陳 光遠 | |
---|---|
Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: |
1873年10月8日 (清同治12年8月17日)[1] |
死去: |
1939年(民国28年) 中華民国天津特別市 |
出身地: | 清直隷省順天府武清県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 陳 光遠 |
簡体字: | 陈 光远 |
拼音: | Chén Guāngyuǎn |
ラテン字: | Ch'en Kuang-yüan |
和名表記: | ちん こうえん |
発音転記: | チェン グアンユエン |
陳 光遠(ちん こうえん)は清末民初の軍人、政治家。北京政府、直隷派の有力軍人で、李純、王占元と共に「長江三督」と呼ばれた。字は秀峰。
天津武備学堂を卒業し、武衛右軍で隊官として軍歴を開始した。1902年(光緒28年)、北洋常備軍軍政司総務処総弁に就任する。後に北洋第4鎮第8協統領に異動した。1911年(宣統3年)の武昌起義では、馮国璋の下で革命派の討伐に向かい、第4鎮統制に昇進した。ところが、第4鎮の一部が兵変を起こしたため、それを問われて罷免された。
1912年(民国元年)、陸軍中将兼総統府諮議官として復帰した。1913年(民国2年)、熱河巡防営統領兼赤峰鎮守使に異動する。1914年(民国3年)、袁世凱が直接統率する軍事模範団が成立すると、陳光遠は団副に任命される。さらに新編陸軍第12師師長兼模範団督練に就任した。1915年(民国4年)12月、袁が皇帝に即位すると、陳は一等子爵に封じられた。
1916年(民国5年)6月に袁世凱が死去すると、陳光遠は直隷派に加わるようになった。1917年(民国6年)、京津警備副司令に任命され、張勲が復辟を行うと陳は北京九門提督に任じられたが、その後直ちに張勲討伐に参加している。
馮国璋が代理大総統に就任すると、陳は江西督軍に任命された。段祺瑞が湖南省に南方政府討伐の派兵を目論むと、陳は江蘇督軍李純、湖北督軍王占元とともに、これを阻止する動きに出て、段も断念した。これにより、李・王・陳の3督軍は、「長江三督」として国政でも注目を受けるようになる。
しかし1921年(民国10年)、江西省内の各階層から陳光遠の統治に対する反対運動が起き、陳は下野に追い込まれた。これ以降、陳は軍事・政治の舞台には復帰できず、天津で商売を営んで暮らした。
1939年(民国28年)、死去。享年67。
中華民国(北京政府)
|
---|