、「こんな本はダメです!」と自著を机に叩き付ける場面が繰り返し放映された。
長年かけて復調し、おもにテレビドラマでの敵役や悪役を多くこなし、活躍した。
晩年は「(浮気や、前記の著書で迷惑をかけた人々へのお詫びなどを含め)苦労をかけた洋子への恩返し」として認知症になった南田の介護に取り組みつつ、「リタイアした洋子(=南田)の分まで」と発起し、精力的に活動を行った。介護の様子はテレビでも公開された[5]。小型カメラ2台などにより、生々しい介護の様子、日常生活が明らかとなり反響を呼んだ。視聴率は関東で22.9%、関西で20.6%、瞬間最高視聴率は27%と2008年のテレビ朝日放映番組1位の視聴率を獲得している。
また、長年確執があったとされた津川との共演も増やし、津川がマキノ雅彦名義で監督を務めた作品にも出演した。
2009年4月1日、南田が認知症悪化による意識混濁の状態となり、自宅から都内の病院に緊急搬送され入院。その後長門本人より、南田の病状について会見を行う。「意識は行ったり来たり。このまま植物状態になったらどうしよう、とも考えていた」と、長門は涙ながらに苦しい心境を語った[注釈 4]。5月に手記『待ってくれ、洋子』(主婦と生活社)を刊行した。しかし、10月21日に南田はクモ膜下出血により76歳で死去した。倒れた前日に続き、当日も明治座での舞台公演後に記者会見を開き、「これからは女房のない世界に踏み出していきます。思い出の中で洋子は生きてますから。これは永遠のものです」「4年間、僕が介護することで、僕の人生をよみがえらせてくれて、人生観を変えてくれました」と涙を浮かべながら記者陣に対してコメントを述べた。
亡くなる直前まで出演作品がコンスタントに放送されていたが、南田の死から1年7か月後の2011年5月21日午後5時20分、東京都文京区の順天堂医院にて77歳で死去した[6]。同日夜に津川は病状について「肺炎をきっかけにした合併症であったが、前日は元気であった」と述べ、当日になって容体が急変したことを明かした。長門とはプライベートで60年来の旧友であった浅丘ルリ子も津川と駆けつけてマスコミの取材や応対に応じた。 長門の死去の5日前の5月16日には児玉清が死去している。
長門の訃報を受けて、九年会メンバーで長年親交が深かった橘家圓蔵は「(玉置宏、坂上に続いて)どんどん仲間がいなくなっちゃう」と哀悼のコメントを発表した[7]。この他にも『どんど晴れ』で共演した比嘉愛未が自らのブログで長門を悼むコメントを記し、『池中玄太80キロ』で共演した西田敏行が「玄太は泣いています」と語るなど[8]、長門と縁のあった人々が哀悼のコメントを寄せた。長門・南田夫妻から実弟のように可愛がられて長年親交があった萩本欽一は、弔問に訪れた際「最高の先輩で、友達で、兄貴だった」と声を詰まらせながら話した[9]。
葬儀・告別式は5月24日、東京都港区の善福寺で津川が喪主を務めて営まれ、遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。23日の通夜では中井貴一と笹野高史が、24日の葬儀・告別式では黒柳徹子と奥田瑛二が弔辞を読んだ。法名は「極芸院釋浄晃」(ごくげいいんしゃくじょうこう)。
最後の映画出演作品は2010年10月9日公開の『青い青い空』。テレビドラマの遺作は亡くなる約2か月前の2011年3月26日、NHK放送の 土曜時代劇『隠密八百八町』 最終話であった。
南田は、大映から日活に移籍して長門の同僚となった。当時、南田がすでに“大物女優”であったのに対して、長門はまだ“駆け出しの俳優”であった。南田は日活の専用車で自宅まで送り迎えをしてもらう身分であった。その頃、偶然、南田の自宅と長門の自宅が同じ方向であることが分かり、運良く長門が南田を送迎する車に一緒に乗せてもらうことになった。長門はこのチャンスを生かし、毎日車の中で南田に猛アタックをし続けた。その結果長門は、憧れていた格上の南田洋子の彼氏になることができた。
長門はプライドが高かったため、交際していた南田洋子より自分のほうが年収が低いということに、引け目を感じていた。そのため長門は、自分の年収が南田の年収より多くなるまでは南田と結婚しないと決め、仕事に励んだ。長門が南田と結婚したのは、自分の年収が南田の年収を上回った1961年のことであった。
南田との間に子供はいなかった。妻・南田が出産適齢期だった頃、夫婦で『ミュージックフェア』の司会を長年続け、“おしどり夫婦”と呼ばれていた。そのため長門は仕事を優先させ、南田との間に子供を作らなかった。そのことについて長門はテレビ番組のインタビューで「妻を妊娠させて番組を休ませるなんてことは考えられなかった」と述べている[出典無効]。
以下は全て妻の南田と共演。