陳嗣慶 | |
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各種表記 | |
漢字・チュノム: | 陳嗣慶 |
北部発音: | チャン・トゥ・カイン |
日本語読み: | ちん しけい |
陳 嗣慶(ちん しけい、1175年 - 建嘉13年12月11日(1224年1月3日))は、李朝大越末期の政治家・将軍。
陳李の次男。治平龍応5年(1209年)に大越が内乱によって混乱状態に陥ると、父とともに皇太子の李旵(恵宗)を擁立して妹の陳氏を妃に擁立した。父の死後[1]の建嘉元年(1211年)、正式に即位した恵宗は陳嗣慶・馮佐周に命じて陳氏を正式に迎え入れ、陳嗣慶は彰誠侯に封じられた[2]。ところが、恵宗の母の安全太后譚氏は快く思わず、恵宗を巡って太后と陳嗣慶との間で対立を生じ、やがて恵宗を擁した太后によって追討令が出される。ところが、建嘉6年(1216年)に恵宗が妃とともに陳嗣慶の保護下に入ると、陳嗣慶は輔国太尉に任ぜられて輔政の任を担うこととなり[3]、陳氏一族は各地の反対勢力を打ち破り、外戚として実権を掌握した。
建嘉13年(1224年)に死去。その後は従弟の陳守度が輔国太尉を引き継いで簒奪計画を進め、2年後に陳朝が成立する。陳守度は陳嗣慶の兄の陳承を太上皇に、その次男の陳煚を皇帝に擁立した(太宗)。陳嗣慶は太宗より建国大王[4]と追尊された。