阿波国 | |
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■-阿波国 ■-南海道 | |
別称 | 阿州(あしゅう) |
所属 | 南海道 |
相当領域 | 徳島県 |
諸元 | |
国力 | 上国 |
距離 | 中国 |
郡・郷数 | 9郡45郷 |
国内主要施設 | |
阿波国府 | 徳島県徳島市 |
阿波国分寺 | 徳島県徳島市(阿波国分寺跡) |
阿波国分尼寺 | 徳島県名西郡石井町(阿波国分尼寺跡) |
一宮 |
八倉比売神社(徳島県徳島市) 上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町) 一宮神社(徳島県徳島市) 大麻比古神社(徳島県鳴門市) |
阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。徳島県にあたる。
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国、南の地域は長国と呼ばれていた。『古語拾遺』によれば、神武東征において忌部氏を率いて、木国の材木を採取し畝傍山の麓に橿原宮を造営した天富命が、肥沃な土地を求め当地の開拓をし、穀・麻種を植えたという[注釈 1]。のち、律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立した。和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」は「阿波」に変更された。
なお、同音の安房国は、阿波国から移り住んだ人々が開拓したことから名付けられたとする説が『古語拾遺』にある。
中世、鎌倉時代においては鎌倉幕府により佐々木氏、小笠原氏が守護に任ぜられた。室町時代には三管領家の一つである細川氏の支配するところとなるが、戦国時代の到来により小笠原氏の庶流である三好氏がこれに代わることになった。三好氏は三好之長や三好元長の代には京都にも進出し、管領細川氏の重臣として阿波を本国に畿内で権勢を振るうことになる。 1540年代に三好氏は三好長慶の代で最盛期を迎え、長慶の次弟である三好実休が阿波を、三弟安宅冬康が淡路を、末弟十河一存が讃岐を統治し、長慶自身は京都の幕府の元で管領代として中央政治に関与し、本国である阿波の他、弟達の統治する讃岐、淡路、更に和泉や摂津、河内や山城、大和、丹波に加えて若狭や播磨の一部をも支配下に置いて三好氏は勢力的にも歴史的にも最盛期を迎えた。(三好政権。) しかし1561年に一存が急死、1562年に実休が戦死。さらに追い打ちをかけるように1563年に長慶の嫡男で将来を有望されていた三好義興が病死すると、長慶は精神を病んで病気がちになる。 三好氏の勢力は後退し1564年には安宅冬康が長慶によって誅殺される。(理由は不明。この頃の長慶は精神的にも病んでおり、判断力が低下していた。)さらに長慶自身も弟達、息子のあとを追うように1564年に病死する。
家督を継いだ三好義継は飯盛山城や若江城を本拠に三好氏の勢力を保持しようとするも三好三人衆や重臣松永久秀らの主導権争いによる内紛を経て三好氏は弱体化。
その後、1573年に京都を追放された室町幕府第15代将軍足利義昭を保護した義継は織田信長に若江城にて滅ぼされてしまう。
その後、三好氏の嫡流は断絶し、生き残りであった実休の嫡男で阿波三好家の家督を継いだ三好長治が本国である阿波を統治することとなる。しかし、長治は阿波全土の国人や領民に対して法華宗を強要し、支持を失ってしまう。これを良い機会と見た土佐国の長宗我部氏の侵攻にあい、1584年、阿波は長宗我部元親の支配下となる。長宗我部元親は進撃を続け、1585年には讃岐、伊予も手中にし、四国統一を成し遂げる。
しかし、その直後(一説には、伊予の河野氏を制圧して四国をほぼ平定してから僅か3 - 5週間後と言われる)に豊臣秀吉が四国攻めを行う。1585年6月、羽柴秀長を総大将とする10万の軍勢が四国へ送られ、そのうち羽柴秀長、羽柴秀次らの兵は阿波から上陸し、さらに宇喜多秀家は讃岐へ、小早川隆景は伊予へと多方面から四国に攻め込んだ。
元親は2万から4万と言われる軍をもって阿波の白地城を本拠地に対抗したが、準備も出来ておらず、また兵力の差も覆せず、羽柴軍上陸の2ヶ月後には降伏せざるを得なかった。元親は土佐一国を安堵されたが、土佐以外の三カ国は没収された。
その後、蜂須賀正勝(子六)に阿波国ならびに淡路国を加増することを伝えたが固辞。息子の蜂須賀家政が阿波に封ぜられる。また正勝と義兄弟の契りを結んだ稲田植元を客将として招き淡路国と県北部を知行地として任せた。蜂須賀氏は改易されることなく、江戸時代を通じて阿波国徳島藩・富田藩(徳島藩支藩)、および淡路国の国主として阿波・淡路の二国を治めたが、次第に稲田氏を家臣として扱うようになり稲田氏では独立に向けた機運が高まるようになった。
明治に至り、廃藩置県が実施されると阿波は名東県となる。名東県は淡路国(淡路島)も範囲としており、さらに1873年(明治6年)2月20日には香川県も編入した。しかし、第二次府県統合により、1875年(明治8年)9月5日に旧讃岐国部分が香川県として分立再置県、1876年(明治9年)8月21日に庚午事変で敵対した淡路国は兵庫県に編入され、阿波国部分は高知県に編入された。しかし、結局1880年(明治13年)に旧名東県が高知県から分離されて現在の徳島県が発足。四国の各国はほぼ旧国の形のまま県へと移行した。
国府は名方郡にあり、現在の徳島市国府町と推定されるが、未だ遺跡は見つかっていない。
国府跡関連の発掘調査が現在までに30回以上実施されている。それらの結果から国衙関連の諸施設は、蛇行して流れる複数の川によって分断された微高地上に、分散的に所在していたらしいことが分かってきた。 古くは7世紀前半代に溯る可能性をもち、新しくは12世紀まで下る長い歴史をもつことが分かった。
阿波国一宮を称する神社は複数ある。現在「阿波国一宮」と言った場合は大麻比古神社とすることが多いが、大麻比古神社が一宮とされるようになったのは中世以降のことである。古くから一宮とされていたのは上一宮大粟神社(名西郡神山町)であった。平安時代後期に、一宮大粟神社から国府の近くに分祀して一宮神社(徳島市一宮町)が創建された。上一宮大粟神社および一宮神社は式内名神大社の天石門別八倉比売神社の論社であるが、八倉比売神社(徳島市)も天石門別八倉比売神社の論社であり、こちらも一宮とされる。また、忌部神社は阿波国最高の社格を有していたこともあり、「四国一宮」を称している。
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